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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第四章 モモの審問
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或る修道女の話 ― 大司教との一件 ―

 その数日後、私は大聖堂に向かった。洗礼の更新が必要だったから。

 年に一度、洗礼を受けなければ大聖堂に入ることができないなんて本当に面倒だと思っていたけれど――。大聖堂に向かうまでに、興行をするワーミーたちの姿を見たの。彼らの侵入を防いでいることを考えると、少なくとも無駄とは言えないわね。もしも彼らが大聖堂に入ってしまったら、お金になりそうなものは全て持って行ってしまうでしょうから。異教徒たちに対して冷淡な私がいる一方で、誰かさんの姿を探している私に気づいて、顔が赤くなってしまった。


 大聖堂に入ると、大司教様が迎えてくれた。一介の修道女の更新にわざわざ大司教様が出て来るなんてありえないことだけど、たまたま居合わせたそうよ。そしてたまたま司祭様たちの手が空いていなかった。

 更新はすぐに終わった。大司教様は小部屋に私を案内すると、人払いをして二人だけになるように取り計らった。長椅子に私を座らせ、その隣に腰を下ろすと、手を握った。肉付きのいいその指が、私の指を撫でた。じっくりと舐るように。


 気分が悪くなった。自分でもどうしてか分からないのだけど、これまで受け入れていたことがもはや耐えられなくなっていたの。彼の手が染みだらけだったからかもしれない。あの美しい手と比べたら、それはあまりにも――。私は彼の手を振り払い、部屋を出て行こうとした。


「妹はまだ元気にしているかね?」


 私の背中に、大司教様は呼びかけた。


「まだ……?」


 私が怪訝な顔で振り返ると、「近頃はあの子に興味を持つ者が多いようだね」と、穏やかに言った。


「どういうことですか?」と答えると、彼は長椅子のクッションをポンポンと叩いた。私は戻り、彼の隣に腰を下ろした。


「私の妹に一体誰が、何の用があるというのですか?」


 大司教様は問いには答えず、私の肩を撫で続けた。


「この聖地には聖人様の祝福を受けた子が多いようだ」


 彼には、それ以上のことを話すことはできないようだった。私を留めるための思い付きかとも思ったのだけど、その目は不安げに天井やドアの外へと向けられていた。

 やがて、彼はそっと私の耳元に顔を寄せた。うなじの辺りがゾワリとした。


「困ったもので、狂信者とはどこにでもいるものだ」


「大司教様、体調が優れないのですか?」


  私は彼の背中を撫でた。誰かに聞かれることを危惧しているのは明らかだったから、誤魔化さなくてはと思ったの。「すぐに人をお呼びいたします、今しばらくお待ちください」


 腕が背中に回される。私はうつむき、息を吐いた。


「どうして逆らうことができる? 従うより他になかった……」


「元気になられたようですね。もう大丈夫でしょう」


 私は咄嗟に立ち上がった。


「ジュノー、私はお前に傍にいてほしいだけなのだ」


 彼は急に何年も老けたように見えた。すがるように腕を伸ばす。

 宙をさまよう手を眺め、私は一歩後退する。

 やはり私は笑みを浮かべてしまった。視線が冷たくならないように苦労したわ。


「申し訳ありません。これで失礼します」


 頭を下げると、部屋から出て行こうとした。


 直後、強い力で後ろから肩を引かれた。体勢を崩す私を、大司教様は強引に抱き締めた。そのまま長椅子の上に押し倒される。


「何を――」


 抵抗しようとしたけれど、顔に布を押し付けられてしまった。その匂いを嗅いだ瞬間、私の意識は薄れていった。


「大丈夫だよ、ジュノー。これで全てが上手くいく――」



 不思議な夢を見た。


 灯石の明かりが頼りない、薄暗い部屋に私はいた。石造りで窓もないその場所は、まるで牢獄のようだった。何か、不快な音が鳴っている。甲高い鳥の鳴き声のような――。目の前に頭から血を流した女の子がいることに気づいた。この子の悲鳴だった。狂ったように泣き叫び、命乞いを繰り返している。少女の無防備なその頭を、私は何度も殴打した。それでも声が止まないものだから、頭を掴んで壁に叩きつける。殺すつもりはなかったけど、殺してもいいと思っていた。彼女の意識がなくなり、心音が低下すれば、治癒魔法を施した。心音が復活すれば目覚めさせ、また暴行を加える。それをひたすら繰り返した。少女はもう叫んではいなかった。


