心
食堂から出ると、カルミルは僕を外に連れ出した。先ほどまで外からは子供たちのやかましい声が聞こえていたが、一人もいなくなっていた。廊下を走る音がしていたから、ネテルのところに行ったのだろう。
庭を歩きながら、カルミルは語る。
「ここを訪れたのは……半年ほど前だったかな。大聖堂からの仕事のためだった。不審な仮面の男たちが目撃されたため、教戒師を指揮して捕らえるように命じられた。それがこの辺りの区画だった」
「そんな話、聞いていない」
「僕に言われても困るよ」と、カルミルは肩をすくめる。「いつものことだろう? 情報の共有が制限されるのは。その時、君はまだ首席ではなかったし」
「それで?」
「僕は目標と相対した。情報通り、おそろいの仮面を被り、ローブを身に着けた怪しげな集団がいた。教戒師の目から逃げ切れず、身動きが取れなくなったんだと分かった。馬鹿みたいに路地で立ち往生していたからね。彼らの仕草を見れば、ただの変装した市民であることは明らかだった。僕なら簡単に制することができるはずだった」
「まさか」
「そうさ、僕は敗れた。彼らに接近した途端、影の中から怪物が現れた。そいつはとてつもない強さで、手も足も出なかった」
「何者だ」
「知らないよ。ただ、彼も仮面を被っていた」と、カルミルは肩をすくめた。「怪物君は僕を追ってきた。厄介なことに、彼は市民洗浄ができるようだった。住人たちが次々に家から出てきて襲いかかってきたんだ。あれほどの数の人間を、それも同時に操ることができる者がいるなんて――いや、グレンならできたのかもしれないが、少なくとも僕や君には不可能だ。僕はもう実に無様に逃げ回ったよ。とにかく洗浄が怖かったから、この孤児院に逃げ込んだ」
なるほど。確かに洗礼者がほとんどいないこの孤児院なら、洗浄の危険はない。逃げながらにしては頭が回ったな。
だが、気になったことが一つ。
「教戒師たちは何をしていた?」
「それがね、いつの間にか一人もいなくなっていたんだ」
「どういうことだ?」
「彼らは教戒師を操作できるんだよ。配置を動かし、僕を孤立させていたんだ」
「なるほどな」
仮面どもの正体は異端信仰者たちで間違いない。ではやはり、奴らは審問官と同等の力を得ているのだ。
僕は手ぶりで先を促す。カルミルは話を続けた。
「僕は水路に潜り、追跡をかわした。なんとか水路から這い上がったが、もう身動きが取れなかった……」
痛む体を引きずりながら、カルミルは木陰に隠れた。マスクを外すと、呼吸が楽になった。そのまま、目をつむる。
「ごはんよー」
状況に似つかわしくない、間の抜けた声がした。ハッと目を開けた。たくさんの目がカルミルを見下ろしていた。子供たちだった。
「消えてくれないか」と、カルミルは言った。
子供たちは消えてくれなかった。
「みんな、そんなところで何しているの? 夜に外出ないでっていつも言ってるでしょ!」
そして、ジュリアが姿を現した。「ごはん! 呼んだら一回で来なさい!」
怒り心頭の彼女は子供たちの間に割って入って来たが、カルミルを見ると、ハッと息を飲んだ。ジュリアはすぐに子供たちを室内に入れた。
「ど、どうなされたのですか……」
カルミルが答えないでいると、彼女は室内へと戻っていた。
人を呼びに行ったのだと、分かった。一刻も早くその場を去らなければ……まだ賊は近くにいる。騒ぎがあれば気づかれてしまう……。しかし、体の痛みがひどく、一歩も動くことができなかった。マスクを被り、煙を吸おうと思ったが、どこにもなかった。子供たちが持って行ってしまったのだと気がついた。状況は明らかに最悪を示していた。それに気づかないほど下等ではない彼は、全てを諦め、一人静かに目をつむった。
「あの……」
声がして、目を開ける。建物に入ったはずのジュリアが、カップを手に戻って来た「お水……」
「ジュリアは僕を匿ってくれ、ベッドの一つに寝かせてくれた。すぐにマスクを取り返してもくれた。煙を吸うことで痛覚を麻痺させることで、僕は動くことができるようになった。朝になるのを待ち、立ち去った。僕はジュリアに助けられたんだ」
それでジュリアに対して好意を持ったというのか? そんなことで? 嘘だ。その程度の事で審問官に心が芽生えるはずがない。
「僕はコーデリア様に報告をした。仮面の男たちのことは他の審問官に任せると言われた。誰が対処したのかは知らない。ジュリアを洗脳しなかった不手際を責められたけれど、新たな洗脳を命じられることはなかった。孤児院は大聖堂の中でもその管轄が微妙と言うこともあるのだろうが、単純に孤児たちの立場がその程度ということだろうね。数日後、僕は孤児院に戻って来た。ジュリアを洗脳するためだ。命令ではなかったが……自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければ気が済まない質なものでね」
僕はコクリと肯く。
下等のままでは終われないだろうな。
数日後の夜に、カルミルは孤児院に戻って来た。孤児たちはとうに寝静まり、死のような静寂がそこにあった。前に訪れた時、ジュリアの部屋には心当たりをつけていたそうで、音を立てずにその部屋へと向かった。しかし、そこに彼女の姿はなかった。
