4話~5話
4話
「凄ぇな……。まだタイム縮んでるぞ」
「試算では、まだ縮む余地が残ってる筈だ。驚くには及ばんよ」
早朝、ニムの頼みで近くの河原を走るようになってから、もうどれくらい経っただろう。身体への負担を考慮して最初はごく軽く短く、次にやや速く長めに、そしてまた少しずつ……と、ほぼ毎日続けていった結果、距離もタイムもえらいことになってきていた。
勿論、俺が感じる身体の疲労は相当なものだった。運動なんてもう長いことしようとすら考えてなかったから当然か。ニムさんのお陰で俺は、走るってのがどれだけ辛く恐ろしくかったるい行為だったのかを、嫌と言うほど思い出した。同様に、汗をかいたあとに飲む水の味や、浴びるシャワーの感触、食べる飯の旨さもだが。
こういうのは、ニムが俺の身体を引っ張りあげてくれなかったら、きっと今後ずっと思い出すことはなっかたんだろうなと思う。迷惑な話だ。全く。
「大丈夫かテルオ? どこも辛くないか?」
「ああ全然。猛烈に暑くてダルくて脇腹も痛むけど」
「すまない。すぐシャワーを浴びて休むから辛抱しててくれ」
「いや、大丈夫だよ」
ニムは本当にいい奴だ。こいつが言ってることのどれだけが本当の事なのかはさっぱり分かっていないのだけど、確かめようがない以上どうしようもない。実際俺は、例えば5秒後くらいに、ニムに殺されたとしても特に驚きはしないだろう。
俺の事を労ってくれるのも侵略目的だとはっきり言ってくれているし、好きにしたら良いと思う。ニムと話をするのもニムの発想や心情に触れるのも楽しいけれど、こいつの精神の本体は、結局のところ超高性能なコンピュータの中にあるわけで、厳密には生物ですらない。だけど、だからって俺が楽しいと感じてる事実自体には何の影響もない。
「なあニム」
「何だ?」
俺は、体温よりほんの少しだけ暖かいシャワーの水が、体表面の汗を洗い落として行くのを感じながら、
「今朝の朝飯も、きっと旨いんだろうな」と、言った。
「ああ、任せておけ」
ニムが、俺の口角を少し持ち上げながらそう答えた。
***
「食欲不振、睡眠障害、悪寒、下痢……。典型的なハッキングストレスの初期症状だな。……すまない。私の責任だ」
「違う。……いや、違わないけど、気にすんなよ」
テルオはそう言うが、責任の所在は明らかだ。そして私は謝罪がしたいのであって、議論がしたいわけではない。取り合えず私はテルオの身体をベッドに横たわらせて、悪寒と腹痛が治まるのを静かに待つことにした。
ストレスの大きな原因は目星が付いていた。先日、私がやらかした「寺島テルオ 陽キャ化計画」。あの計画自体は失敗したが、その後も地道に色々と画策して行く内、テルオと私を受け入れてくれるコミュニティも少しは現れ始めていた。不人気な講義の一角や、ゼミの片隅といった程度だったが、私はテルオ以外の地球人ともコミュニケーションを交わす事が出来、その刺激を楽しんだ。そして、それらコミュニティのツテでサークルにも入ってしまった。『IT研』という、要はギークの集いであったが、テルオにも溶け込めるだろうと考え、安易に入会を希望してしまった。テルオ自身も別に構わないと言ってくれてはいたのだが、結論を言うと駄目だったようだ。
「何でだろうな……」悔しそうにテルオが呟いた。
「……サークルの居心地や、雰囲気が合わなかったのでは?」
「そうでもないんだけどな。それに、会話とかは全部ニムに投げっぱなしだったわけで、俺がストレス感じる余地なんかないだろ? ……なのに」
「なら多分、こういうことだろう」
私は、私の同胞が他の地球人をハックして失敗したケースの中に、今のテルオと近い症状が発祥した例があるのを思い出し、その内容を語った。
「その同胞は二重人格を装ってハックを試みたそうだ。当初、計画は上手く運んで、宿主との関係も概ね良好だった。だが同胞が、宿主とは本来折り合わない人物との接触を繰り返すうち、今のテルオのような症状を引き起こしてしまったらしい。その原因は恐らく、対人関係で発生する無意識な緊張感ではないかと、私は考えている」
「……無意識な、か」
「そうだ。想像で語ってしまうが、君はサークルのメンバーを深層心理下では全く信頼できていないのだろう。会話を私がやっているせいで、君自身が信頼関係を築けているわけではないから仕方のない事だ。そして信頼できない人間が何人も周囲に居る状況が、君に緊張を強いてしまっていたのだ」
「あー。要は、俺が人間不信だからって事ね」
「自分を卑下するな。私が言いたいのはそういう事じゃない」
私はテルオを弁護しようとするが、大体こういう物言いが彼に通用した試しはない。テルオは一度自己嫌悪を始めると長時間落ち込んでしまう。私は万策尽きてしまって黙り込んだ。
「……いや、俺が落ち込んでる場合じゃないな」
ふと、テルオが口を開いて、顔を上げた。
「俺がしっかりしないと、ニムは困るんだろ? なら、俺が頑張らないとな」
「気持ちは嬉しいが……無理はしてくれるな。サークルだって、辞めてしまっても別に構わない」
「いや、克服する。でないと就職活動だってマトモにはできないだろ? 俺自身の為でもあるしさ」
