悪の討伐
島から出たグレンは、湖面を駆けて都市へと移動する。審問官の履くブーツの裏には水上歩行の魔法陣が刻まれている。湖上都市のシュアンにおいては不可欠な陣だ。
不意にグレンは立ち止まり、振り返って周囲を見回す。闇の中で聞こえる音と言えば波の音か、時折魚が飛び跳ねる音だけだ。グレンは再び駆け出す。先ほどよりも速度を上げ、すぐに都市に着いてしまう。
外画の水路の一角で、グレンは立ち止まる。ワーミーによって外画の一部が機能不全にされてしまったことにより、この辺りは住人が避難しており、現在は死角となっている。グレンは袋を開け、オブライエンと踊り子を外に出した。水路に隠された舟に二人を乗せると、自分も乗り込んだ。
「やはりお前だったのか」
僕の言葉に、グレンは素早く腰のナイフを抜いた。
僕は影の中から出る。「愚かな背信者め」
暗夜同化の魔法陣はコーデリア様の許可が下りないと支給されない。警戒はしていたようだが、焦燥を感じていたのだろう。僕らの気配を察知することはできなかった。反対の路地から、ロッソも姿を見せる。視界の共有を切った教戒師たちが集まり、グレンを囲った。
「失望したよ、首席審問官殿」
ロッソはそう言うと、掌をグレンに向ける。籠手の掌には教戒師と同じ爆破の魔法陣が描かれている。
グレンはほうっと息を吐く。
瞬間、舟を蹴飛ばした。舟はそのまま水路の向こうまで、水の上を滑るように走っていく。湖上に出てしまったかもしれない。ロッソと教戒師たちが同時に爆破魔法を発射する。グレンは背後の壁を駆け上がり、魔法を避けた。屋根の上にも教戒師たちはいる。しかし彼らより先にグレンが魔法を放った。同じ魔法陣でも、使用者により当然威力は異なる。グレンの魔法は一発で屋根を吹き飛ばし、教戒師たちを蹴散らした。素早くグレンは倒れた教戒師たちの元へ行く。魔石を回収するつもりだ。
僕とロッソはグレンに打ちかかる。魔石を二つ奪われた。赤色刀と爆破魔法陣を操り、僕たちは激しい戦いを開始する。
グレンは強い。強すぎる。審問官二人を相手にしても、なお優位を保っている。しかし、彼の弱点はもう判明しているから、問題は時間だけだった。グレンもそれを分かっているから、初めから全力で僕たちを潰そうとする。ロッソがやられた。足に赤色刀を受け、崩れ落ちる。彼は咄嗟に魔石を放った。僕は空中で受け取ると、全力でグレンに食らいついた。
決着は呆気ないものだった。教戒師たちが舟の二人を回収したのだ。視界が共有され、その光景を見た時、グレンは武器を手放し、がくりと膝をついた。僕は焼き切られた腕の傷を押さえ、グレンに接近する。あと数秒遅ければ僕もやられ、グレンは二人を助け出すことができただろう。本当に危なかった。
僕は無防備な彼の腹を蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
グレンは無様に地面に倒れ、ぴくぴくと痙攣した。虫けらのように。
再び、蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
蹴る。
グレンは動かなくなった。
「あの子は……ルージュだけは……」
息も絶え絶えに、彼は言った。
顔を蹴飛ばすと、もう何も言わなくなった。
ワーミーたちを捕らえたと、カルミルから連絡があった。ワーミーたちはグレンからの情報で我々が踏み込むことを事前に把握していた。カルミルたちが廃屋に突入すると、既に転移は行われていたそうだ。
大聖堂は全ての魔法陣の位置を把握していた。各審問官にもその位置は伝えられた。恐らく、グレンは情報をそのままワーミーに流したのだろう。だが、僕を含め、審問官には断片的な情報しか伝えられていなかった。そして今日、グレンに与えられた情報を元に、ワーミーが転移するであろう魔法陣を割り出し、万全の体制で待ち構えた。防衛魔法が発動した浮島は、さながら要塞と化す。そこに転移したとあっては、どんな強者でも一網打尽だ。単純な話だ。グレンとワーミーは大聖堂を甘く見過ぎていた。
グレンの仮面は粉々に砕けていた。亀裂の下に、彼の顔があった。自分の目が信じられなかった。僕は彼の髪を掴むと、仮面を取り去って素顔を確認する。
そこにいたのは、ジュノー・オブライエンだった。
僕は立ち上がり、教戒師が連れた少女を見る。ルージュ・オブライエン。二人は姉妹だ。なるほど……妙に納得してしまった。やはり、グレンは表裏の同一化を果たしたのだ。本当の自分を知ることができたのだ。
僕は自分のことが分からない。
〇
僕はモモ。
異端審問官として陰ながらこの聖地を護っている。物心つく前から大聖堂の地下で育てられ、審問官としての力を得た。
僕たち異端審問官にはもう一つの人格があり、普段はそいつが表に出て市民として平穏な生活を送っている。しかしその記憶が共有されることはないため、僕たちはもう一人の自分を知らない。自分の顔を見ることさえできない。
