██は██に██して██。
僕たちは廊下を歩き、食堂らしき場所に向かう。すぐに子供たちに囲まれてしまう。
食堂には二つの長い机が並んでいた。瞬く間に子供たちに占領され、僕たちは立ち尽くすしかなくなった。ジュリアの怒声が部屋に響き、一時的にスペースができたところで、僕とカルミルは向かい合って腰を下ろした。
ジュリアはカップを二つ持ってきた。薄汚れているが、ここにある中では精一杯に上等な物なのだろう。さらに、彼女はいかにも硬そうなパンを持ってきた。子供たちの目が輝く。とっておきらしい。
「どうぞ」と、お茶とパンを勧められる。
どうぞと言われてもな。
カルミルを見ると、当たり前のようにカップに口をつけた。それから、パンを小さくもぎると、顔に近づける。パンの破片は彼の口があるらしき場所に近づくと、途端に消えた。面白い光景だ。カルミルは皿を子供たちの前へと運ぶ。「みんなで食べなさい」
子供たちは我先に手を伸ばす。
「こら、ちゃんと均等に分けなさい!」と、ジュリアは叱る。
それは無理じゃないか?
僕は皿を差し出す。子供たちはピタッと動きを止め、皿の上のパンを見つめる。ぱあっと僕に笑顔を向けると、次の瞬間にはパンを奪い合った。
「大事なお客さんなのよ、もう! みんな出て行きなさい!」
ジュリアが一喝すると、ほとんどの子供たちはパンの取り合いをしながら去って行った。残った数人の子供たちはお互いの顔を見ながらクスクス笑い合い、こっそりと手に入れたパンの欠片をみんなで分け合っていた。
「申し訳ございません。お二人の前でとんだ粗相を……」
頬を朱に染め、ジュリアは頭を下げる。
「いや、気にしないでいい。彼らの元気な姿を見ることができて嬉しいよ」と、カルミルは言った。
何?
「子供たちは都市の宝だからね」
何だこいつ。
「彼らが元気であるほど、都市の未来は明るいんだ」
本当に何だこいつ。
何を歯の浮くようなことを言っているんだ。洗礼を受けていない子供なんてどうでもいいと思っているはずだろう。何故心があるようなふりをする? 同一化をしていないお前に心なんてあるはずがない。お前は空っぽだ。空っぽなんだ。僕と同じように……心の無い空虚な人形じゃないか。そんな風に小娘の手に、自分の手を重ねるような真似をするな。
「██様……」
小娘、お前も惚けたようにカルミルを見るな。
何だこいつら?
意味が分からない。殴ればいいのか? 本当に分からない。何だこの状況は。どうして僕はこの空間に居させられている?
孤児を廃人にするためにカルミルはここにいた。大聖堂からの指示なのか、商会からの指示なのか、それは分からない。普通の人間のような態度で、いかにも親し気にジュリアと接している。孤児たちに受け入れられている様を見るに、明らかに何度もここに顔を出しているようだ。
つまり、こういうことか? カルミルは何らかの理由からここに定期的に顔を出しており、ジュリアや孤児たちと親密な関係にある。孤児たちを廃人にしていたのも、任務ではなく、奴の自発的な行為。その理由は、情が移ったからだと考えると得心が行く。奴の言う通りだとすれば、苦痛を和らげようとしたのだ。
この仮説は概ね正しいように思えるが、しかしいくつか疑問が残る。審問官の仕事の合間にそうたびたび自由に行動ができるものだろうか。そして、審問官が他者に情を持つことなどありえるのだろうか。
一つ目の疑問は、かなり難しいが、大聖堂に協力者がいればあるいは可能かもしれない。二つ目の疑問は、僕個人として考えてみると……ありえない。都市の者たちをそういう目で見たことはない。彼らは庇護の対象。常に誘惑に晒される弱い者たち。僕らが護ってやらなければならない。それを情というならそうなのかもしれないが、しかし彼らが誘惑に負けた時、一瞬の躊躇もなく断罪することができる。親しみなど感じたこともない。むしろいずれは審問する相手だとどこかで思っている。審問官はみんな同じではないのか?
