表裏と真逆
僕は螺旋階段を下りていた。
大聖堂の塔の一つで、審問官用の隠し通路だ。地下へと通じる秘密の抜け道で、他の聖職者は知り得ない。
底まで下り、古びた扉を開ける。人一人がやっと通れる程度の狭い道が続いている。灯りを持たずとも道を違わずに歩けるのは、床から光が漏れているからだ。ここは天井裏に当たり、下には通路が続いている。魔鉱石の光が、地下通路を煌々と照らしていた。
車輪の回る音がする。床の穴から下を覗いてみると、白塗りの男が荷車で人間の山を運んでいるのが見えた。死体かと思ったが、よく見ればまだ動いている。島送りにもできない者たちか。彼らの行先は決まっている。
大聖堂の地下には無数の部屋があるが、一つだけ存在しないはずの部屋がある。存在しないはずだから、誰もその部屋には入れない。そこが何のための部屋なのか、何が行われているのか、誰も知らない。でも、その場所はみんな知っている。知っているのに、知らないふりをする。存在しないはずの部屋だから。完全なる聖地の秘部で、送られた者は一人として帰って来ない。
荷車を引率しているのは、年老いた男だった。長老の一人だ。秘密の部屋に誰かが連れて行かれる時には、必ず長老の内の一人がついて行くことになっているようだった。彼らの最期を看取ってあげているのだろう。ふと、長老は顔を上げる。目が合った。咄嗟に、僕は頭を下げる。長老は腕を上げて応えた。どうして僕に気づけたのだろう。あの方々には驚かされてばかりだ。僕は荷車の音が聞こえなくなるまで、その場で頭を下げ続けた。
この聖地で最高の権力を有しているのは長老たちだ。俗世に興味のない彼らは大聖堂の地下深くで教義の研究に没頭しており、決して表には出て来ない。長老たちの言葉に従い、実務を担当するのが巫女の役目。したがって、聖地を実質的に支配しているのはコーデリア様ということになる。大本山ハルマテナから派遣された大司教は所詮お飾りに過ぎず、審問官を動かす力も持たなければ、地下に下りることさえ許されていない。大司教がそれを受け入れているのは、美貌の子供たちをあてがわれているからだ。
大司教の身の回りの世話をする侍従は、七歳から十五歳までの少年少女で構成されている。多くは貴族の子だが、大司教の目に留まれば平民から重用されることもある。大司教は無垢なる子供たちに聖人様の素晴らしさを教えることこそが自分の役目などとのたまっているが、その本意は当然別にある。
子供たちの多くは大聖堂に選ばれた存在であるため、成長すれば聖地の要職に就くことが確実だ。そのため小さな頃から目をかけていれば、将来的には大司教の影響力が増すことになる……。そういう目論見があるため、彼は熱心に子供たちを囲い、教育を施している。出世の足掛かりとなるため、貴族たちは進んで自分の子供を差し出す。彼の長年の努力の甲斐もあり、聖地では大司教派が徐々に力をつけている……と、あの老いぼれは思っているのだろうが、もちろんそんなことはない。聖地の聖職者たちは完全に長老たちの影響下にある。その篤い信仰はいかなる時にも揺るがない。それでも万が一、大司教に尻尾を振ろうものなら僕らが処理する。そうやって、この聖地は運営されている。
ジュノー・オブライエンもかつては侍従を務めていた。彼女は大司教の寵愛を一身に受けており、常に傍にいた。十五歳になった時、手放すのを惜しんだ大司教が特別に十八歳まで任期を延ばそうとしたほどだ。大司教のジュノーに対する執着は尋常ではなく、彼女の処遇を巡って傍目にも明らかにコーデリア様と対立していた。ハルマテナの後ろ盾がなければ、何度壊されていたか分からない。つまりは長老たちを敵に回すのも怖くないほど、ジュノーに入れ込んでいたわけだ。しかしもちろん勝てるはずもない。
