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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第四章 モモの審問
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或る修道女の話 ― ジュノーとグレン ―

 二日後、私は木の枝に赤いハンカチを吊るした。彼が気づいてくれるという確証はなかった。でも、来てもらわないわけにはいかなかった。その日の夜課は、私だったから。もし気づいたとしても、彼が来てくれるのか、自信はなかった。勝手な奴だと呆れるに違いないもの。でも、私にはもう彼以外に頼れる人間がいなかった。修道院までがもはや信用できないという事実が、私を動揺させていた。


 その時、突風が吹いた。湖に浮かぶ島には、時折、湖風と山谷風が混ざったような強い風が吹くの。ハンカチは枝から離れ、あっという間に空高くに舞い上げられてしまった。私は呆然とその小さな赤い点を見つめた。年少の子たちは可愛く騒ぎ、お姉様方は笑いながら私を慰めてくれた。ハンカチは湖の方へと行ってしまい、私の手は届かない。


 途端、ワッと涙が溢れた。私は恥も外聞もなく、子供のように声を上げて泣いてしまった。みんな呆気にとられ、年少の子たちの中にはつられて泣いてしまう子もいた。そんな姿をこれまで見せたことなんてもちろんなかったから、心底驚かせてしまったみたい。みんなに囲まれ、優しくしてもらっているのに、私の心はどうしようもなく冷え切っていた。



 刻限まで、私は部屋で待ち続けた。


 これまでの夜課の時間、私はお香の充満した部屋で祈り続けていた。意識が薄れる感覚はなかったけど、時間が引き伸ばされるような不思議な感覚はあった。それはトランスと呼ばれ、聖人様と一つになっている証拠だと言われていた。早朝に他の人たちがドアを開ける音で、私は目覚めていた。眠っていたわけではないから目覚めるという言葉はふさわしくはないのだけど、そうとしか表現できないの。中断でも途切れでもなく、目覚め。その時に思ったの。私は本当にあのお堂にいたのだろうか、と。意識の連続性を錯覚していただけで、本当は――。


 そんなことを考えていると、


「遊びはお終いじゃなかったのか?」


 声がしたので、窓を見た。そこにはルビーがいた。お月様を背後に従えて、窓に腰掛けて私を見つめていた。いかにも不機嫌そうに。

 目をこすっても、彼は消えなかった。凍えた心が急激に温まるのを確かに感じた。


「来てくれたのね」


 私は微笑んだ。


 彼は憮然とした面持ちで、腕を広げた。「来るしかないだろう。他に何ができるというんだ?」


 私は胸の前で手を組み、ルビーを見る。「私を助けて、ルビー」


「勝手な奴だ」


 呆れたように、彼は言った。




 私はルビーと共に礼拝堂に行った。窓から差し込む月明かりの他は、祭壇の灯石が放つ仄かな光だけが頼りの、暗い場所。今にも影に擬態した化物が襲い掛かって来るような……。

 だけど、私は一度も怖さを感じたことはなかった。むしろ安心の方が大きかった。他の人たちに聞いても同様のことを言っていたから、どうやらアギオス教徒は無意識の内に特別な場所と感じるみたい。


 石造りの堂内は、ひんやりと涼しかった。今くらいの季節だと問題ないのだけど、冬の夜課は本当に辛いの。寒さが身を切り刻んでいくようで、聖人様の試練だと覚悟してしまうくらい。でも、他の人たちは懐に暖石を入れて耐えているみたいだけど、私は一度も使ったことがなかった。お祈りを始めると、寒さなんて吹き飛んでしまうの。


