お姉様
「あなたとジャンヌが夜な夜な出かけていることは把握しておりました」
櫂で舟を漕ぎながら、ディオニカは言った。
「そうだったの」
「ジャンヌを問い詰め、事情を確認させていただきました。王都に報告した結果、後学のために特別に認めることになったのです。陛下が奨励なされたということです」
「おじい様が……」
「陛下はあなたの望み通り、全てをお見せするようにと仰られていたそうですが……しかし枢密院の反対により、お見せする場所は限定することになりました。枢密院からの指示が報石に送られ、ジャンヌがそこに誘導する。今回も中区画の周囲までのはずだったのですが……」
「あの人が道を間違えたということね」
そういえば、そんなことを言っていた気がする。
「そうです。もっともアイツは枢密院を良く思っていませんから――」
ディオニカは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「おじい様の意見を尊重した可能性もある、ということね」
「ええ……」
違うだろうが。
私は深く息を吐いた。
なんと滑稽な話だろう。まんまと踊らされていた。私の意思なんてどこにも存在しなかった。実に良質な喜劇だ。お腹を抱えて笑うこともできただろう。これが自分の話でなければ。ある種の喜劇とは当人にとっては悲劇に他ならないものなのだ。
「今夜も、私とルカは後をつけていました。しかし外区画に入ったあたりで、我々はあなた方を見失ってしまいました」
私が頼んだからだ。ジャンヌが執拗に周囲を確認していたのは、ディオニカたちを振り切ろうとしていたからなのか。
「しかし教戒師たちの情報で、あなたがある家の中に入ったまま出てきていないことが分かりました。私たちが赴くと、洗脳された男が立っていました。彼の許可がなければ、ドアは開かないようにされていました。我々に許可は下りなかったのですが、ルカが男をさらに洗脳にかけ、許可をとったのです。私たちはすぐにあの屋敷にたどり着きました」
「あそこは何だったの?」
「孤児院です。内部の大人たちはみな、魔法で眠らされていました。近隣の教戒師たちも認識をいじられていたようで、あの場所に気づくことができないようにされていたようです。あれほどの魔法が使えるのは、ワーミーしかいません」
ディオニカの言葉に、私は沈黙で答えた。
櫂が水を漕ぐ音だけが聞こえる。都市から私たち以外の人間がいなくなってしまったかのようだった。
しばらくして、ディオニカは続きを語り始める。
「私たちが着いた時には、まだ大勢の市民たちがいました。ジャンヌもワーミーたちの芸を最前列で眺めていました。あなたがいなくなったことにも気づいていなかった。いくらジャンヌとはいえ、さすがにおかしい。恐らく魅了の魔法がかかっていたのでしょう。私たちに気づくと、ワーミーたちは逃げ出しました。彼らの魔法は解け、教戒師たちも入ることができるようになった」
「あの場にいた市民たちは大丈夫だった?」
「ええ。我先にと逃げていましたが、数人ほど教戒師に捕まったようです」
「ワーミーに近づいたのだから、ただでは済まないでしょうね」
自嘲するように私は言った。
「ジャンヌとともに屋敷を探したのですが、あなたを見つけ出すことはできなかった。すると、あなたを見たという子供が現れたのです。あなたが階段を下りて玄関にやって来ると、突然発光した。正確には床に描かれていた魔法陣が光ったのですが、その直後にあなたの姿は無くなっていた。転移魔法です。対の魔法陣がどこに描かれているのか分からない以上、我々に見つけ出す方法はなかったのですが……」
「教戒師が報告してくれた、と」
「その通りです」
「感謝しなくては」
ふと通りを見ると、水路の端に教戒師が立ってこちらを見ていた。都市中の者たちが集まっているのか、一定の間隔で姿を見せた。私を見送ってくれているのだろうか。それとも監視しているのだろうか。その目に見つめられていては、何だか喋る気もなくなってしまう。重い沈黙の中、大聖堂に戻った。
船着き場で降りると、すぐに何者かが飛び出して来た。あまりの勢いに強風が起き、私のローブは激しく揺られた。地面に這いつくばるその人は、ジャンヌだった。
