ぬくもり 1
力加減もなく噛んで、申し訳ない。
いいや、アルダが千春の傷に刃を突き立て、抉ったせいだ……。
そもそも、あれだけ凶悪な暴言を吐いておきながら、謝るなんておかしい。
でも、アルダは口先だけで詫びているのではない気がする。
どうして。
どうして?
「お前こそ。何がそこまで、お前を苦しくさせた?」
アルダは掌で、アシュレイの頬を拭った。
その動きで、自分が涙を流していたのだと知る。
「いや、俺が悪かった。何も言わなくてもいい」
涙は現在進行で、流れ続けていた。
アシュレイは唖然と、拭われるままに任せていた。
だが、次から次に溢れ出てきて掌だけでは拭いきれなくなって、アルダは懐にアシュレイの顔を押し付けた。
「うっ……」と嗚咽が漏れる。
頭の中は、疑問だらけだ。
何故、アルダは酷く傷付けたくせに、優しくするのか。
どうして、自分はそんな男の温もりに心を乱すのか。
よく分からない内に、アシュレイは縋って啼泣していた。
「……うあぁああん……」
千春だった頃、施設の仲間は皆傷ついていた。
自分だけじゃない。
と、寂しさを抱えながらも、その気持ちを外に出せず、蓋をして生きた。
アシュレイは王女だから尚更だ。
弱味を見せたくない。腹が立っても、傷ついても、気にしてない振りはお手のものだった。
アルダはそれらを理解して慰めているわけではない。
そうと薄々勘づいてはいても、アルダが差し出した温もりは、アシュレイにとって抗い難い蠱惑だった。
こんなにも温もりに飢えていたのか。
自分で自分が信じられない。
人前で、声を上げて泣くなんて。
しかも、自分を誘拐して売り払おうとした、ならず者の胸に縋って。
***
(慰めて……くれたのよね?)
いつしか、肩でしていた息は落ち着き、アシュレイはゆるやかな呼吸を繰り返していた。
頭が冷えるほどに、包み込んでくれるアルダの体温が心地よかった。
一番最後に抱擁を受けたのは、いつだったろう。
よく知りもしない相手の体温を心地よく感じるなんて、自分で思う以上に情緒が不安定なのかもしれない。
「もういいのか?」
アシュレイが身じろぐと、アルダの声が降ってきた。
抱き締めていてくれた腕が、ゆっくりほどける。
「ごめんなさい。取り乱して……」
名残惜しいなんて、感じてはいけない。
アシュレイは未練を断ち切るように、顔を上げた。
晒したのは取り乱すどころではない醜態だ。
合わせる顔がないような気もするが、お互い様だろうか?
「悪いのは俺だ。口の中は? 切れていないか?」
アルダは背を丸めて、そっと口の中を覗き込む。
その態度は、アシュレイを宥め、包んだ時と寸分も違わない。
気まずさは残っていたものの、アシュレイもなるべく自然に振舞おうと決めた。
「貴方の指のほうがよっぽどひどい傷になってるわ!」
唇に指先が触れ、アシュレイはアルダに加えた攻撃を思い出した。
アルダの手はアシュレイの倍くらいの大きさだ。
指も長く一回りは太いものの、人差し指と中指の関節にがっつりと歯形が付いている。
もう血は止まっているが、皮膚が裂け、赤黒く窪んだ傷口が痛々しかった。
「このくらい、なんでもない」
「まずは傷を、綺麗にしましょう。傷付けた私が言うのもおこがましいけど……清潔な布はある?」
「俺のことはいい。お前は怪我をしていないんだな? 腕は?」
「大丈夫。少しも痛くないから」
これは、少しだけ嘘だ。
手首をくるりと捻って、無傷をアピールしようとしたら、途中で引っ掛かるような痛みがあった。
けれど、アシュレイは自分から殴り掛かったのだし、そこは隠し通そう。
アルダのほうは、指の噛み傷はともかく、腕や身体には損傷がなさそうだった。
力一杯殴ったのに、良く鍛えられているなと感心する。
「水は外?」
部屋を見渡すと、隅に水瓶を見つけた。
「なら、自分でやる。お前はトイレに行きたがっていただろう。外へ出て右だ」
「えっ? ああ、そうだけど……」
唐突な話題を振られて、一瞬戸惑う。
指摘されてみれば確かに、尿意は自覚できるほど蘇った。
けれど、この話の流れで「じゃあ」と答えるのも気が引ける。
「時間が経ったから、更に切羽詰まっているだろう? 早く行くといい」
躊躇っているアシュレイの肩に手を置くと、アルダは器用にアシュレイを回れ右させた。
「今更もじもじするな。さあ」
アルダは自分の主張が済むと、軽く背中を押した。
振り向いた時にはもう背を向けて、さっさと水瓶へ歩み寄っていた。
広いダイニングキッチンのような間取りの端には、簡易なキッチンが備えられている。
アルダの提案を無視して、後になって行きたいとも言い出しにくい。
割り切ることにして、アシュレイは指示されたドアから外に出た。
トイレは建物の外に設置されていた。
予想通り、周囲は木々で囲まれている。
益々、山小屋のような佇まいだ。
カミールが別邸と呼んでいたが、同じ敷地内に本邸があるのだろうか……。
ともかく用事をさっと済ませて、再び部屋に戻る。
手伝うつもりだったのに、アルダは既に手当てを終えていた。
右手の指2本に、布切れを巻きつけただけだった。




