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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
序章 ルチルの巡礼
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外区画の王女

 暗い路地をひたすら駆ける。


「ジャンヌ、ジャンヌどこ?」


 呼びかけるも、もちろん彼女が来てくれることはなかった。外からではあの場所は分からない。とにかく、最果てだ。最果ての区画を目指して、歓楽街にさえ出れば、あの酒場からもう一度あそこに行くことができる。そうすればジャンヌがいる……。


 暗闇に座り込んでいる男たちの姿があった。酔っ払いだろうか? 私を見て、手招きする。


「嬢ちゃん、迷子かい。こんな夜中に歩いてちゃダメじゃないか。俺たちと一緒に朝まで飲もうぜ」


「馬鹿、ガキに酒飲ませる気かよ?」


「ガキなんかにゃもったいねえぜ」


 男たちは馬鹿みたいに笑いだした。

 とても返事などできず、私は後ずさると、元来た道を戻った。人の姿が見えるたび、別の小路に入った。どこをどう進んでいるのかも分からなかった。とにかく頭の中は真っ白で、ひたすらに安全な場所を探した。


 何が視察? 

 何が見るべき場所? 


 結局、ジャンヌという力に護られて、安全圏で高みの見物を決め込んでいただけだったんだ。望んでいた場所にいざ一人で放り込まれてしまったら、辺りの様子なんて見る余裕はない。ただ必死に、逃げ続けていた。



 大聖堂だ。

 今すぐ、大聖堂に帰るんだ。

 私がいるべき場所はこんな恐ろしいところではない。

 最奥区画こそが私がいるべき場所なのだ。

 だって私はこの国の王女で……。

 誰よりも価値のある人間で……。

 こんな……。


 こんな、穢れに満ちた場所にはいちゃいけないから!


 地面のヒビに足をとられ、転げてしまう。


「うう……」


 強かに顎を打ってしまった。地面に這いつくばり、痛みを堪えて何とか起き直る。月の光が私を捉えた。転げたせいでフードが脱げてしまった。いけない、髪が輝いている。目立ってしまう。今にも誰かに捕まり、どこかに連れて行かれて酷いことをされるかも……。


 フードを被り直し、慌てて周囲を見回す。人の姿はない。ホッとして、顔を上げる。


 いた。


 暗い路地の奥から誰かがこちらを見つめていた。

 影の中にいるものだから、顔や服装は見えない。ただ、赤い瞳だけが仄かに輝いていた。


「あ……」


 私は絶句する。瞬く間に頭の中には様々な考えが浮かんだけれど、それを一つとして理解することはできなかった。


 永遠かとも思えるその対峙だったが、気がつけば赤い瞳は無くなっていた。瞬きもしていないのに、いつの間にいなくなったのか分からなかった。恐怖から幻覚をみていたのではとさえ思ってしまう。


 壁に手をつき、何とか立ち上がる。それから、足早にそこを離れた。

 もう分からない。何も分からない。

 


 嫌。


 もう嫌。


 帰りたい。

 ただただ、大聖堂に帰りたかった。


 あの温かなベッドに戻りたい。今頃は夢の中にいたはずなのに……。どうして私は与えられた絶対の安全を捨て、こんなところに来てしまったのだろう。なんと愚かなことをしてしまったのか。もし過去に戻れるなら、どんなことをしてでも止めるのに。もう二度と戻れないかもしれない。生きて帰ることはできないかもしれない……。


 もう一歩も動けない。

 近くにあった橋の下に身を隠し、座り込んだ。

 膝を抱える。


「ぐすん、ぐすん……」


 涙が止まらない。


 私は危険の芽を摘んだ安全な道の上を歩いてここまで来た。それがどんなに幸せなことだったか。今さらになってそれを痛感する。やっぱり私はあの人とは違う。一人では何もできない小娘なんだ。


「助けて、誰か……。ジャンヌ……ルカ……ディオニカ……」


 助けて、お姉様――。




「どうしたの、ルチル?」



 ふいに誰かが、私の肩に手を置いた。

 その人は顔を寄せ、私に訊ねた。


 どうして泣いているんだっけ?



 そこは王城の私の部屋だった。窓に寄せた椅子の上で、私は膝を抱えている。


「これ……」


 私は手のひらを広げ、お花だったものを見せた。


「あらあら」


「あんなに綺麗だったのに……」


「仕方ないのよ。どんなお花でも、いつかは枯れてしまうものだから」


 私は頭を振る。


「せっかくお姉様がくださったのに……。こんなの嫌……」


 お姉様は、私の頭にそっと手を置いた。


「では……来年は、絶対に枯れないお花をあげる」


「本当?」


 お姉様は、優しく微笑んだ。


「ええ、いつまでも美しいままの魔法のお花。だから、もう泣き止んで。あなたが泣いていると、私まで悲しくなってしまうの」


 私は手の甲で涙を拭った。


「もう……泣いてません。泣いてませんから」


 お姉様は私の頭を撫でると、ギュッと抱きしめてくれた。私の手から花が離れ、床に落ちる。


「ありがとうございます、お姉様」



 目を開ける。


 いつの間にか、眠っていたらしい。

 飛び込んできたのは、ひげもじゃの顔だった。


「ご無事ですか、殿下」


「ディオニカ……?」


 私は呆然と彼を見る。王城は? お姉様は……?


 そこは橋の下だった。

 そうだ、私は道に迷って……。


「ああ、ディオニカ……!」


 私は彼に抱きついた。ディオニカは抱きしめ返してくれる。冷え切っていた体が温かくなっていく。先ほどまでの不安や恐怖が嘘のようだ。


 ブツブツと声が聞こえた。少し離れた場所に教戒師たちが集まり、私たちの方を見ていた。


「彼らのおかげで探し出すことができたのです」


 ディオニカによると、教戒師たちの見たものや聞いたものは、お互いに共有されるのだそうだ。また、それらは大聖堂に逐次報告される。


「あの人たちには会わなかったと思うけど……」


「市民たちが報告したのです。こんな夜に一人で出歩いている少女がいる、と。どうやらここではそのような連絡体系があるようです。何かあれば、すぐに教戒師に報告するように、と」


 教戒師を初めて見た時、彼らは市民を監視しているように思っていた。だが、今の話が本当だとするなら市民同士でも互いに見張っていることになる。それが聖地の実態だとすると、少なからずの恐ろしさのようなものがあった。でも、私が無事でいられたのも、その監視体系のおかげなのだ。実際に体験すると、物事は一方の面だけで判断できないことを強く感じる。


 私たちは舟に乗り、大聖堂への帰路についた。


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