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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第四章 モモの審問
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或る修道女の話 ― アテナ・ウィンストンの悩み事 ―

 都市の喧騒の中を歩きながら、私たちは様々な話をした。


 周囲を飛び交う人々の賑やかな声は、閑かな修道院で暮らしている身からすれば、やけに馴れ馴れしく感じた。ベタベタと、平気で人の領分に踏み入って来るような……。だけど不快ではなく、むしろ歓迎している自分がいた。私は人に飢えていたのかもしれない。普通の人たちの普通の生活に……。自分が日々巫女に近づき、世俗とかけ離れていくことは自覚していた。戻りたいとは思わない。でも、せめて今だけは……ただの子女として都市の中に溶け込んでいたい……。そんな思いも、道の端に立っている赤い顔を目にすると霧散してしまったのだけど。


 アテナはこの後劇場に行くのだと言った。劇の稽古があるのだ、と。彼女がミラ役に選ばれたことは修道院の私にも届いていた。


「あなたのミラはきっと素敵なのでしょうね。観に行くことはできないけれど、修道院から応援してるわ」


 アテナは「ありがとうございます」と、微笑んだ。その時私は、彼女の顔に影が差すのを感じた。


「嬉しくないの?」


「え?」


 アテナは虚を突かれたように私を見る。


「ごめんなさい、変なこと言って……。でも、今のあなたを見ていると……何か悩んでいることがあるみたい」


 アテナは口元に手をやり、フッと笑った。


「姉様は何でもお見通しなのですね」



 アテナは悩みを打ち明けてくれた。みんなが望むミラの役を任されたけれど、少しも嬉しくない。それは本来、彼女の友人がやるはずだったから。しかしアテナは貴族で、友人は平民だった。だからアテナはミラに選ばれた。その後、友人は劇団をやめてしまった。どうやら母が裏で動いていたらしい。時に、貴族として生まれた自分が恥ずかしくなる時がある。ミラを演じたくないけれど、今さらどうすることもできない。本当は、ディフダの役を演じたいと思っている……。


 純粋な彼女には、自分を飛び越えて頭の上で行われる大人たちの決定が許せなかったみたい。でも同時に、世界はそういう不条理の積み重ねで構成されており、社会の中にいる以上それを受け入れなければならないことも理解していた。年相応の子供のアテナと、大人のアテナが喧嘩をしていたのね。私にできるのは、二人のアテナに折り合いをつけてやることだけだった。


 アテナはディフダの役が脚本から消えてしまうことを気にしていた。だから私は、彼女がディフダを演じたらいいと言ったの。もちろんそのままの意味ではなく、ミラとして、ディフダをとりこんだ演技をすることで彼女を劇の中に蘇らせてあげればいい、と。大人たちに従順でありつつも、不条理に抗い、アテナ自身の想いを通すの。ディフダとともにいなくなってしまったという友人の子のためにも、ね。



 アテナはしばしの間うつむいて考え込んでいたけれど、顔を上げた時には笑顔があった。悩みが晴れたみたいだった。


「とにかく、私は私の思う通りに一生懸命に頑張ってみます」と、彼女は言った。


「ええ、頑張ってアテナ。あなたが何をしようとも、私はいつもあなたの味方だから」


「私が大聖堂の教義から外れない限り、でしょう?」


「そういうこと」


 私たちは笑った。それは二人だけに通じる冗談のようなもの。でも、とにかくあの子には頼れる大人が必要なことは分かっていたから。高い知性と能力は、時に自身を苦しめ、孤独にするものだから。友達ではない、傍にいて支えてあげられる人が必要なの。