「殿下、ご無事で! よかった、本当によかったぁ! 怖かったでしょう? アタシがついていながら、誠に申し訳ございません!」
すぐに隣にルシエルがやって来て、地面に手を突く。
「殿下、この度の失態はワーミーという脅威を見過ごした私にも責任がございます。都市の区画についても、もっと徹底的にジャンヌに教え込んでおくべきでした。私の思慮が浅いばかりに殿下を恐ろしい目に遭わせてしまいました。申し訳ございません!」
一息にそう言うと、額を地面につけた。見事な謝罪といわざるを得ないだろう。
「弟子の罪は師である私の責任です。まこと汗顔の至りでございます。このシューレイヒム、いかなる罰をも甘んじて受ける所存でございます」
そう言うと、ディオニカも深々と頭を下げる。
「顔を上げなさい」
私がそう言うと、彼らは同時に顔を上げた。「あなたたちの罪を問うのは私ではないわ。王都に報告して彼らの指示を仰ぎなさい」
私の意思なんてどうでもいいのだから。
「全ての元凶はワーミーでございます」
高い足音を鳴らしながら、こちらにやって来る者があった。コーデリアだ。
「殿下もそのお方も、ワーミーによる洗脳を受けていたのです。でなければ敬虔なる信徒であらせられる殿下が異教徒に近づくはずはございません。そうでしょう?」
「ええ……もちろん」
彼女の言葉の意味を推察しながら、私は肯いた。
「ワーミーの存在を知っておきながら、排除できずにいた我々にも責任はございます。必ずや彼らを捕らえ、殿下がご安心して聖週間に臨めますよう尽力することをお約束いたします」
「ありがとう」
私はしばし目をつむり、ディオニカを見る。
「聞いたでしょう、私とジャンヌは洗脳攻撃を受けていたのです。私たちは外区画に入り、あなたたちを引き離し、彼らのもとへと向かうように指示されていた。私はどこか別の場所に飛ばされてしまったのだけど……王女であるこの私を捕らえ、拠点に監禁しようとしたのでしょう」
「ってことは……?」
ジャンヌは微かに笑みを浮かべるが、ルシエルに睨まれて真面目な顔に戻った。
「コーデリアが言った通りよ。悪いのは全てワーミーです。王都にはそのように報告しなさい」
私がそう言うと、
「かしこまりました」
ディオニカは頭を下げた。
これで私の自由は失われた。もう二度と街を見て歩くことなんてできないだろうが……もうそれでいい。そもそも、最初からそんなものはなかったのだから。
私の夜間外出はコーデリアの他数人しか教えられていなかったらしく、人目につく前に迎賓の間に戻ることになった。しかしその前に、私はもう一度お祈りを行うために大聖堂に入った。
さすがのジャンヌも気落ちしているらしく、空気みたいに静かにしていた。この人がこんなに落ち込んでいるということは、師匠と兄弟子の二人に怒られなかったのだろう。怒られてしかる時に怒られないのが一番堪えるのだと、前に彼女は言っていた。そこにあるのが、怒りを通り越した失望だから。
内陣に向かって歩いていると、コーデリアが私の耳元に顔を寄せて来た。
「殿下が飛ばされたという場所ですが……。礼拝堂というのは本当でしょうか?」
「ええ。外からはそう見えた。ワーミーたちはどうして礼拝堂に転移魔法陣を仕込んだのかしら」
「彼らは人の集まる場に魔法陣を隠している可能性があります。現在、都市中の教戒師が捜索中でございます。結果次第では、彼らの優位に立てるはずでございます」
「そうでしょうね。頑張って、と彼らに伝えて」
「とても喜ぶことでしょう」
無機質な顔でそう言うと、彼女は私から離れた。
礼拝を済ませると、聖人像と向き直った。この人は今夜のことを全てお見通しなのだろうか。
――いずれにしても聖人様は全てを見ています。
その峻厳を前にして、私は顔を逸らすことしかできなかった。
迎賓の間に戻る。
とても疲れているはずなのに、少しも眠気を感じなかった。
興奮が収まらない。
長椅子に腰掛け、ジッと自分の手を見つめていた。
不思議と頭の中に浮かんでいたのは、赤い瞳だった。外区画の路地で私を見つめていた、真っ赤な瞳……。あの人はその二つの目で私をどう見ていたのだろうか。地面に転がる無様な姿をあざ笑っていたのか。それとも……見守っていてくれていたのか。そもそも、あの火の眼は本当に実在したのだろうか。醜態を笑う私自身の、信徒を見守っている聖人様の、そして、私が求めるあの人の……目を見てしまったと錯覚していたのではないだろうか。私の弱さの象徴として……。
