或る修道女の話 ― 仮面を被った魔石売り ―
●
あれは二週間前のこと、私は修道院にいた。知っての通り、孤島にある修道院には都市の情報は入って来ないの。修道女たちは畑で作物を育て、家畜を飼い、自給自足の生活を送ってる。もっとも、生活必需品のほとんどは都市に頼っているから、形だけに過ぎないのだけど。月に二度、荷物を運んでくる船頭さんたちだけが外界と接触する機会なの。彼らとの会話を通して、私たちは都市の様子を知ることができる。その時初めて、私はワーミーが聖地にいることを知った。
修道院の生活は聖人様へのお祈りを中心に回っているの。私たちは毎日、大聖堂の鐘の音が鳴るたびにお祈りを捧げてる。ワーミーの話を聞いてから二日後のことだった。その日も朝の音と共に礼拝堂に集まり、お祈りを捧げていた。
でも、その朝はいつもとは違った。ハンナという子が遅れて現れたの。お祈りの遅刻は厳禁、寝坊などはもってのほか。私は年少の子たちの教育を任されているから、彼女を叱った。でも、私は知っていた。ハンナが誰よりも早く起きていたことを。偶然、外に出て行く彼女の姿を窓から目撃していたの。
ハンナにそう告げると、彼女は謝罪と共に、ある物を私に差し出した。魔石だった。彼女は魔石売りと会っていたの。その少し前から、島の周囲を回っている見慣れない小舟の話は話題になってはいたの。みんな、外から来た商人だろうと、気にも留めていなかった。事情を知らない外の人たちが島に近づいてくるのはよくあることだから。でもハンナは舟が魔石を取り扱っていることに気がつくと、板に文字を刻み、島から放り投げた。一日の始まりを告げる鐘の音が鳴る前に、島の船着き場に来てほしい――と記して。魔石売りは書かれていた通りに船着き場に現れ、そしてハンナは魔石を買ってしまった。でも、朝のお祈りのことなど知らない魔石売りは、ハンナの予想よりも遅くに現れた。そのためにお祈りの時間に遅れてしまったというわけね。
魔石売りはハンナに修道院の話を聞きたがっていたそうで、話を聞かせてくれれば魔石を一つプレゼントすると言ったの。ハンナは翌朝にまた会う約束をしたのだと私に教えてくれた。私はハンナを諭し、彼女がとった行為がどんなに愚かなことかを教え、院長には内緒にする代わりに二度と同じ真似をしないと約束させた。
翌朝、私はハンナから預かった魔石を手に、船着き場に向かった。魔石売りは仮面で顔を隠した得体の知れない人で、まだ子供のようだった。事情を説明すると素直に魔石を受け取り、代金を返してくれたわ。彼は私にも修道院の話を聞いて来た。
「ここは聖ミラ修道院、修道女たちが外界から離れて生活を送っている場所なの。清貧を求める人たちばかりだから、あなたの商売の手伝いにもなりません。申し訳ないけれど、もうここには来ないでほしいの」
フフッ。私がそう言うと魔石売りは島の方を見て、「楽園はここにあったのか」なんてつまらないことを言ったわ。彼の舟が去るのを見送ると、私は朝のお祈りへと向かった。それで終わっていれば……私は今ここにはいなかったでしょうね。フフフ……。
その翌日。午前中、私は自室の窓際で針仕事をしていたの。年少の子たちの破れた衣服を繕ってあげていたのだけど、ふと人の視線を感じた。顔を上げると、窓の外からこちらを見ている人がいたの。私の部屋は二階だから、とても驚いたわ。仮面を被ったその人は、そう、魔石売りだった。
「どうしてあなたが――」
私は絶句し、思わず椅子から飛び上がってしまったわ。
「ようやく見つけた」と、魔石売りは言った。「なかなか苦労したぞ、誰にも知られずにここに来るのはな」
外から人の声がしたものだから、私は慌てて彼を部屋の中に入れた。どうして匿うような真似をしたのか、自分でも分からない。でも、彼のことがまだ知られていないのなら、わざわざ騒ぎにすることはないと思ったの。それに、もしも捕まってしまえば審問にかけられるのは確実だから。まずは話を聞いて、処遇を決めるのはその後にしようと思ったのね。