一階で物音がした。赤子の泣き声だ。
ジュリアはいた。癇癪を上げる赤子をあやしながら、寝たきりの子供の介護をしていた。傍目から見ても、その子がもう長くないことは分かった。年長の孤児たちが交代で世話をしているようだったが、ジュリアだけがいつまでも眠らなかった。痩せている割に、人一倍体力があるらしい。しばらくして、他の子たちに懇願される形で、ようやくジュリアは寝室へと向かった。
カルミルは活動を開始する。影の中から出て、彼女をさらった。食堂に入り、机の上に押し倒す。それから呼吸器を外し、彼女の顔につけようとした。
しかし、カルミルは手を止める。ジュリアの顔に酷い痣ができていたからだ。
「あなたは██様ですか?」
震える声でジュリアは言う。彼女は痣を手で隠した。「こんなものは……何でもありません。お気になさらず……。衆目で迂闊な行動をとってしまった私が悪いのです。どうやってお詫びしようかと考えていました。まさか、あなた様の方から来ていただけるとは……」
ジュリアが呼んだ名前が聞こえなかった。それは間違いなく表の自分のことだった。だとすると、ジュリアに痣をつけたのは、表の自分……。
「ジュリアは表の僕に近づいた。街で見かけて声をかけたらしい。それで、どうなったか。彼女は激しい打擲を受けたあげく、水路に突き落とされたそうだ」
「酷いことをする奴だな。グレンみたいだ」
「君だろ」
僕はそんな理性の無い行動はとらない。抗議の意を込めて睨みつけるも、互いに顔は見えないものだから効果はなかった。カルミルは無視して話を続けた。
「ジュリアに煙を吸わせれば、それでおしまいのはずだった。だが、僕にはできなかった。表の僕がジュリアに手をあげたという事実が、どうしても納得できなかったからだ。都市にはそういう者がいる。孤児や平民たちを見下し、人間扱いしない者たち。自分たちを選ばれた特別な存在だと勘違いしている者たち。ジュリアはとても優しい子だ。初めて会った晩の、あの短い時間だけでもそれは分かった。決して、話しかけられただけで殴られていいような子ではない。大聖堂に属する審問官として、表の自分が愚かな人間であることが許せなかった」
潔癖が悪い方に出たのか。
「僕はマスクを外し、ジュリアに素顔を晒した。それから、彼女に謝罪した。僕には悪い人格があって、それが君を傷つけた。もしも今後、街で自分に会うことがあっても、絶対に近づいてはいけない。僕は何度でも君を傷つけるはずだから、と。それから、彼女に煙を吸わせた」
「洗脳したのか?」
「認識を操作した。彼女は審問官の姿のことは忘れているよ」
「コーデリア様には?」
「もちろん報告した。『そうか』と言われたよ」
「どうしてそこで終わらなかった」
「どうしてだろうね」
カルミルは呟く。とぼけているというわけではない。自分でもよく分からないのだろう。
「あの夜……最初にここを訪れた晩、ジュリアは僕に孤児院の現状を教えてくれた。そして大聖堂に戻り、観察してみたが、誰も孤児のことなど気にかけていなかった。僕だって、それまで頭の片隅にさえなかったものな。ジュリアを洗脳するために孤児院に戻って来た夜、死者が出たんだ。彼女たちが世話をしていた子が、亡くなった。まだ夜の明けない早朝から、孤児たちは死者を囲って祈りを捧げていた。やがて夜が明け、部屋の窓から陽光が差し込んだ。その光景は、まるで絵画のように美しかった。そして思った。それはどう見ても敬虔だ。彼らは信徒だ。大聖堂の洗礼を受けているから信徒なんじゃない。聖人様を敬い、共に祈るその心さえあれば、誰もが聖人様の子なんだよ。僕は初めて大聖堂に反した。孤児たちと共に祈りを捧げたんだ。疑問や違和感なんてなかったよ。敬虔の一部となり、僕は生来初めての高揚を感じた。身の内の中に確かな震えを感じた」
「それが……」
「心……なのかもしれないね」
胸部の心臓辺りを手で押さえ、カルミルは言った。
風が吹き、木々の葉が揺れる。何の偶然か、カルミルは光に包まれた。陽光が差した一瞬、彼の顔の輪郭が見えたような気さえした。こいつは確信しているんだ。自分に心があると。影の中にいる僕を、余裕をもって見下している。
震えだと? そんなものは心ではない。激しく動き回れば僕だって身の内くらい震える。同一化していないこいつが心を獲得するはずがない。ただの勘違い……そうであってほしいという子供染みた愚かな願望に過ぎない。それを聖人様への信仰だと自分では認識しているから、背信と捉えられなかったに違いない。結果的に大聖堂の目を欺けた……と。
「鐘楼で……仮面を取らなかったのも、それが理由か」
「ここにいる時に何度も鏡で見ているから、顔が見えないことは分かっていた。寮長にも見えていなかったしね。でも、あの時も言ったように、グレンの顔が見えるのは心を手に入れたからではなく、大聖堂が認識を操作したからという考えを捨てられなかった。そもそも、僕は君がグレンを壊したと今でも思っているからね。そんな奴が顔を見せろと言ってきても、はいそうですかというわけにはいかないよ」
顔が見えないことに心の有無は関係ないと言いたいわけか。
都合のいい考えは捨てろと言おうとしたが、やめた。今のこいつに何を言っても無駄だろう。無敵か、この馬鹿。