妙に前向きな態度を示すテルオだが、私は逆に不安だ。それに、新たな疑問も沸いた。
「なあ、テルオ。……ひとつ気になったんだが、なぜそうも人間不信だと自分で言う君が、私と四六時中一緒に居て、平気だったんだ?」
「だってニムは敵だろ?」
「え?」
私はテルオの口から素っ頓狂な声を出してしまった。
「最初から『私は君の敵だ。これは戦争だ』って言ってたろ? だからさ。それだとなんつーか、距離を測るとか、関係構築とか、そういう面倒なのをする必要がないだろ?」
テルオは至極冷静に分析して語った。そして私は気が付いた。
テルオは、馬鹿ではない。他人を信じられないわけでもない。
彼が信じられないのは、他でもない自分自身だったわけだ。
5話
「……テルオ、君は他人の敵意なら信じられるが、好意は信じられないというのか?」
「??……どうだろ。少なくとも、『好き』って言われるよりは『嫌い』って言われる方が、俺は腑に落ちると思うよ」
まあ、好きと言われた事はないけどなと付け加えながら、テルオは気だるそうに答えた。
成る程、テルオの言葉がどこまで本心を反映しているのか不明だが、少なくとも今の状況と符合はしている。テルオのストレスは、極論すると彼が彼自信を肯定できていないという事実を前提としているようだ。極端に自信のない人間は、他人からの肯定の言葉が自己評価と一致しないために、好意的な他者の言葉を丸きり否定してしまうという。つまりテルオは大学で、他者から拒絶されていたわけではなく、他者を『自分から』拒絶していたという事になる。
そして私は焦りを感じた。何故だろう。私は今度は、自分の感情を探る思考を始めた。テルオをハックし続ける為に彼のストレスを取り除くことは簡単だ。サークルも何もかも切り離して、テルオを再び孤独な状態に戻してやればいい。だが、それは短期的には問題ないかもしれないが、長期的には様々な問題を抱え続けるという選択だ。いつかは破綻する。……いや、そういう問題ですらないのかも知れない。
「テルオ……」
「どうかしたか?」
「いや、いい。すまない。今は休んでてくれ。一旦ログアウトする……」
私はそれだけ言うと、母船内の自室に帰った。テルオとの感覚共有が切れ、頭痛や悪寒、倦怠感が一瞬にして消える。視界がブラックアウトして、私の目には自室の風景が飛び込んできた。
自室、と言うが、今の私の部屋は草原だ。地球の東ヨーロッパにあるという、とある地域の情報を元に風景を構築してある。空は澄み渡り、地平線は遥か遠い。風の臭いも太陽の肌触りも感じる。ただし、いずれも不快に感じないレベルでだ。母船は様々な情報を様々な場所から集め、船員たる我々に快感を与えてくれる。故に、常に我々は快適で、安全な暮らしを送ることができる。無論、スリルが欲しければそういう環境や物語の世界に身を置くこともできる。だから本来、我々には不便な地球上の生活など必要ない。はずなのだが。
草原の上に私はベッドを出現させて横たわった。日差しは暖かく、風は涼しい。頭上を鳥が横切って行く。極めて雄大で心地よい環境の筈だ。だが、それらの感覚は私の心を癒し切る事ができなかった。止めよう。私は部屋を初期状態に戻した。一瞬で風景は切り替わり、宇宙空間の暗闇が周囲を満たす。ああ、この方がまだ、真実に近い。そのまま私は目を閉じ、意識を暗転させた。
***
ニムは何が言いたかったのだろう。することもないので色々考えてみた。頭痛が思考を妨げるが、別に構わない。どうせ本当の事なんか誰にもわからないのだから。
あの口調からすると、多分「もっとしっかりしろ」的な事を言いかけたのだろうかと、まず思った。いや、違うような気がする。ニムは俺を叱るような事はしない。任務上できないし、他人に何かを口で要求するより先に自分で手足を動かして解決しようとするタイプだからだ。だとしたら、もしかして、俺を励まそうとでも考えたんだろうか? 「お前だって誰かに好かれるはずだ」とか「世の中捨てたもんじゃないぞ」とかそういった趣旨の事かな? だとしたら、黙ってて正解だ。俺は、そういった言葉を信用できない。分かってる。これは俺の持病みたいなもんなんだ。
いつからだろう。中学受験に失敗した時? それとも親が離婚した時だったか? まあいいや。とにかく昔だ。俺は自信や希望を持つ事を止めた。それはとてもいいアイデアだった。そりゃ全くそういったものを切り離したら、人は生きることが出来ない。それも知っていたから俺は、常にバランスを気にしながら、それでも努めて無感動に生きる術を身に付けていった。できるだけ望まない。できるだけ低いところを、平坦を、静かに這うように生きる。それでいて暗闇に沈み込まないように。適切な位置を探しながら。
そうやって生活するのに慣れ、飽きないように適当な刺激も自分に与えながら、モラトリアムな日常をそれなりに楽しんでいた最中に、彼はやって来たのだ。戦争をしようと言って。正直勘弁してくれと思った。けれど実際は、彼こそ俺の望んだ存在だったのだ。俺が何も考えなくても、俺を生かしてくれる。生活の煩わしい全てから俺を適切な距離で隔絶してくれる唯一の存在。それがニムだったのだ。