背信者の末路
審問官と同一化したからか、私は感情の遮断ができるようになっていた。涙を断ち切ると、ルビーの胸から離れる。いつまでも礼拝堂にいるわけにはいかなかった。
私は異端審問官。当然、その夜も仕事があった。同一化の結果として、グレンの記憶は私と共有されていた。だから、自分がしなければならないことも分かっていた。
祭壇の中を漁り、匣を見つける。そこには報石が入っていた。今夜の指令が記されている。
「審問よ」
板面を確認すると、私はルビーを見る。
「どうするんだ?」
「やるしかない……。私が自分を取り戻したことが大聖堂に知られてしまう。彼らは私を洗脳するでしょう。あるいは、消されてしまうかも……」
「まあ、そうだろうな」
ルビーは肩をすくめた。「上手くやるしかない。できるか?」
「ええ。幸い、私は首席審問官。多くの権限が与えられている。なるべく手ほどきを加えて……被害を最小限に留めるしかない。過去は変えられないけど……未来は変えることができる。あなたの言う通りね」
「胸に刻み込むがいい」
「そうするわ」
祭壇から審問官の装束を取り出した。
「へえ、変わった服だ。伸びるぞ。素材は何だ?」
審問官の装束を、ルビーは興味津々に眺めていた。私は服を脱ぎ、下着を着用した。漆黒の下着は彼の言う通り伸縮する素材で、体を覆うと、その上から防御服を身にまとう。
「ちょっとした衝撃なら吸収してしまうの」
「ふうん、強そうだ。余っているならくれ」
ルビーが見ている前で、私はブーツを履き、腕に籠手をはめ、フードを被った。
「後は仮面を着けるだけ」
「異端審問官、か。大層な出で立ちだな。それ貸してくれ」
私は仮面をルビーに手渡した。
「へえ」
ルビーは仮面を矯めつ眇めつし、下部の窪みを指した。「これは?」
「これをはめるの」
私は呼吸器を手に取り、窪みにはめた。
「この先の部分を押せば、あのお香と同じものが噴出される。私たちは定期的にそれを吸引するように言われていた」
「洗脳状態を維持するため、か」
「そうでしょうね。審問官の人格は、普通の人間には耐えられない。煙を吸うことで、耐えられるようにしていたのでしょう」
「なるほどな」
ルビーから受け取ると、仮面を着用した。
着替えを終えると、ルビーは一歩後ろに下がった。
「同情はしない。一つになった以上、これは今までお前がやって来たことの結果だ。お前が傷つけた人たちは決してお前を許さないだろう」
「分かってる」
「だが、オレはお前の味方でありたいと思う。余所者だからな」
「ありがとう」
ルビーの頭を撫でると、私は礼拝堂から出た。水上歩行の魔法陣を使い、湖上を駆け抜けた。
私が向かったのは、修道院から最も近い島だった。獣もいない小さな島には古い礼拝堂がある。かつては修道女たちが利用していたそうだけど、今は廃墟となっていた。そこが修道院に入ってからの私の仕事場だった。
岸辺に教戒師が立っていて、私を出迎えた。孤島はなだらかな丘になっており、天頂付近に礼拝堂がある。木々が生い茂っているため外部から見られる事はない。礼拝堂に入ると、顔に袋を被せられ、手足を縛られた男が地面に寝かされていた。彼の情報は報石で送られているので、ある程度は把握していた。過去のトラウマなど相手が抉られたくない部分が丁寧にまとめられている。審問官としては聖地の管理体制は誇らしくさえあった。しかし同一化をした私には背筋が凍えてしまうほど恐ろしいものだった。
教戒師が見つめる中、私は男の袋をはぎ取ると、頬をぶった。彼に質問し、相手が何を返して来ようともさらなる殴打を与える。男の弱点を突き、心を抉ると、さらに殴る。すぐに手が血に染まった。それでもぶった。それがグレンだから。それが私だから。血まみれになるまでは終われない。
審問を終え、私は修道院に戻った。いつもの通り、礼拝堂で着替えを終える。香炉の中に乳香を入れ、焚いた。乳香の匂いが辺りに漂う頃には、グレンからジュノーに戻っている。それが私の夜課の全て。礼拝を続けていると、お姉様方が現れる。朝の礼拝を終え、朝食をとると、私は部屋に戻った。夜課の日は、ここから昼前まで部屋での仕事を認められている。仮眠に当てろと言うことよ。自室に戻ると、ベッドに腰掛けたルビーが迎えてくれた。
私はドアを背に、床に崩れ落ちた。彼の顔を見て、緊張の糸が切れてしまったみたいだった。
「疲れた……」
絞り出すようにそう言った。
ルビーは私の前まで来ると、床に膝をつき、抱き締めてくれた。
「こんなに怒りを感じたのは初めてだ」
声を震わせ、ルビーは言った。「何が聖地だ。ここは腐っている」
「私には分かった……。大聖堂とは額縁のようなもの」、呟くように言った。「立派な額縁で飾ることで絵画の虚構性を隠している……。荘厳な大聖堂の中では聖らかなんてお世辞にも言えない腐敗が蔓延っているの……」