「アテナ……」

 私は彼女の肩に手を置く。「他に、私に相談したいことはない? 話さなければいけないことはない?」


「え……」

 私の顔が真剣だったからか、彼女は困惑したようだった。「と、特に……ありません」


 アテナは目を逸らした。もっと器用な子のはずなのに、私に対しては不思議と隙だらけなの。


「あるのね」


「えっと、そ、その……」

 はっきりと視線が泳いだ。「大したことではないんです……。さ、最近怖い夢を見て……」


「夢?」


 頭の中で、泣き叫ぶ少女の声が聞こえた気がした。


「内容は……起きた時に忘れてしまったのですが、とても恐ろしいものだということだけは覚えているんです。だから、眠るのが少し怖くて……」


「夢はあなたの心の声だと言うわ。どんな内容なのか覚えていれば、力になれるかもしれないけど……」


「あんなものが私の心だなんて、恐ろしい……」


 アテナは身震いして見せた。その反応を見るに、本当は夢の中身を忘れてなどいなかったのかもしれない。


 でも、私が知りたいのはそんな話ではなかった。


「大聖堂の中では……何かなかった?」


「大聖堂?」、彼女は不思議そうに小首を傾げた。


「いえ、何もないならいいの」

 私は彼女から手を離した。「でも……もし何かあったらすぐに私か……コーデリア様に相談してね。あの人はあなたの味方になってくれるはずだから」


「何かとは?」


「何でも、よ……恐ろしいこと」


 ドアからアテナが姿を見せた時、私の心は深く沈んだ。聖衣に身を包んだ彼女はとても美しかったし、大役に任命されたことを嬉しく思っているらしいことは見て分かった。かつての私と同じように。


 それでも私は、彼女の姿を大聖堂で見たくはなかった。


 全部、私のせいなの。アテナを大聖堂に入れてしまったのは、私のせい……。大司教様は初め、私の妹を侍従に選ぶつもりだった。でも、私が選ばないようにと言ったから……アテナが選ばれた。私は……ずっとそれを後悔していた。アテナがもう笑えなくなるんじゃないかって。でも、他にどうすることもできなかった……。


「そういえばこの前、大聖堂でルージュと会いました」


 しばしの沈黙を打ち消すように、アテナは言った。


「そう。お祈り?」


「いえ。聖週間での務めについて話があったのです」


「ああ、そうだった。島に行ってから関わらなくなっちゃったから、すっかり忘れてた」


 御三家の私たちには、聖週間にも何かと仕事があるの。特に今年は殿下がご参加なさることになっているから、例年以上に大変なようだった。


「ルージュとは、仲良くなれた?」


 もう諦めてはいるけれど、一応アテナに訊ねてみた。

 彼女は悲し気な顔をして、首を振った。


「やっぱりあの子は私のことが嫌いみたいで……」


「困った子ね」


 アテナには昔から妹と仲良くなりたいと何度も相談を受けていた。私もまた、彼女が傍にいてくれたらルージュにとってもいい影響だと思い、応援していた。でも、上手くいかなかった。ルージュはアテナのことを拒絶していた。アテナに対し、強烈な劣等感を抱いているのは傍目にも明らかだった。ルージュの進む道――大人たちが褒めてくれる行いの先には常にアテナという天才が立っているの。ルージュが才能を発揮できるのは、その道ではないのに……。早くそれに気づいてくれるといいのだけど。


「舞台の裏側を案内しようと思ったのですが、興味がないと言われてしまいました。私たちはあまり趣味が合わないみたい……」


「本当は……あの子も演劇は好きなはずよ」


「え?」、アテナは意外そうに私を見た。


「昔、劇団の試験を受けたことがあるもの」


「本当ですか? そんな話、聞いたこともないわ……」


「団長さんなら知っているはずよ」


 ルージュがそれをアテナにだけは知られたくないと思っているだろうことは容易に想像できた。あの子はきっと怒るでしょう。逆効果だとは分かっていたけど、私は教えずにはいられなかった。ルージュが自分を護るために張り巡らせた防壁……あの子はそれを自分の力で建てたのだと思ってる。誰かが壊して、本当のあの子を見つけ出してやらなければならない。私はアテナにその想いを託していたのかもしれない。


 ルージュは自分をアテナのように特別な子だと思ってるのでしょう。でも、私には今の彼女は平凡にしか見えない。そうではなかったあの子を知っているから。



 私たち姉妹が幼い頃、オブライエン家の浮島で職人たちが魔法陣を使った工事をしていたことがある。屋敷から直結する新しい水路を掘っていたの。魔法を間近で見る機会なんてめったになかったから、私とルージュは毎日時間を見つけては食い入るように眺めていたわ。職人たちは地面に魔法陣を描き、採掘範囲を白線で囲い、少しずつ地面を崩していた。でも、魔法陣が古い種類のものだったのか、魔石の見積もりが甘かったのか、上手く機能していないみたいだった。職人たちはしばらく作業を中断させ、魔法陣を前にああでもない、こうでもないと言い合っていた。