「落ち着きましたか」
長椅子の隣に立つ、ディオニカが言った。
「ええ」
私は答えると、立ち上がる。「もう寝る。誰も入れないで」
寝室のドアを閉めようとすると、途中で止められてしまう。振り返ると、ジャンヌがいた。
「あの、殿下……」
「何?」
ジャンヌはもごもごと口ごもる。「えっと、その……本当に申し訳ありませんでした……」
「お互い、無事でよかったわね」
私がそう言うと、ジャンヌはニヤリと笑みを浮かべる。
「今度こそ破門かと思いましたよぉ。アタシ、二度と今夜のようなことが起こらないように一層精進致します! 次は一番に駆けつけてみせますから、楽しみにしていてください!」
「その栄誉は誰か他の人に譲るわ」
「何笑ってんだてめぇ。本当に反省してんのか」
怖い顔をしたディオニカは、ジャンヌの耳を引っ張ると強引にドアから引きはがした。
「痛い、痛いって!」
「それでは殿下、お休みなさいませ」
和やかな顔で私を見て、ディオニカは言った。
「うん、おやすみ」
ディオニカは静かにドアを閉めた。
「分かってんだぞ……洗脳なんてされてないことくらいな。全部話してもらうからな……覚悟しろよこの野郎……」
怒気をはらんだディオニカの声が聞こえた。
「ワーミーを間近で見たんだろう? 見たんだな? 見たと言え! 細部に至るまで詳細に話してもらうぞ……! 今夜は寝られないと思え……!」と、興奮したルシエルの声も聞こえる。
すぐに声は遠ざかり、静かになった。
私は大きく息を吐くと、ベッドに入った。
温かい。横になった途端、圧倒的な温もりに包まれた。胸にふつふつとわいてくる感情……それはじんわりと全身を覆っていく。幸せなんだ。布団の中に潜り込み、膝を抱える。
偉そうに振舞っても、私はただの小娘なんだ。暗闇の中に一人放り投げられては、ただ泣いて助けを求めるしかできない、か弱い小娘。王女という権力も、大人たちに与えられているに過ぎない。私には何一つとして決定する権利はないし、望みも許可がなければ叶えられない……。
それはいい。こんな小娘に絶対の権力が与えられても、正しく行使することなんてできるはずはないから。大人が管理するのは当然だ。だから、それはいい。
顔が熱くなる。
本当に悔しいのは……。
どうしてあの時……夜の闇の中で、凛々しくいられなかったのだろう?
あんな醜態を晒して……自分ではもっと強い人間だと思っていたのに。
その辺の村娘と何も変わらない……いや、彼女たちの方がずっと強いかもしれない。
恐ろしいことに、あの時私は外区画や、そこに住む人たちを侮辱した。自分とは違う人間たちなのだ、と。あれが私の本心なのだろうか。本当は……国民たちを見下しているのだろうか? いや、違う。そんなはずはない。あの時は圧倒的な恐怖で頭が正常に働いていなかった。大聖堂に戻りたい一心で、心にもないことを思ってしまったんだ……。私はいつだって、この国のことを思っている。人々の幸せを願っている……。
本当に?
ああ、そうか。
私は……彼らのことなんて、さして好きではなかったんだ。
私はあの人とは違う。
あの人だったら……たとえ治安の悪い場所に一人放り込まれても、きっとその状況を楽しんだに違いない。むしろ、ワーミーたちを屈服させ、彼らを信仰の道に導くことだってできたかもしれない。人々とも心を通わせ、酔っ払いたちでさえ酔いを醒まして恭順するのだろう。
私ではあの人になれないんだ。
あの人の優しさが、ただ嬉しかった。
きっと素敵なお花をもらえるんだろうって、そう信じていた。
信じていたのに……。
次の年からも、お花は枯れ続けた。
あの人の温もりは、今でもしっかり覚えている。だからこそ、一人ぼっちの冷たさがどうしようもなく苦しかった。
「とっても悲しいの、お姉様……」
震える声でそう答えても、誰も私を抱きしめてはくれなかった。
序章 ルチルの巡礼 完
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