新たな背信者
日の光が窓から差し込んでいた。
今は一体何時なのか、活動限界からどれだけの時間が経ったのか、僕には把握できていなかった。僕が箱の中で眠った後、誰かが身体を地上まで運び、表で生活を送ったはずだ。あるいは、表の僕に戻らず、箱の中で眠っていただけなのかもしれない。そもそも本当に表の人格なんて存在するのだろうか。稀にだが記憶の残滓を自覚することはあるものの、それが表の僕のものだという確固たる証拠はない。植え付けられた偽の記憶かもしれない。怪我やほんの少しの疲労感さえ残っていたことはないから確証を持てと言う方が不可能だろう。もっとも、それでは頭痛の説明がつかないけれど。
ふと、ある考えが浮かんだ。大聖堂が審問官の活動限界を操作できるとしたら……どうだろう? 意図的に、僕はジュノーから離された。その隙を突いて、誰かが彼女を壊した。何かが語られることを阻止するために。一体何をだ?
そのようなことを考えながら、僕はコーデリア様に頭を下げていた。
「申し訳ございません」
「背信者はまだいるというわけか」
書物の文面だけを見ながら、彼女は言った。巫女の部屋には頁をめくる音だけが聞こえていた。
ジュノーを壊した人物が何者かは分からないが、そいつは審問官の格好をしていたそうで、現場の近くで目撃されていた。もしも本当に審問官なら、目撃されるはずがない。審問官を見ることができる者は限られている。地下に下りることを許可されている者たちは、高位の聖職者など特別な者しかいないが、彼らでさえ僕らの姿を視認することはできないはずだ。誰かが審問官に偽装していたのだろう。
――と、今までだったらそう考えていた。だが、ジュノーの事があった今、事はそう単純ではないと知っている。
同一化した審問官ならば……誰でも視認することができる。確証はないが、少なくとも僕はグレンの顔を見ることができた。本来なら、審問官どうしがお互いの顔を見ることは絶対にできない。同一化したからこそ、見えたのだ。この考えが正しいなら……由々しき事態と言わざるを得ない。同一化した審問官がグレンの他にもいるということになる。
コーデリア様はペン先で机をコツンと突いた。「ジュノーから何を聞き出した」
「彼女は大司教に香の匂いを嗅がされ、表裏の記憶が混同したようです。それがきっかけとなり過去の審問の記憶が共有され、同一化を果たしました。ジュノーが嗅いだのは、恐らく審問官が嗅ぐ煙と同じものなのでしょう。大司教がどこでそれを手に入れたのかは定かではありません」
「ジュノーは聖地を嗅ぎまわっていたという。その話は聞いたか?」
「それが……活動の限界が来てしまい――」
コーデリア様は本を閉じると、重たい息を吐いた。
「失望させるなと言ったはずだが」
「申し訳ございません」
「ジュノーはずいぶんと無惨な状態にあると聞いた。奴をいたぶる時間があれば聞き出せたのではないのか?」
「審問自体に問題があるとは思いません。全て必要な行為だったと確信しています」
「そうか」
コーデリア様はジロリと僕を睨みつける。「それで、どうするつもりだ?」
「まだルビウスがいます。奴は全てを知っているはずです」
「ふむ」
コーデリア様は何やら深く思案を始めた。その邪魔をしないように、僕はなるべく呼吸を控える。
「ジュノーはルビウスと行動を共にしていた……」
コーデリア様は独り言のように呟く。「奴らの足取りは明らかになっていない。審問官は教戒師を統率できる……。グレンはその特権を使い、教戒師たちの目から逃れていた……」
そして、鋭い目を僕に向ける。
「ルビウスを捕らえろ。お前が言ったように、ジュノーが壊れた今は奴こそが全容を握る鍵となる。奴を捕らえれば芋づる式に全てを明るみにできるはずだ」
「はい」
「背信者はまだ存在する。我々にはその数も分からない」
コーデリア様は自分の胸に手を当てる。「私だけを信頼しろ。私も、お前だけを信頼する」
「かしこまりました」
僕は頭を下げる。しかし、すぐに顔を上げた。
「そのことでお願いがあるのですが……一度、審問官を一堂に会する許可をいただけないでしょうか」
コーデリア様は眉を顰める。「何か考えがあるんだな?」
「はい」
「いいだろう、全員を集めてやる」
「ありがとうございます」
僕は影の中に入る。が、ふと立ち止まる。「最後に一つだけ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「修道院に夜課の指示を送っていたのは誰でしょう」
コーデリア様はジロリと僕を睨みつける。
「修道院はオブライエンの管轄だ」
「ありがとうございます」
僕は頭を下げると、その場を後にした。
仲間を失ったワーミーどもが何を考えるか。