 ルージュは若い職人に魔法陣について話を聞いていた。外円と内円の関係、それらを繋げる小径パス、そしてアルカナの話。どの線がどういう効果を持っているかという話まで教えてもらうと、ルージュはおもむろに陣の小径と内円の間に二本の線を書き足した。職人たちは当然怒り、私は慌てて頭を下げた。ただのいたずら書きだと誰もが思ったけど、違った。ルージュの加えた線は魔法陣の効率を上げてしまったの。同じ消費量でより強い魔力を扱えるようにしたのね。それは都市の魔術師たちの誰も思いつかないものだった。今ではみんなが当たり前のように線を書き足しているけどね。それからしばらくしてこの聖地にも伝えられたから。そう、あの「ウラニウスの堰」のことよ。ルージュは直感で分かったのだと言っていた。むしろ分からない私たちを不思議そうな顔で見ていたわ。


 あれはまぐれなどではなく、特別な才能だったはず。職人たちはすぐに彼女を留学させるべきだって言っていたわ。当然、私もそう思った。本格的に魔法を勉強するなら、王都か外国の魔術学校で学ぶ以外にないから。オブライエン家から国一番の魔女が出るかもと褒めてあげると、あの子は誇らし気に胸を張っていたわ。


 でも、お父様がしたのはあの子を叱ることだった。魔法など貴族の娘が手を出すものではないという前時代的な理由で。ルージュは隠していた魔導書を自らの手で燃やしてしまった。逆に、信仰に熱心になればなるほど、周囲はあの子を褒めちぎった。だからルージュはいつしか敬虔な信徒になること以外の興味をなくしてしまったの。みんなが寄ってたかってあの子の才能に蓋をしてしまったのね。


 ルージュもアテナのような特別な子になっていたのかもしれない。王国の歴史に名を残す偉大な魔女にだってなれたのかも……。彼女を導いてあげるのが、姉である私の役目だったのでしょうね。でも……私は妹の助けになることはできなかった。


 私たちは、お世辞にも仲の良い姉妹とは言えなかった。お互い、嫌い合っているわけではないことは分かっている。深い愛情を抱いていることも。でも、心の距離は少しも近づくことはなかった。

 ルージュははっきりと私に対して怯えていた。私の近くにいると呼吸が荒くなり、みるみる顔が青くなっていくの。気を失ったこともあるくらいよ。ルージュ自身にもその理由は分からないみたい。だって、以前は確かに普通に接することができていたから。ある時期から――ちょうど、さっき話した魔法を否定された頃からかしら――ルージュは私を恐れるようになったの。苦しむ彼女を見たくないから、私は距離をとることにしていた。大人たちが彼女を変えていくのを、遠くから見ていることしかできなかった。



 私たちは浮島間に連結された橋を通った。幅の広い水路には小舟が浮かんでいた。


「それでは、今度聞いてみることにします。本当に演劇が好きなら、一緒に劇をやることだってできるかも……」


「そうね。そうなったら、私も嬉しい」


 私がそう言うと、アテナは明るい笑みを浮かべた。


「ふふっ。私の友達に、とても演技の才能のある子がいるんです。その子とだって、きっと上手く――」


 何気なく水路を見たアテナは、バッと欄干から身を乗り出した。


「シュナー!」


 アテナは似合わない大声を上げ、手を振った。


 慎ましい彼女しか知らなかった私は、驚いてしまった。彼女の視線の先を見ると、一艘の小舟が見えた。舟にはよく日に焼けた女の子が乗っており、こちらに向けて手を振っていた。


「あ……」


 私のことを思い出してくれたのか、アテナは恥ずかしそうに頬を染めた。


「あの子は?」


「私の友達です……ちょうど今、話してた……」


「そう、あの子が……お名前は?」


「シュナ。ただのシュナです。漁業ギルドから棺舟の船頭になった女性がいるのは知っていますか? その人の娘です」


 アテナが平民の子と親しくしている話は有名だから、都市の者ならば誰でも知っていると思う。ウィンストン家の娘でありながらアテナの交友関係が狭いのは、平民の子との付き合いを貴族たちが忌避しているからだという話よ。当然、ご当主様からは猛反対されているそうだけど、二人の関係は今日まで続いている。アテナは意外に頑固なの。本当に大切だと分かっているものには、たとえ誰に何を言われても自分を貫き通せる子なのよ。