だとすると……。カルミルは演技をしているんじゃないか? 孤児たちに優しくし、彼らの警戒を解くこと自体が任務なのではないか? そうであってほしいと思っている自分がいる。だって、僕たちは表の人格の影。表の人格こそが人間と呼べる存在であり、僕たちはただの人形に過ぎない。だからこそ、何の迷いもなく審問を行ってきた。いずれは消えてしまう存在だから。もし違うのなら……僕が今までしてきたことは……。
「それで……██様にはいつかお会いしたいと思っておりました。ぜひとも、直接にお伝えしたかったのです。まさか、願いが叶うとは……本当に感動しています」
人が考え事をしているのに、ジュリアが話しかけてきた。
「██の██、とても素晴らしかったです。██様にはお聞きではないですか? 話しても……? ありがとうございます。本来、私はとても██になど行けないのですが、██様が内緒で連れて行ってくださったのです。おかげで、初日の██を██することができました」
何言ってるんだこいつ。
まったく分からない。
カルミルも同じのようで、時々思い出したように相槌を打っている。
探り探りの会話が続けられる。下手なことを言ってしまえば、ジュリアは不審に思うだろう。細心の注意を払いながらでは、会話が弾むはずもない。必然、ジュリアの独壇場となった。
「██様はまさに██そのもののようでした。██していた皆様も、きっと同じように思ったことでしょう。あんなに素晴らしい夜をくださったお二人には感謝のしようもございません」と、ジュリアは深く頭を下げる。安い頭だな。
「それにしても……」
ジュリアは僕とカルミルを交互に眺める。
「██様と██様。██のお二人がこの孤児院にいらっしゃるなんて不思議な光景ですね」
何だ? 僕とカルミルがそろってこの場にいるのはおかしいことなのか?
何のお二人だ……? 先ほど、僕は表の自分が貴族だと推察したが、この場合、聖職者というのもありえる。
「██の方々、ましてや██は私のような者には聖人様同様に畏れ多い方々なのですが、中でも██といえば、██の██を██していらっしゃるほどだそうで……こうしてお話させていただいていてもやっぱり緊張してしまいます」
もう……うるさい。
██といえば、██の██を██だと?
何を言っているんだ、さっきから。ずっと。
██の方々、ましてや██……?
ましてや、とは██の中でもさらに上級の者だということか……?
██が何かは分からない。
高位の聖職者……しかし子供であることを考えれば……大司教の侍従……? だが、畏れ多いと思うだろうか? 貴族であるとすれば……御三家……?
中でも……。
中でも……?
上澄みたちの中でも……。
僕とカルミルが一緒にこの場にいるのは不思議な光景で……。
██は、██の██を██している……。
中でも██の「██」に、御三家を入れてみる。御三家の中でも██は██の██を██している……だとすると……御三家の中でも「██家」は██の██を██している……? ██家を褒め称える発言だとすると……僕とカルミルの片方の家だけというのは不自然じゃないか? 先ほどの、「██のお二人」の部分。「御三家のお二人」ともとれるが、もしかすると「██家のお二人」だったのではないか? だとすると、僕とカルミルは……同じ家の……。
推察が確信に至りかけた、その時だった。
「██様のことは以前より都市でお見掛けしておりました。こんなにお██しい██がいるなんてと████████大██の██を████████」
ああ、ダメだ。
何も聞こえなくなった。
まずいぞ、まずい……。
「████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████」
知り過ぎたんだ。
知り過ぎた。
知り過ぎた……。
「██████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████████」
よく喋る子だな。
頭の中で、必要のない記憶が削除され始めた。視界が定まらない。意識がぼんやりとして、上手く物を考えることができなくなった。今襲われでもしたらとても抵抗なんてできないとカルミルを見ると、机上の拳を強く握り、微かに揺動していた。僕と同じく、削除が行われているのだろう。傍から見ると馬鹿みたいだな。
落ち着け……。
しばし目をつむる。
僕はモモ。
異端審問官のモモ。
それ以上の情報は必要ない。表の僕なんて知る必要はない。知りたくない、知りたくない、知りたくない知りたくない知りたくない……。
「██様にはとても感謝しているんです」
どれくらい時間が経ったのか、ようやく聞こえて来たジュリアの声に、僕は顔を上げる。鈍くさそうな男の子のパンの減り具合を見るに、大して時間は経過していなかった。
「██様がいらしてくれたおかげで……この孤児院も少しずつ変わっています。以前はこんな希望を抱くこともできなかった……。本当に……なんと感謝をすればいいのか……」
もう何度目だろうか、ジュリアは頭を下げる。
「それはよかった」と、僕は言う。
「力になれているのなら嬉しいよ」と、カルミルも言う。
「お二人は……」
突然、ジュリアは口をつぐんだ。ドタドタと足音が近づいてくるのが聞こえたからだ。すぐに血相を変えた女の子が駆け込んで来た。チビどもよりはジュリアに近い背丈の子だった。
「姉ちゃん大変! ネテルが、ネテルが……!」
ジュリアは弾かれるように立ち上がると、「失礼します」と僕たちに頭を下げ、出て行った。呆気にとられていた子供たちは顔を見合わせると、すぐさまジュリアを追いかけた。あっという間に食堂は空になってしまった。突然の静寂に馴染むため、ついカップに口をつけてしまった。
カップを机の上に置くと、僕はカルミルを見る。
「それで、証明とやらは終わったのか? お前に心があるという話だったが」
「見て分からなかったのかい?」
頬に手を当て、どこか試すように彼は言った。
「分からなかった」と、返す。
何か変なところがあっただろうか?
そんなもの、あり過ぎて逆に分からない。
「僕はジュリアに恋をしている」
空っぽの顔に音が吸い込まれるように、静寂が訪れた。
その時、僕は思った。
この男は殺さなければならない。僕が僕であるためにも。