ジュノーは人並外れた器量を持ち、誰からも一目置かれている女だ。それであって強い信仰心を持っているから、将来的にはコーデリア様の後を継いで巫女の座に就くことが確実視されていた。いつまでも大司教の子飼いにしておくわけにもいかない。彼女は大司教の手を離れ、湖の小島にある修道院に入った。そこで巫女となるための厳格な教育を受けている。よもや、異端審問官として活動していようとは。
首席審問官、グレン。その冷酷さは僕でさえ背筋がヒヤリとするほどで、どんなにむごたらしい拷問でも躊躇したところを見たことがない。相手が小さな子供でも老人でも亜人でも不具者でも関係ない。彼女の手は常に血に染まっていた。審問官に性別などあってないようなものだが、まさか女だとは思わなかった。それも、あのジュノーだとは……まさに世界がひっくり返ってしまったような衝撃だ。
僕は一時、修道院のジュノーを監視していたことがある。侍従の任を解かれた後でも、大司教がしばしば彼女に会いに修道院に行っているとのことで、ジュノーの真意を確かめることが目的だった。ジュノーは常に優しい笑みをその顔に浮かべ、忌み嫌っているはずの老いぼれにさえ親切に接していた。彼女が眉をひそめたのは、大司教が妹のルージュを侍従に加えようと思うと打ち明けた時だけだ。ジュノーはやんわりとではあるが、断固とした反対の意を述べた。大司教は妹を諦める代わりにジュノーに再び大聖堂に戻ることを求めたが、結局それは叶わなかった。僕がコーデリア様に報告したからだ。哀れ大司教はオブライエンの姉妹を永遠に失った。
ジュノー・オブライエンはまさに聖女の申し子というべき、特別な娘だった。将来的に彼女の下に就くことになっても、僕はコーデリア様と変わらぬ忠誠を示しただろう。優しい彼女とグレンを結び付けたことなど、当然ながら一度もなかった。正反対に位置していた二つの点が線となった。この聖地の人間は、誰しもが裏の顔を持っているという。絶対にありえないことなんて存在しないのかもしれない。
それでは、と僕は考える。
表の僕は、一体どんな人間なのだろう。ジュノーのようにまるで正反対の人間だったりするのだろうか。
部屋に入ると、魔法陣の上に置かれた椅子にジュノーが座っていた。後ろ手に縛られ、椅子の背に固定されている。
彼女は顔を上げ、僕を見た。その顔は死人のように蒼白だった。
「哀れだな、背信者」
僕はそう言うと、ジュノーの頬を軽く叩いた。「お前はジュノーか? それともグレンなのか?」
「どちらも……同じ私よ――」
頬を張る。高い音が鳴った。
「勝手に喋るな」
ジュノーはジッと僕を見る。
「お前は愚かだよ、グレン。コーデリア様の信頼を裏切るなんて、なんと罪深い奴なんだ。一体お前に何が起きたんだ?」
ジュノーは口を横に結んだまま、何も言わない。
髪を掴み、正面から顔を殴る。「聞いているんだよ」
鼻から血を流し、ジュノーはいかにも面倒くさそうに僕を見る。
「意識が……同一化したの」
「だろうな。でなければお前が背信などするはずがない」
腹を蹴飛ばすと、ジュノーは椅子ごと背中から倒れた。僕は馬乗りになると、その端正な顔に何度も拳を振り下ろした。
「分かっているはずよ、モモ。同じ審問官なのだから」
彼女は穏やかな目を僕に向け、言う。「私に拷問は無意味。そういう風に育てたのはこの大聖堂なのだから。やるのなら早くやりなさい」
もはや何もできないと分かっているのに、彼女と目が合うと一瞬ひるんでしまう自分がいた。気に入らない。
「全てを話せ。そうすれば妹の命だけは約束してやる」
壁の紫色魔法陣が発動し、部屋を紫の煙が覆い尽くした。