 舟は橋の下までやって来た。


「何やってんの、そんなとこで」と、シュナは言った。


「劇場に行くところ。景気はどう?」


「ぼちぼち~」

 シュナは頭を掻き、気持ちのいい笑みを浮かべる。「送ってくからさ、この前みたいに手伝ってよ」


「な、何言ってるの!」


「アテナが手伝ってくれると売り上げが全然違うんだよねぇ~」


 アテナは慌てて口の前に指を立てる。「シュナ、シー! シーッ!」


「大司教のお付きなんてやめてさ、一緒に魚売って暮らそうよ。二人で天下取っちゃおうぜ!」


「もう! 馬鹿! 知らない!」

 そう言うと、アテナは欄干を離れ、こちらを振り向いた。「お姉様、ええと……その……」、頬を染め、胸の前でもじもじと指をいじり始める。


 私は微笑み、言った。「いいわ、ここで別れましょう」


「ごめんなさい。また今度ゆっくりと……」


「ええ、また今度……」


 私の返事を聞くや否や、すぐにアテナは駆け出した。弾むような足取りで。橋の下の渡し場では、シュナが待っていた。アテナはシュナに飛びつくと、舟に乗り込んだ。


 遠ざかっていく小舟を、橋の上から見守り続けた。アテナは袖をまくり、魚を手に取るや、道行く人々に声をかけていた。


「みなさん、おいしいお魚はいかがですか? 今なら一匹100サークでお譲りします!」


「勝手に値引きしないでよぉ」


 アテナは本当に楽しそうに笑っていた。あんな風に笑える子だったなんて、知らなかった。あの子の違う一面を見ることができて、とても嬉しく思えた。それと同時に、少し寂しくも思った。みんな私から離れて行くんだって。



「オレと一緒にこの聖地を出よう」


 彼はそう言ってくれた。

 本当はとても嬉しかった。

 でも、私はこの聖地を出るのが怖かった。ここから出たら、生きてはいけない人間なのだと分かっているから。私は大聖堂という巨大なシステムの中に取り込まれてしまった。もうどこにも行くことはできない。


 欄干にもたれ、空を見上げた。


 子供の頃は、空がどこまでも続いているのだと思っていた。今では家々の屋根に区切られた小さな空が私の全て。その視界の中には嫌でも大聖堂が入っている。まるで私を監視するように。私を逃がさないと、いつでも見ていると無言の圧力をかけているの。



 ふと、ポケットの中にあるものを思い出す。大司教様が残したハンカチだった。その鋭い臭いに隠れるようにして、どこかで嗅いだ匂いが混じっていることには気がついていた。一体何の匂いだろう……なぜか、私はそのことが気になって仕方なかった。心のどこかで、既にその答えには気づいていたと思う。でも、それを受け入れたくなかったのは……答えの奥に繋がる深い闇に怯えていたから……。


 大司教様にハンカチを当てられた時、意識が薄れるのと同時に、とても穏やかな気持ちになったことを覚えていた。その時の私は、とにかく胸の苦しみから解放されたかった。だから、ハンカチを鼻に近づけた。少しだけなら、大丈夫だと思った……。



 どこかで悲鳴が上がる。女の子の悲鳴……。薄暗い室内……。辺りは血だらけ。また、この夢だ。私の手にもおびただしい血がついていた。足元に横たわるのは意識などとうに失った女の子。その顔はどこかで見たような……。私の知っている子? 一体誰……。足で少女を仰向けにする。血にまみれた顔がこちらを向いた――。



 ハッとして目を開けると、眼下に都市が広がっていた。人々の姿がとても小さく見えた。


 私は劇場の屋根に立っていたの。何故そんな真似をしたのかも、どうやって上ったのかさえ分からない。私は怯え、その場にうずくまってしまった。


 奇妙なことだけど、ハンカチの臭いを嗅ぐと自分でも意図せぬ行動に出てしまうの。まるで別人になってしまったかのよう……。いえ、もう一人の自分が外に出て、勝手な行動したかのような。大司教様の首を締めたのも、劇場の屋根に上ったのも、別の私なの。そうとしか考えられなかった。


 そして、意識を失ったときに見る、暴力的な恐ろしい夢……。私は一体、誰を傷つけていたのだろう? 夢だと分かっているからこそ、それがとても気になった。


 何とか足場を見つけ、時間をかけて地上に降りた。辺りはすっかり暗くなっていたわ。 

 渡し場から舟に乗り、島に戻った。ハンカチは意識を失くした時にどこかで落としてしまったのか、既に手元には無くなっていた。でも、その臭いは確かに鼻に残っていた。舟に揺られながら、手で顔を覆い、その臭いのことを考えていた。もう、疑いようがなかった。私の意識を奪うその臭いは、夜課で使うお香と同じものだったの。


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