私は顔を上げ、ルビーを見据えた。「私はそれを変えたい。あなたの力を貸して」
真っ赤な瞳を爛々と輝かせ、ルビーは肯いた。
「命だって貸してやる」
その日から、私は夜ごとにルビーと行動を共にするようになった。
〇
女が壁に背をつけ、うつむいている。床に飛び散る血の中には白いものが見える。歯だ。髪を掴み、顔を上げさせる。醜悪な顔の女は苦しそうにせき込んだ。へこんだり膨らんだりした顔は、めちゃくちゃに切り刻んでやったのでもはや傍目とも見られない。
「酷い顔だよ、ジュノー」
傷物の不細工は汚れた血を吐いた。
「今のお前を見たらルビー君はどう思うだろうな」
僕の言葉に、小さく体を震わせる。
「奴はお前の美貌を愛しているんだ。お前の醜い顔はもはや再生魔法でさえ治癒できまい。もちろん口では優しい言葉をかけてくれるだろうが……心の中では何を思うかな。失望するだろう。嫌悪するだろう。実に悲しい話だと思うよ」
「もう、どうでもいい……」
ジュノーは言った。
顔を蹴飛ばすと、後頭部を強か壁にぶつけた。「どうでもよくないんだよ」と、僕は言う。
「夜な夜な都市を徘徊していた男たちの正体はお前らだな。仮面を被った愚か者ども……」
「……かもね」
「お前たちは何をしていた? 商人や審問官を襲い、何を掴んだ?」
醜い化物はジッと僕を見た。
「知らない方が……身のためよ……」
「僕の身を案じてくれているのか? お優しいな、さすがはジュノー・オブライエンだ。鏡で今のお前の顔を見せてあげたいな。そんな言葉が似合う顔だろうか?」
冗談のつもりだったのに、彼女は笑わなかった。こいつ本当に心があるのか?
「あなたも……ただでは済まないわ……」
絞り出すように、傷女は言う。
すかさず、顔を掴み、後頭部を壁に叩きつける。
「それで言い逃れられるとでも思っているのか。さっさと答えろ。でなければルージュを審問にかける。お前以上に酷い目に合わせてやる。あの能無しは何と言うかな?」
叩きつける。
「助けて、助けてお姉様……」
叩きつける。
「違うか? 泣き喚くのだったかな」
何度目か、気づけば壁は真っ赤になっていた。掌にびっしりと髪が絡みついている。濡れているせいで取りにくい。
「……狂乱が地上を覆い尽くす」
気がつけば、ジュノーはぼそぼそと何かを喋っていた。囁くような、震える声。僕は醜怪の顔の近くに耳を寄せる。「湖が開かれ……聖女は帰還する……」
「何を言っている?」
「私たちが……壊してしまった人たちの心を……回復させる方法を探していた……」
目的の話か?
「心の回復? 離れ島の島民たちのか?」
「都市に住む者たちは……狙われている」
「何を言っている? 誰にだ」
「異端信仰者たち……」
「異端……?」
「ふふふ……」
血を垂らしながら、ジュノーは笑った。ゆっくりと顔が上がり、その眼差しと相対した時、一瞬、僕の全身は強く強張った。そこにいたのは間違いなくグレンだった。
「モモ……よく聞いて……」
「……何を?」
「あなたもいつか……本当の自分を知る時が……来る……」
「来ない」と、僕は言う。「その前に死ぬ」
「表のあなたも、裏のあなたも……同じ人間だと、忘れないで……」
「立場が分かっていないのか? いつまでグレンのつもりでいる。今のお前はただの背信者……。全てを洗いざらい話すこと以外に存在する価値はないんだよ」
そう言うと、僕は赤色刀を振りかぶった。
「かはっ――」
一瞬、目の前が真っ白になってしまう。手から刀が零れ落ちる。思わず膝を突き、ジュノーの胸に顔を埋めてしまう。活動限界が来たのだ。
「モモ……」
「ぐっ……」
ジュノーの肩を支えに、何とか立ち上がる。
「今回は……うぅ……ここまでだ。だが……覚悟しろ、次は必ずお前を――壊してやる」
僕は何とか床の赤色刀を拾う……。だが、力が入らず、落としてしまう。ダメだ、痛い。痛い……! もう何も考えられなかった。
僕はジュノーに向き直る。彼女は醜い顔のままで、それでも精一杯に同情するような目で僕を見ていた。なんだその顔は。彼女は何かを言った。でも、聞こえない。耳鳴りはもはや爆発のようになっており、視界がかすれる。この背信者が……。僕はジュノーに手を伸ばした。その直後、頭が真っ白になった。