結局のところ審問官とは表の人格に植え付けられた作り物の人格なのだ。大聖堂が必要としている間は生きることを許され、必要が無くなれば消去される。それだけの惨めな存在だ。しかし聖地を邪な者たちから護るには、僕らのような惨めな者たちが必要なのだ。
〇
大聖堂に鼠はいない。駆除する魔法がかかっているそうだ。大聖堂に害なす者の侵入を阻む魔法で、非洗礼者の排斥もその一部だ。しかし、それがどのようなルールで当てはめられるのかは分からない。鼠はいないが、蜘蛛はいる。汚れはしないが、埃は被る。非洗礼者は入れないが、背信者は入れる。それらは魔法では排除できない。結局のところ、最後に頼れるのは人の手ということだ。
真下は巫女の間だ。コーデリア様が書き物をしている。僕は息を殺し、しばらくそこで待った。すると、コーデリア様はペン先で二度机を叩いた。素早く、彼女の前に降り立つ。
「ワーミーを捕えたそうだな」
僕を見ずに、コーデリア様は言った。
「はい。しかし首魁のクーバートには逃げられてしまいました。隠れ家にはいなかったルビウスも、その行方は知れません」
「一度で全員を捕らえられるとは思っていない。むしろよく二人だけで済んだ。重ねて探せ。追い詰められた鼠の取る行動は決まっている。お前も注意しろ」
「はい」
「ワーミーは審問にかけ、魔法に関する全ての知識を聞き出せ。くれぐれも壊すなよ。奴らには利用価値がある」
「かしこまりました」
コーデリア様はペンを置き、僕を見る。
「背信者をよく捕らえた。やはり信じられるのはお前だけのようだな」
「もったいないお言葉、感謝いたします」
僕は深く首を垂れる。
昨夜まで、ジュノー・オブライエンは背信から最も遠い立場にいると思われていた。劇場にワーミーが潜伏していると、大聖堂に報告したのは彼女だからだ。聖週間二日目、ジュノーは大聖堂に呼ばれて朝から都市に来ていたそうだ。その帰り道、知り合いを尋ねて劇場に赴いた際、見知らぬ魔術師たちの姿を不審に感じた。紫色魔法の洗脳を危惧し、素早くその場を離れたことで洗脳の被害を免れることができた。彼女の告発を受けて、教戒師と騎士たちがワーミー討伐に動いた。
何のことはない。ルージュの大体の位置は大聖堂が特定できるのだから、ワーミーと共にいるのが分かるのは時間の問題だった。その前に報告することで、背信者候補から自分を外そうとしたのだろう。大聖堂はジュノーの告発を高く評価した。ワーミーを捕まえた後、彼女の功績として公表するつもりだったのだろう。
だがその翌日、騎士とその弟子がルージュを洗脳し、全ての話を聞き出した。それにより、ジュノーとルビウスとの関係が明るみになった。彼女はワーミーと繋がっていたのだ。
表のジュノーが背信していたからと言って、グレンがそうだとは限らない。彼女が表裏の人格を同一化しているのかどうか、焦点はそこに絞られた。ルージュの話が正しければ、ジュノーは教戒師の監視を逃れていたことになるので、その時点でほとんど黒ではあったのだが、まだ最後の決め手が足りなかった。
そこで、僕の出番となった。
船頭に対する審問で、グレンに疑問を感じた。僕が彼の許可なく赤色刀を突き刺した時、彼は僕を刺さなかった。これはおかしなことだ。大聖堂の回復魔法を使えば、傷は治る。いつものグレンなら僕をズタズタにしたはずだ。僕に対する戒め、そして船頭への見せしめとして。一度疑いを持つと、全てがおかしく思えた。僕には彼が手を抜いているように見えた。普段の彼、いや彼女があの程度で済ませるはずがないのだ。船頭は泣いて許しを請いた。泣く余裕さえあったのだ。他の審問官なら騙せたのかもしれない。彼も、僕が疑っていることは理解していた。手を抜いているつもりはなかったのだろうが……心を持つと、あれで精いっぱいということなのだろう。やはり審問官に心など不要であることが改めて確認できた。
グレンの中に心を見た僕は、コーデリア様に報告した。先の話と合わせ、コーデリア様はジュノーとグレンが同一化していると断定した。
「ジュノーの審問は僕が行います」
「奴がワーミーと繋がり、何をしようとしていたのか……その狙いを含め、徹底的に暴け。いかに同一化を果たしたか。これは特に詳しく聞き出せ。あれにもう人生は必要あるまい。壊しても構わない」
「そのように」
「今日からはお前が主席となる」
僕は顔を上げ、コーデリア様を見る。「謹んでお受けいたします」
「悪を赦さないお前のその潔癖さを私は高く評価している。お前には期待しているぞ、モモ」
僕は再度深く頭を下げると、影の中へと戻った。
聖地に潜む悪は必ず根絶やしにする。それこそが僕の使命だ。コーデリア様に褒められ、改めてそのことを理解した。必ずや、彼女の期待に応えてみせる。そうじゃなければ僕が生きている意味がない。