「つまり、お前にはもう一つの人格があり、その臭いを嗅ぐたびに人格の交代が起きるというわけだな?」


「どうなるのか、私にも分からない。何もなければそれが一番だけど……」


 ルビーは興味深げに祭壇にある香炉の蓋を開け、中の香をつまんで匂いを嗅いだ。しかしすぐに元に戻し、顔をしかめた。


「ふむ。確かにこれは……ただの香ではないようだ」


「他の人は、このお香は焚かないようなの。普通の乳香が用意されているそうよ。私の時だけ、これが用意されるみたい。大聖堂の指示だという話よ」


「嫌な予感がする」



 お香を焚き、いつも通りに礼拝を始める。ルビーは柱にもたれ、私を観察していた。


 甘い匂いに包まれる。私は聖書の文言を心の中で唱えていた。頭の中はすぐにそれらでいっぱいになってしまう。もはや聖人様のこと以外考えられない。私の口から出た言葉が、別の言葉と繋がり、また私の口の中に戻っていく。永遠に囚われてしまったかのように。トランスだ。心地のいい時間が過ぎる。できればこの時間が一秒でも長く続いてくれれば――。



「――」


 誰かが、叫んでいた。


 夜課の最中だというのに、一体誰だろう。聖人様との時間を邪魔するなんて、いけない子。叱ってあげないと……。


「目を覚ませ、ジュノー!」


 ルビーの声だった。



 気がつくと、ルビーの顔が目の前にあった。彼は私の上に馬乗りになり、腕を押さえて動きを封じていた。


「な、何? 一体、何が……」


「気がついたか」


 ルビーは息を吐くと、私を解放した。彼のブラウスは力任せに引っ張られたのか、首元が裂けていた。頬はうっすらと赤くなっていた。まるで、誰かにぶたれたみたいに……。


「お前は突然礼拝をやめ、立ち上がった」、ルビーは祭壇の方を指した。「オレの存在に気がついたのだろう、急に襲い掛かって来たのだ。凄い力だった」


「私は……知らない……。ずっとお祈りを続けていたわ……」


「だろうな。お前の中にもう一つの人格は確かに存在するようだ。香の匂いで人格が交代してしまう」


「もう一人の……私……」


「本当に何にも覚えていないんだな」


「ええ……」


 ルビーは香炉を掴む。


「どうする。もう一度試してみるか? だが、お前には辛いかもしれない」


「どういうこと?」


「もう一人のお前は、どう見てもまともな人間ではなかった。何をやっているのかも定かではない。お前は知らなくてもいいことを知るかもしれない」


 私は首を振る。


「知らなくてもいいことなんて……ないわ」


「別人格の罪でお前が傷つく必要があるのか、オレは疑問に思う」


「傷つく覚悟はもうできてる」


「そうか」


 ルビーは香炉を差し出した。私は両手で受け取ると、顔に近づける。

 瞬間、またも私の意識は靄のようなものに包まれてしまった。



 つんざくような悲鳴が聞こえて来た。

 もう聞き飽きた。

 足元にうずくまる少女の腹を力いっぱい蹴飛ばした。少女は吹き飛び、背中から壁に激突する。嘔吐するように血を吐いた。顔を踏みつけ、床の血だまりに押し付ける。


「その子をどうするつもりなの」


 誰かが言った。


「二度と余計なことを考えないように徹底的に痛めつける」


「死んでしまうわ」


「構わない」


 髪を掴み、床を引きずる。顔を削るように。少女は息をしていなかった。魔法陣を描いた布の上に乗せ、魔法を発動させる。少女の傷が癒えていく。大聖堂に伝わる聖絶技法フォリストの一つがこの再生魔法。庇護魔法と合わせて、大概の怪我なら瞬く間に癒してくれる。


「その子が誰だか知っているの?」


「誰でもいい。背信の疑いがある者だ」


 完全に治癒する前に、俺は再度少女の髪を掴み、顔を上げさせる。頬を叩くと、目を覚ました。


 ぼんやりした目で俺を見つめていたが、みるみる血まみれの顔から表情が無くなっていく。絶望が過ぎると人は思考をやめてしまう。俺が見たいのはその先だ。顔から壁に叩きつける。二度、三度。頭を両手で掴み、膝にぶつける。おびただしい血が流れた。