気がつけば、廊下を歩いていた。壁に手を突き、よろよろとおぼつかない足取りで何とか進む。ジュノーをしっかりと鎖で繋いだのか、それさえ覚えていなかった。ひどく記憶が曖昧だ。口枷は咥えさせたか? まあいい……ルージュは確保しているから、自殺など愚かな真似は考えないだろう。あいつは過去の負い目から、妹に偏愛染みた感情を抱いているようだ。少しでも変な真似をしたらルージュの全身の皮を剥いで……ダメだ、頭が痛い。思考できない。仮面から煙を吸うが、あまり効果はなかった。グレンも言っていたが、この痛みは人格に生じた亀裂。元である表の僕がモモという異物に耐えることができないことから起きる自衛効果だという話だ。以前はここまでは酷くなかった。どんどん酷くなっていく。この痛みの果てに、僕の命の終わりがあるのだろう。
各審問官に与えられた部屋へと戻る。巨大な聖匣に似た立方体の箱の中に頭から潜り込み、蓋を閉じた。狭い空間の中で膝を抱え、目をつむる。審問官によって表に戻る方法は異なるようだ。ジュノーの話では、グレンは自分の力で修道院にまで戻っていたというから。僕の場合はこの箱に入ることだ。
闇に圧迫され、圧し潰される――。
表裏の交代の間に生じる刹那の時間、僕はいつも同じ夢を見る。
優しい女性が抱き締め、頭を撫でてくれる。聖女ミラという者が実在するとしたら、こういう人なのだろうと思う。それがコーデリア様だと、僕は知っている。彼女の胸の中で、無常の安心を感じる。温かいのだ。このままずっとここにいたいとさえ思う。このまま目が覚めないでいてくれれば、どんなに素晴らしいだろう――。
目を開けると、何もかもを失っている。独りぼっち。闇はひどく体を冷やす。寒くて寒くて仕方ない。夢のことなど瞬時に頭の中から消えてしまう。それは必要のないものだから。僕に必要なのは、闇だけだから。
僕は一体何者なのだろう。
ふと、疑問がよぎる。
今の僕は本当にモモなのか。それとも表の僕か。あるいは、それ以外の僕か。モモなんて本当に存在するのだろうか。最初から存在せず、活動限界が来るたびに消されているとしたら? その都度他の者が偽の記憶を植え付けられ、モモを名乗っているだけなんじゃないか?
聖書の一節にそんな言葉があった。
「それがたくさんあればこそ、私だ私だと互いに言うとあれは雲でこれは土、他にもあらゆるものが私だ私だ」
口にして、自嘲する。
自己認識が不安定だからこそ、こういう思考ができあがる。僕は僕でありたいと思っているのだろうか? 愚かなことだ。異端審問官に自我など不要だ。でなければ僕もまたグレンの二の舞になってしまう。僕は僕だが、僕以外の僕であったとしても、僕以外が僕であったとしても構わない。
あらゆるものが私だ、私だ。
僕は蓋を開け、外に出る。
箱から出ると、既に装束に身を包んでいる。防御服を着用し、仮面をつける。
人の気配を感じ、振り返る。カルミルが立っていた。
「覗きの代償は高いぞ」
赤色刀を抜きながら、僕は言う。
いつからここにいた? 審問官が素性を詮索するのはご法度だ。僕の素顔は見られたのだろうか。いや、僕たちは互いの顔を見ることができない。一体、何のつもりで……。
「それをしまえ、君に報せに来た」、頭を振り、カルミルは言った。「大変なことが起きたぞ」
「大変なことだと?」
「ジュノー・オブライエンが――」
「逃げたのか?」
ふと、口枷を忘れたことを思い出す。「まさか、自殺か?」
「違う。来い」
僕らは部屋を出てジュノーの審問部屋に向かった。
ジュノーは壁に寄りかかり、虚空の一点を見つめていた。無惨な顔は大方修復されていたが、赤色刀で焼き切った無数の傷はやはり治っていなかった。ひきつれのため顔は皺くちゃになっていて、一息に何十年も歳を取ったみたいだ。醜いが過ぎる。
「誰がやった」
彼女を一瞥し、カルミルに訊ねた。
「分からない。目を離した隙にこうなっていた」
ジュノーは呆けたような虚ろな目をして、口から涎を垂れ流していた。完全に壊れている。まるで確かに存在した彼女の核――魂のようなものがすっぽりと抜け出てしまったように。
「まだ全てを聞き出していなかった!」
何者かがジュノーを壊してしまった。その目的は当然口封じだろう。こんなことなら、活動限界でも無理矢理に聞き出すべきだった。
「ここまでする必要があったのか?」
ジュノーの顔の傷を見て、カルミルが言った。「君は異常だよ、モモ」
「黙っていろ」
僕はジュノーの髪を掴み、顔を殴る。「目を覚ませ、背信者。どこを見ている、僕を見ろ。僕を見ろ!」
部屋には殴打の音だけが響いた。殴りつける僕を止めることもせず、カルミルはただただ眺めていた。殴っても殴っても、ジュノーは虚ろな目でこちらを見るばかり。口から垂らすのが血に変わっただけだ。埒が明かない。僕は赤色刀を取り出した。
顔の前に誰かの手が置かれた。掌に描かれた魔法陣を見せびらかすように向けている。
「そこまでよ、モモ」
メラハだった。
「こいつを庇っているのか?」と、僕は聞いた。
「まさか」、冷たい声でメラハは言う。「コーデリア様がお呼びなの。早く行きなさい、首席審問官」