何とかして我々に接近しようとするだろう。市民たちを洗脳したところで仲間の居場所は突き止められない。必ず、大聖堂と繋がる者を狙うはず。
教戒師だ。高い魔力を持つワーミーたちにとっては、都市に点在する教戒師は格好の的にしか見えないはずだ。簡単に魔石を調達することもできるのだ、襲わない手はない。教戒師たちを逆に利用し、ワーミーを炙り出す。
教戒師たちがブツブツ唱えている文言は簡単な呪文になっている。節を繰り返し循環させることでシグナルとして機能する円環魔法で、教戒師たちはたとえ腹痛に苛まれても血反吐を吐いても唱えることをやめない。彼らの発するシグナルは大聖堂が管理しているため、もしも長く途切れることがあれば異常事態だと分かる。つい先日も三人ものシグナルが同時に途絶えた。平民の少女が暴れたらしく、従騎士によって捕らえられた。それがシュナだった。
尖塔に立ち、都市を眺める。
眼下に広がる整然と並んだ家々、格子状に配置された浮島たちはシュアンの秩序の体現、大聖堂による統制の象徴なのだ。僕は視線を先に進める。都市の奥にある、浮き島を持ち上げている巨大な木々たち……。昨日の異教徒たちがもたらした禍だ。
聖地は乱れている。
異端者、堕落者、背信者。
愚か者たちが都市に蔓延り、秀麗な都市を汚している。
大聖堂の中でさえ、腐敗にまみれ、頽廃に染まっている。
僕はそれが赦せない。
粛清してやる。
あの方の理想のままに。
全てのゴミをこの聖地から一掃する。
鐘が鳴った。
僕は鐘楼を見上げる。
誰かが言っていた。大聖堂の鐘の音は人の心を洗う作用があるという。この音を聞くだけで、胸に湧いた邪な考えは霧散してしまうらしい。心なんて持っていないから、僕には分からない。ジュノーはどんな気持ちでこの音を聞いていたんだろう。いつもと違って聞こえたのかな。心を獲得すれば分かることなのだろう。
僕は鐘楼へと向かった。
鐘楼は塔として独立しており、大聖堂とは回廊によって繋がっている。内部から上ることはできず、外壁に突き出る階段を行くしかない。都市を眺めながら進んでいると、ちょうど鐘撞きが下りて来た。フードを深く被った、人の良さそうな――というか大して特徴のない初老の男だ。脇に大事そうに皮紙を抱えている。壁際で止まり、男を見送ると、再び上る。
鐘は魔法によって鳴らされる。男の抱えていた皮紙に魔法陣が刻まれているのだろう。なんでも、あの魔法陣は再利用せず、毎回新しい物が用意されるそうだ。時間と紙の無駄にしか思えないが、まあ僕などには及びもつかない高尚な理由があるのだろう。
大聖堂の鐘は、一日に三度都市に響き渡る。午前と正午と夕暮れ時だ。
しかし今日は、一年の内で唯一、鐘が四度鳴らされる日だ。聖週間四日目、大聖堂では徹夜祭が行われる。夜を通して聖人様に祈りが捧げられるわけだが、その部を区切るために深夜に鐘が鳴らされることになっている。もうじき、大聖堂は信徒たちで埋め尽くされる。信仰が最も力を持つ時だ。彼らの祈りを無意味にするわけにはいかない。徹夜祭までに、何としてでも聖地に蔓延るゴミを一掃してやる。
鐘楼は塔の天辺にあるが、鐘自体はさらに頭上にある。いくつもの柱が周囲を囲っていて、風通しのいい場所だ。鐘の真下に当たる場所に台座があり、鐘突きはここで魔法陣を発動することになっている。
鐘楼には先客がいた。
一人は柱にもたれ、腕を組んでこちらを睨みつけている。カルミルだ。
もう一人は彼の対角、柱の足元で膝を抱え、うつむいている。メラハだ。
「何故僕らを呼んだ」と、カルミルは言う。
「重要な話があるからだ」
「グレンを壊した者が、審問官の中にいると?」
「その可能性を消しに来た」
僕が言うと、メラハがゆっくりと立ち上がる。
「彼女の顔の傷……」
自分の仮面を指でなぞりながらメラハは言う。「赤色刀で焼き切ったんでしょう? あの痛みで正気を失ってしまったのではないの?」
「グレンがそんな軟弱だと思うか」
「小娘と同一化したんだろう。いつものグレンではなかったのは確かだ」と、カルミル。
「顔を焼いた後も、奴の思考はまともだった。急に壊れるとは思えない」
「どうかしら」
僕は二人をじっくりと見つめる。
「お前たちはよっぽど僕を犯人にしたいらしいな」
二人は沈黙で応えた。
「お取込み中なら後にしようか」
背後から声がした。ロッソだ。
「君を待っていたんだよ」と、カルミルは舌打ちする。
「グレンがいないとてんでバラバラだな。協調性のない奴らだ」
ロッソはやれやれと頭を振り、僕の前に立った。「何なら俺が主席を代わってやろうか?」
「思ってもいないことを言うな」
僕が言うと、ロッソは肩をすくめた。
「まあな。面倒事が増えるのは勘弁だ」
これで審問官が全員揃った。
仮面を被った僕たちの、くだらない腹の探り合いの始まりだ。