ささやかに手を振る年少の子たちに笑顔で答え、振り返ると、魔石売りは私のベッドに腰掛けていた。
「あなたは……本当に魔石売り?」
私は怪訝な目で彼を見た。だって、そうでしょう? 彼は島に上陸しているのだから。あなたも知っている通り、島には庇護魔法がかけてあり、上がるにはいくつかの条件がある。彼がそれらを満たしているとは思えなかった。
「他に何に見える?」、彼はパッと手を広げた。
「……聖職者?」
「アハハ、面白いことを言う!」
「仮面をしていては何者かも分からないわ」
「そうだな。失礼した」
彼は仮面を外して、その素顔を私に見せてくれた。
頭の中を風が駆け抜けたような気分だった。
あまりにも驚いたものだから、一時息をするのも忘れて見惚れてしまったわ。あんなに美しい人を見たことがなかったから……。聖人様の使いに違いないと思ってしまったくらい。
「オレはルビウス。気安くルビーとでも呼ぶがいい」
人のそういう反応には慣れているのでしょうね。ルビーは私が呆けているのをいいことに、手をとってその甲にキスをした。ぼんやりしていたものだから、拒絶することもできなかったわ。
ルビーは修道院についてのある伝説を聞いてやって来たと説明した。この修道院には聖女ミラの心臓が収められている、というアレ。知らないの?
普通、湖葬の折には死者の肉体は燃やされてしまうけど、心臓だけは取り除き、聖匣に収めて大聖堂に保管するでしょう? あれは、聖女ミラの湖葬から始まった習わしだと言われてる。ミラはとても敬われている方だから、貴族たちはその遺体の一部を手に入れようとした。実際は、心臓が欲しかっただけでしょうけどね。聖人様にも匹敵するほどの力を持っていたとされるミラの、その力の源である心臓には特別な力が宿っている……そう思われていたのでしょう。その結果、心臓は四つに分けられ、内三つは貴族たちの手に渡った。そして一つが修道院に収められた。貴族たちに渡った心臓は今では失われてしまったけれど、修道院にだけは残っている……。
もちろん修道院に心臓などなくて、あるのは空の聖匣だけよ。伝説なんて作り話なのだけど、ルビーはその聖匣を確認したいのだと言って聞かなかった。
当然、私は拒否したわ。けど……彼の真剣な眼差しにほだされ――いえ、結局私は馬鹿になっていたということなのでしょうね。彼に約束してしまった。みんなが寝静まる夜中まで部屋に匿い、聖匣まで連れて行ったの。聖匣は修道院の奥の保管庫の中にある。私は誰よりも院長から信頼されていたから、鍵を拝借することなんて造作もないことだった。普段の私なら、絶対にそんなことしないでしょうけどね。
あの晩は楽しかった。規則を破るのが、あんなに胸が躍るなんて……私は知らなかった。ルビーはしばらく聖匣を調べていたけれど、すぐに興味を失くしてしまったようだった。代わりに私の手をとり、二人で夜の中を歩いたの。
彼は外の話を色々教えてくれた。聖地で生まれた私にはこの都市が全てだから、カルム中を旅する彼の話はとても新鮮だった。聖地の度を越した人間主義、教戒師たちによる監視社会には辟易しているようだった。私にとっては当然のことだったから、異なる価値観に驚いてしまったわ。純な乙女のように彼の話に聞き惚れてしまった。
それと共に、今まで経験したことのないような気持ちが胸の中に溢れて来た。それはありえないこと。だって、ルビーが聖職者でないならば、彼は――。ルビーは私の頬に手を当てると、キスをした。私は抵抗もできなかった。妹よりも一つお兄さんに過ぎない子供なのにね。ルビーは言ったわ。一目見た時から、ずっと私が欲しかったと。私は彼を受け入れてしまった。それ以外の選択なんて考えもしなかった。
明け方、鐘の鳴る前にルビーは島から出て行った。
その日から、ルビーは日に一度、舟で島の前を通るようになった。私は洗濯物干し場から少し離れた木の枝に、赤いハンカチを吊るした。そこだと、湖のある地点から見えるのだそう。そうするとルビーは夜に島にやって来た。修道院には夜課と呼ぶ夜中の礼拝があるから、毎日というわけにはいかなかった。