 だらりと死体のように力の抜けた少女を引きずり、顔を魔法陣に押し付ける。

 治癒が始まる。


 この子が誰か。そんなことはどうでもよかった。俺の仕事は徹底的に痛めつけ、脳みそから恐怖以外の全てを取り除くこと。空っぽになった頭の中を溢れるほどの信仰で満たせばそれでおしまい。あと二、三度殺せば十分だろう――。


「たす……けて……」


 ぽつりと少女が言った。


 誰に言っているのだろう? もしや俺? これだけの暴力を身に受けて、なお俺の慈悲を期待するのか。一体どれだけの平穏の中にいればそんなことを考えるのだ? 駄目だ、この子は脳無しだ。生かしておいても仕方がない。


 俺は少女の首を締めた。



「お……ね……さま……」



 少女の顔を直視する。

 どうして気づかなかったのだろう?


 それはルージュだった。


「あああああああっ!!」


 私は悲鳴を上げた。


「ルージュ! しっかりして、ルージュ!」


 妹を抱きかかえ、必死に呼びかける。しかし反応はない。心音はどんどんと小さくなる。「いやぁ、いやあああああっ!!」


 不意に胸に衝撃が走った。

 ナイフが突き刺さっていた。


「かはっ……」


 私の腕からルージュが消え、目の前に仮面をつけた男が立っていた。


「お前は誰だ」と、彼は言った。私の肩を掴んで立ち上がらせ、ナイフを根元までめり込ませる。


「私は……ジュノー・オブライエン……」


「聞こえない」


 男はぐりぐりとナイフを動かす。悲鳴さえ上げられないほどの鋭い痛みが私を襲った。おびただしい血が流れ、床を朱色に染め上げる。それでも、私は目の前の男から目を離さなかった。手を握り、しっかりと見据える。


「あなたが壊した……ルージュの姉よ!」


 瞬間、周囲の景色が転換した。



 背後に祭壇が見える。そこは大聖堂の中だった。

 私は膝まで水に浸かっていた。大聖堂が水没している。私たちを取り囲むように柱が立っており、妖しい光を放っていた。聖堂の中には人の姿はなく、時の静止を錯覚させる静寂に包まれていた。天井にはぽっかりと穴が開いており、そこから月が私たちを覗き込んでいた。青みがかった月は不気味なほどに大きく、非現実を確信させるには十分だった。



 嫌な感触が手の中にあった。硬くて、重たくて……辛い。私が男をナイフで刺している。私と男の立場は入れ替わっていた。


「ぐぁっ……?」


 男は咄嗟に私の頭を掴んだ。けど、私はナイフを放さず、より深く差し込む。ナイフは熱を帯び、男を内から焼き始める。男はがくりと膝を突いた。抵抗する力もないようだった。私は血で染まった手で、彼の仮面を外した。


 目の前にいたのは、私だった。目を血走らせ、憎悪に顔を歪めた私。人を傷つけるために、他者の幸福を奪うためだけに生きている私がそこにいた。


「あなたは……異端審問官ね」と、私は訊ねる。


「お前は……」

 もう一人の私は目を見開く。「俺……なのか?」



 途端、月が割れた。中から噴出した赤い血が天井から流入し、私たちをバクリと食べた。聖堂も、水も、私も、全てが赤に染められて行く。

 すると、目の奥でチカッと星が瞬いた。眩しいと思う間もなく、気づけば頭の中を見知らぬ記憶が流れていた。思考が止まる。それはもう一人の私も同じようだった。




「お前は必ず巫女になれ」


 父は言った。私はオブライエン家の長女として生まれた。オブライエン家は大聖堂と都市を繋ぐ役を果たしている。そのため、物心つく前から私は信仰に生きていた。赤の巫女になることが私の夢だった。聖地の象徴である巫女だけど、もう長い間オブライエン家からは出ていない。父は私に期待していた。私はそれに応えたかった。