 脳がキュッと縮むほど、恐ろしい夢だった。何よりも恐ろしかったのは、その感触があまりにも生々しいものだったこと。まるで、現実に私がやっているような――。



 誰かに肩を叩かれる。ハッと、目を覚ました。目の前に、赤黒い顔をした大司教様がいた。彼の後頭部を長椅子のクッションに押し付け、私は首を締めていた。必死に私の肩を叩く手からは力が抜け、ぽとりと落ちた。


「ひぃっ!」


 私は手を離し、その場に尻餅をついてしまう。一体何が起きたのか……まるで理解ができなかった。大司教様は長椅子に崩れ落ち、ピクリとも動かなかった。恐る恐る近づき、口元に手を置いた。呼吸があったので心底安心したわ。彼の衣服を整え、呼吸を楽にしてあげる。すぐに顔色も戻った。


 彼が握っていた布は床に落ちていた。ハンカチだった。刺激臭にすぐに顔を背けたけれど、不思議とどこかで嗅いだことのある匂いが混じっているような気がした。ふと大司教様の鼻に近づけてみると、ビクリと身体を痙攣させた。ただの臭いでないことは確かだった。



 ふいに、ドアをノックする音が聞こえた。悲鳴を上げそうになるのを何とか堪えたわ。咄嗟にハンカチをポケットにしまうと、服の乱れを直し、息を整えてからドアへと向き直った。


「どうぞ」


「失礼します」


 入って来たのは、お人形さんのように美しい女の子だった。彼女は私を見て、目を丸くした。「ジュノー姉様!」


 アテナ・ウィンストンだった。


 彼女が大司教様の侍従に選ばれたことは知っていた。聖地の誰よりも綺麗な子だから、以前から大司教様のお眼鏡にはかなっていたの。でも、御三家から侍従に選べるのは一人だけと決まっていたから、私がいる間は選べなかった。大司教様が新しいお気に入りを手に入れたという話は、修道院でも話題になっていた。


「久しぶりね、アテナ」

 私はそう言うと、ドアへと近づく。「どうしたの? 大司教様にご用?」


「はい。なんでも聖週間に関する重要な話だとかで……」


 彼女は胸に厚い本の束を抱えていた。


「大司教様はようやくお眠りになったところよ。そっとしておいてあげて」


 アテナは大司教様を見て、微笑んだ。「そのようですね」


 本を机に置くと、私たちは部屋を出た。まだ気が動転していて、とにかく人の目が怖かった。一刻も早く修道院に戻りたかった。


「姉様、今日はどうしてここに?」


 アテナは私の腕を掴み、無邪気に訊ねた。


「洗礼の更新よ」


「ああ、なるほど……。修道院でも更新はできないんですね」


「そうなの。古い規則よ。みんな手間だと思っているのに、いつまでも変わらないのよ。変な話ね」


「でも……そのおかげで私は姉様に会えたから。今だけは古い規則に感謝します」


 アテナは頬を染め、小さく舌を出した。あまりにも可愛かったものだから、思わず抱き締めてしまったわ。アテナは昔から私を慕ってくれているの。オブライエン家はウィンストン家と折り合いが悪いのだけど、私たちは上手くやっていた。私は彼女のことをもう一人の妹のように思ってる。


「そうだ、姉様。大司教様はとてもお喜びになったでしょう? あの方は何かにつけて姉様の名前をお出しになるんです。きっと姉様のことが大好きなのね」


「嬉しいわ」、私は微笑む。上手く笑えているのか、不安だった。



 アテナは私を橋の前まで見送ってくれた。


「大司教様が目をお覚ましになったようです」


 報石を見て、アテナは言った。内心ドキリとし、続く言葉を恐々と待っていたのだけれど、彼女は特に反応を示さなかった。他の聖職者が慌てた様子も見えないことから、大司教様は私のことを話さなかったのだろうと判断した。もしくは、気を失ったときに記憶が曖昧になってくれたのかもしれない。


「では、姉様。私はこれで失礼します」


「待って、アテナ」


 大聖堂に戻ろうとする彼女を、私は引き留めてしまった。一人になるのが不安だったこともあるけど……彼女に聞きたいこともあったから。アテナは困惑していたけれど、用事は済んだので元々帰る予定だったのだと受け入れてくれた。私の顔をしきりに窺っていたから、そこに常ならぬものを感じとったのかもしれない。類まれな賢い子だから。


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