夜課は全員が参加するわけではなく、選ばれた一人が朝まで祈りを捧げるの。お香を焚いた部屋でただただ無心で祈り続けていると、聖人様を身近に感じることができる。信者にとっては、それはとても素晴らしい時間なの。修道院に入った時から、私は夜課を任されることが多かった。大聖堂からの指示ということで、将来のための大事な仕事なのだと院長からも言われていたから、気にしたことはなかった。
夜課の日を除き、私たちは人目を忍んで逢瀬を重ねた。いけないことだとはもちろん理解していた。今夜こそ会うのは最後だと告げようと決意をしていくのだけど、彼の顔を見るとそんな考えも吹き飛んでしまう。
彼の腕に抱かれていると、嫌なことの全てを忘れることができた。五歳も年の離れた、背だって私よりも小さな彼に、どうしてこんなに惹かれるのか自分でも分からなかった。もちろん彼の飛びぬけた美貌のためもあるのだけど、それは表面上のものに過ぎなかった。ふとした時に見せる、寂しそうな顔。自分が明日にも死んでしまうとでも言うような……付随する悲哀のようなものが、私の心を掴んで離してくれなかった。それは母性愛のような物に過ぎなかったのかもしれない。私には誰かに恋した経験が不足していたから、自分では判断することができなかった。でも、二人だけの時間は少なくとも私にとって有意義なものだったと思う。
彼が囁くたび、手を握るたび、キスをするたびに私の穢れがこぼれ落ち、綺麗な人間に戻っていくような気がしたの。清廉でいられたあの頃に戻してくれるような……。審問官のあなたには分からないでしょうけど……自分自身を嫌いになるのって、とても辛いことなのよ。本当に苦しいことなの。世界から色が消えてしまうくらいね。人間はきっと本来、自分のことを嫌いになるようにはできていないのよ。
でも、ルビーは私を肯定してくれた。私を美しいと言ってくれた。今の私もそこまで悪くないのかも、と思わせてくれた。頭を撫でてあげていたつもりだったけど、夢中になっていたのは私の方だったのかもね。
「オレと一緒にこの聖地を出よう」
ある晩に彼は言った。「お前の知らない世界の果てまで、どこにだって連れて行ってやる」
「できないわ」
私は頭を振る。「私は赤の巫女となる女……生涯をこの聖地で送る身よ。それ以上の何かを求めはしないし、それで十分だとも思ってる」
ルビーとの時間も、若気の至りの火遊びのようなもの。浮かれた頭の中でもそれを理解していたし、彼との関係を続けるつもりもなかった。潮時だろうと、私は思った。
「あなたとも、もう会う必要はないと思う」
「悲しいことを言うんだな」
ルビーは笑った。ほんの少しの感傷をそこに含んで。
「あなたはワーミーでしょう?」
「気づいていたのか」
「あなたの素敵なお話の数々、ただの魔石売りとは思えなかった。都市には今、ワーミーたちがいるという話を聞いていたから」
「オレたちは住む世界が違うということか」
ルビーはわざとらしく嘆息した。「禁断の愛というのも悪くないんだが」
「それに、そもそもあなたは――」
私は口をつぐんだ。事情は知らないけど、彼はその事実を否定したがっているようだから。でも、すぐに察したみたいだった。瞬く間に顔が真っ赤になってしまったから。
「よく分かったよ」
ルビーは立ち上がった。
「でも、忘れないでほしい。オレはお前を愛している。オレは惚れっぽい男だが……こんなに熱くなったのは初恋以来では初めてだ。強引にでも連れ去ってしまいたいと心の底から思う。それをしないのは、本当にお前のことを愛しているからだ」
ルビーは私の目をジッと見つめる。返事を待っているのだと分かったから、何も答えなかった。
「さよならは言わないさ。寂しいのは嫌いだからな」
そして、ルビーは島を出た。これで私の平穏な日常が戻って来ると、そう思った。でも、一度道を外れてしまうと、元に戻るのはなかなか難しいみたい。ルビーとの時間は私を決定的に変えてしまったから。




