腐敗の温床
外区画への道中、商人たちが教戒師を襲っているのを目にした。舟で接近し、多人数で奇襲をかけるのが彼らの常套手段らしい。
こんなことは今まであり得なかった。
僕が孤児院に籠っている間に、世界が変わってしまったみたいだった。
ハニカム商会は何を考えている?
異端の聖典とは、聖地を敵に回してまで手に入れたいものなのだろうか。一体、どれほどの価値があるというのだろう。
荒れる聖地を眼下に収めながら、僕たちは先に進む。仮面を通して教戒師と審問官の目を覗いているため、大聖堂に気取られることなく外区画に入ることができた。
〇
これほどに嫌悪を感じる場所を僕は知らない。外区画三十五番街に蔓延る歓楽街こそ、聖地の恥部だ。
日の出ているうちは、他の外区画と変わらない陰湿な場所に過ぎないが、夜になるとどこからともなく舟が集まり、水路上に集落を形成する。都市ではなく、水路の上での商売は大聖堂の管轄外であると主張しているらしい。ならば何故他の区画でも同様のことをしないのだと問われれば、当然、即日に潰されるからだ。
こんなにも愚か者どもが増長している理由は一つしかない。僕は視界の先を見据える。奴らの建物は、どこでも同じような姿をしているという。二本の塔が角のようにそびえる奇妙な建物……ハニカム商会の根城、商館だ。
商会は大聖堂と取引し、聖地の市場をほぼ独占してしまった。今では、都市での商売は商会と提携しなければ話にならない。急速な変化は多くの没落貴族を生み、また、平民たちの台頭を招いた。影響力が増えるにしたがい、商会には多くの特権が与えられることになる。その一つが相互不可侵契約だ。大聖堂は商館に立ち入ることができず、この区画には教戒師も配置しない。その結果、腐敗の温床となってしまった。
どうして商会がこれほどの自治権を勝ち取ることができたのか。それを成したのが二代目と呼ばれる商館長だといわれている。人身売買も、薄色魔石の流通も、この男が仕組んだことだ。滅多に商館の外に出て来ないとはいえ、ギルドの定例会などに顔を出しているはずだが、僕はまだ一度も姿を見たことはない。一体どんな男なのか……。
ルシエルが僕の肩を叩く。
「また来たぞ」
彼の指の先を見ると、水路の向こうから大型の舟がやって来た。長さだけでも、普通の舟のざっと四倍はある。八人もの男が乗り、舟を漕いでいた。全員が商人というわけではなく、商兵らしき男も何人かいた。ここで見ている間でも、もう三艘の舟が商館に入って行った。だが、これまでとは違い、今度の舟は一艘だけで他に護衛もないようだった。
「俺から行こう」
そう言うや否や、ルシエルは屋根から飛び降りた。
彼が舟に飛び乗った途端、紫の煙が周囲を覆った。舟を漕いでいた商人たちがバタバタと倒れる。突然の乗船客を、きっと視認すらしていないはずだ。
まだ立っている男が二人。商兵だろう。舟の中央にいるルシエルと、両端に立つ男たちの間には積み荷があり、互いに相手の位置が分からない状態にあった。僕の出番だろう。
僕は民家の壁を駆け下り、舟へと飛び乗った。積み荷の上に立ち、ルシエルに舟首の男の場所を教えた。僕は舟尾の男を見下ろす。他に人がいることを予測していたのだろう、男は冷静だった。素早く、腰から何かを抜いた。剣かと思ったが、違う。筒状の武器だった。
直後、轟音と共に赤い閃光が走った。僕の肩をかすり、背後の民家の壁に大穴が開いた。魔砲だ。ハッと振り返ると、船首の男も僕に筒を向けていた。撃たれる――。
バシッと大きな音が鳴った。
しかし、発砲の音ではなかった。魔砲を持った男は何やら焦って筒を叩いたりしていたが、閃光が発せられることはなかった。
ふと見ると、ルシエルが船首の男に剣先を向けていた。彼は涼しい顔で、「悪いな、俺の前では撃てないよ」と、言った。
「化物め!」
そう叫ぶや、商兵たちは筒を捨てて剣を抜く。船尾の男が積み荷に飛び乗って来た。男の大ぶりな剣を避け、すかさず腹に拳をぶち込む。そのまま顎を蹴り上げ、意識を奪った。振り返ると、ルシエルももう一人の男を無力化していた。
「……さっきのは無色魔法か?」
倒れ込む男を床に寝かせながら、僕はルシエルに訊ねた。
「さてね」と、ルシエルは肩をすくめた。
魔法を無力化するという無色のセフィラ。この魔法社会の中で、これほど恐ろしい力があるだろうか。無色と紫色の複数のセフィラを持つ男……。普通、セフィラとは一人につき一つだけで、二つ以上の要素を持つものは混色と呼ばれるはずだ。僕はこの聖地しか知らないが、セフィラの複数持ちなんて聞いたことがない。自分は特殊だと前に言っていたが、そういう意味か? 無色だと、洗脳魔法の解除もできるのだろうか。
「魔砲か。商会は恐ろしいな」
ルシエルは筒を手に取り、検分する。僕もチラリと様子を窺う。魔砲とは魔道具と呼ばれる魔法を一般化する道具の一つで、圧縮された魔法を光のように放出する武器だそうだ。