 向かって来る相手を切りつける。ひるんだ隙に、爆破魔法で吹き飛ばす。相手が次にどう動くのか、どうすれば瞬間を制することができるのか……俺はそれらを理解する速度が人よりも格段に速いようだった。才能と呼ぶ類のものだろう。気がつけば、立っているのは俺だけだった。「新たなグレンの誕生だ」、誰かが言った。




「君は本当に美しい」


 大司教様は言った。私は大司教様の従事となり、彼に仕えた。彼は私を、触れたら壊れる硝子細工のように大切に扱ってくれた。彼に選ばれ、大聖堂に入れたことをとても誇らしく思えた。それが巫女となるための近道だと分かっていたから。




 異端者が悲鳴を上げる。小さな子供でも、力のない年寄りでも、容赦なく殴りつける。彼らの血が俺を染める。それだけを求めた。赦しを請うものもいた。助けを求める者もいた。理解できなかった。始めたのはお前らだ。今になって後悔するくらいなら、何故大聖堂に逆らうような真似をしたのだ?




「あなたの体はもはやあなただけのものではありません。聖人様に選ばれた特別な人間なのですからね。その自覚を持つことです」


 修道長は言った。次代の巫女となることはもはや確定していた。父もとても喜んでくれた。これでよかったのだと思う。でも、多くのものを失ってしまった。修道院が私を閉じ込める監獄に思えた。もうどこにも行けないのだと悟った。




 何人壊しただろう。何人島送りにしただろう。いつしか俺は審問官たちからも恐れられる存在となった。全ては大聖堂のため。この聖地を護るためだ。人々がただ純粋に信仰に生きることができるように、俺は今日も血にまみれる。そのためだけに生きている。


 それがグレン。




「オレと一緒に聖地を出よう」


 ルビーは言った。巫女となる以外にも、生き方があるのだと知った。私には無限の可能性が広がっているのだ、と。でも、何もかもがもう遅かった。私の人生は決まってしまった。彼の傍にいるのが辛かった。あまりにも眩しすぎたから。だから別れた。私は巫女となり、大聖堂のために生きる。そのためだけの命。もう、それでいい。


 それがジュノー。



 次代の赤の巫女と、異端審問官。正反対の二人だけれど、共に大聖堂の一部であることは変わらない。私たちは信仰に生まれ、信仰に生かされている。それが光の下か、影の中かという違いだけ。



 私はジュノーであって、グレン。

 俺はグレンであって、ジュノー。



 気がつけば、一人だった。







「私がルージュを壊した」


 呆然と、私は呟く。


 ルビーは私を抱き締めた。


「違う。壊したのはグレンだ」


「私がこの手で……この手で……」

 目の前の手が、とても穢れたものに思えた。「ああああ……」、絶望の声を上げる。


 ルビーは私の手を握った。「聞け。グレンの行いは赦されないことだ。いかなる理由があろうとも、赦されてはいけないことだ」


「私が、私が――! わた、わ――れが、俺が、俺が……」


「だが、もう終わったことでもある。過去はいつだって過去だが……お前が生きているのは未来なんだ」


「ああああああッ!!」



 だからあの子は私に怯えていた。


 お父様はルージュを審問にかけさせたのよ。彼女から魔法を取り上げるために。私はいつもの通り審問を行った。あの子を徹底的に壊した。再生魔法で体の傷が癒えても、記憶が改竄されても、あの子は心のどこかでそのことを覚えていた。私の中のグレンを感じていた。それなのに……! 私は彼女に拒絶されていると自分勝手に嘆いていたなんて! 


「ルージュ……! ごめんなさい、ルージュ……!」


 ルビーは私を抱き締めてくれた。彼の胸の中で、私は稚児のように泣き続けた。とめどなく零れ落ちる涙は、私の血。嫌悪や恐怖、たまらない悔恨が一度に押し寄せ、もはやまともな思考などできなかった。



 こうして私は異端審問官グレンとの人格の同一化を果たした。妹を壊したという残酷な記憶の共有によって。


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