「まだあまり広まっていない最新技術だが……商会はいち早く取り入れている。いずれ、魔法は魔砲に駆逐されるというのが彼らの考えらしい。剣もいつかは時代遅れになってしまうのかな」
魔砲には持ち手の先に丸い膨らみがあり、そこに魔法陣が刻まれていた。教戒師の手や、審問官の籠手に刻まれているものに似た、赤色魔法陣のように見える。しかし、魔砲には深い亀裂が走っていた。
「……一発しか撃てないんじゃ、まだしばらく先の話だろうけどな」
「さっきは、その魔法陣を無効化したんだな?」
「どうなんだろうな」と、ルシエルは筒を調べながら言う。
「違うのか」
「手の内を明かすつもりはない」
魔砲を商人に返し、ルシエルは言った。
それから、積み荷の蓋を開ける。中には大量の魔石が詰まっていた。
「お前の目的の物か」
「ああ。薄色魔石だ」
ルシエルは近くの男の頬を叩き目覚めさせると、手際よく洗脳した。
「この魔石は大聖堂からの贈り物か?」
とろんと眠たげな目をする男に、ルシエルは訊ねる。
「商売だ。俺たちは大聖堂から魔石を買っている……」
「やはり。魔石の出どころは大聖堂か」
「この荷は全て魔石なのか?」と、僕は尋ねる。
「ああ」
「子供はいないか?」
「俺たちは……運んでいない。だが、別の舟で運んでいる……」
「入って行った舟がそれだろう」
聖地中の孤児院から子供たちをさらっているのか。
だが、奴らはこれまで慎重に事を進めていたはずだ。どうして急に強行に出た?
「お前たちは何を企んでいる?」
「知らない……二代目の考えることだ……分かるはずがない……」
すると自分の言葉に怯えるように、男は震え出した。
ルシエルは素早く男を眠らせる。
「忠誠心か、それとも恐怖かな。自力で洗脳を解きかけた。二代目とは何者だ?」
「商館長だ。かなりのやり手らしいが、僕も詳しくは知らない」
「ふうん」
ルシエルは他の積み荷を調べ始める。
「どこかに入れる箱はないかと思ったが……難しいか」
彼の言う通り、全ての箱に魔石が詰まっていた。
「魔石を捨ててスペースを作ればいい」
僕の提案を、ルシエルは無言で却下した。証拠品はなるべく無傷で押収したいとでも思っているのだろうか。
先ほどとは別の男を洗脳し、商人のふりをして侵入することが可能かどうか尋ねた。彼によると、中で簡単なチェックがあり、体に彫ってある商会印の確認が義務付けられている。そのため、商人に扮するのは難しいだろうとのことだった。
男は実に簡単な方法を提案した。
僕に少し下がるように指示すると、底板を外した。床下には、辛うじて人が寝られるスペースがあった。
なるほど、こういう隠し部屋を使って聖地に侵入したわけか。だが……こんなもの、ちゃんと調べれば見つけられないはずがない。市門の検査員に商会の手が入っている可能性がある。
ルシエルは腰の剣を鞘ごと取ると、「持っていてくれ」と僕に手渡した。それから、床下に潜り込む。剣を返すと、底板を閉めるように催促した。僕は男に他に隠れ場所はあるのか尋ねる。同じようなスペースがあるにはあるが、現在は積み荷で塞がれているらしい。隠れられるのはここだけ、か。
僕も床下へと足を突っ込む。
「おい、何のつもりだ? ここはもう無理だぞ」と、ルシエルは言う。
「つめろ」
「定員オーバーだ」
「つめろ」
「まったく」
ルシエルは横につめようとしたが、しかしどうしてももう一人分の隙間は空かなかった。構わず、強引に侵入する。必然的にルシエルに背中から抱かれる形になってしまった。
「狭い」
「俺の台詞だ」
「僕に触れるな」
「よし、出ていけ」
商人の男が底板を閉めた。
しばらくすると、舟が動き出した。激しく上下に揺れながら、水を掻き分けて進んで行く。ルシエルが洗脳を解除したのだろう、男たちの話し声と床を踏みしめる音が聞こえる。誰かが頭上を通り過ぎるたび、大きく軋んだ。僕たちのことは忘れているらしく、舟はそのまま進んでいく。
板の継ぎ目から漏れる明かりを、ぼんやりと眺めていた。身動きもできない狭い空間。まるで棺の中のようだ。こういう狭い場所に閉じこもっていると……何だか意識が薄れてくる。眠たいわけじゃない。どうしようもないことなんだ。人格の交代――。幕が下りれば場面転換。主役に舞台を譲らなくては。
「……ほら、ここに来て」
彼女は僕に手を伸ばした。
光に目がくらみそうだった。
影の中こそが、僕の全て。
そう思っていたのに。
僕は手を伸ばした。
伸ばすしかなかった。
「ね、お日様って気持ちいいでしょう?」
僕は何と答えたんだっけ。
……忘れた。
どうせ夢だ。
現実のことじゃない。
でも、現実だったらいいなって。
そんな夢だ。
「……」
ふいに、耳元で声が聞こえてきた。
「……君はまた変わった子だな」
ルシエルの声だった。
ハッとする。
いけない。本当に眠ってしまったのだろうか?
「……何か言ったのか、僕は」
「守ってほしいと」
「誰を?」
「君をだよ」
意味が分からない。




