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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第三章 ルージュの魔法
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沈む夕日が

「本当にこれに着替えるのね……」


 踊り子の衣装を手渡され、私はため息を吐きました。


「似合ってたから大丈夫だって!」と、エスメラルダ。


「二階に鏡があったでしょ。着替えて来なさい」と、プレシオーサは言いました。


 言われた通り、私は廃屋に入りました。こうして階段を上っていると、あの日のことを嫌でも思い出してしまいます。大聖堂から距離を置くことになってしまったからでしょうか。不思議と、以前よりも鮮明に思い返すことができました。あの時は、まさか私が大聖堂を敵に回し、ワーミーたちと手を組むことになるなんて想像すらしませんでした。

 あるいは、今の私と同じように、彼女たち母子もまた運命のいたずらに翻弄されてしまっただけなのかもしれません。何かの折にほんの少しだけ道を外れてしまい、戻れなくなってしまっただけのかも……。今となっては二度と分からないことですが。


 頼りない階段を上がり、二階へと出ます。廊下を歩き、寝室の前に来ました。ドアはもはや機能しておらず、押すだけで開いてしまいます。一つだけあるベッドの上に、アザレアはいました。


 あの日のことは、今でもよく覚えています。



「ルージュ……」


 私を見て、アザレアは目を丸くしました。見る影もなくやつれた彼女を見て、私は言葉を失ってしまいます。「どうして――あなたがここに?」


「あなたが……大変だって聞いて……」


「ルージュ、あなたは私が……分かるのね? 私のことを……覚えているのね?」


 私はコクリと肯きました。彼女が何を言いたいのかはよく分かりませんでしたが、少なくともアザレア・バーガンディは私の記憶のままにそこにいたからです。


「優しい子」


 彼女は以前とまるで変わらない笑顔を浮かべました。


 私はグッと唇を噛みしめました。ベッドの傍の椅子に腰を下ろし、お見舞いの果物を渡します。


「大聖堂に頼んで……洗礼を受けさせてもらえば、きっと良くなるはずです。ここの環境は見る限り最低だから」


 アザレアは静かに首を振ります。


「いいえ、もう遅いわ。自分の体だから、よく分かるの」


 アザレアは細い腕を伸ばし、私の手を握りました。「ルージュ、お願いがあるの」



 家を出ると、一人の女性が立っていました。美しい白金の髪と、真っ赤な火眼をした女性でした。彼女が私を島へと連れて来てくれました。最奥区画の船着き場で途方に暮れている私に、この人の方から声をかけてくれたのでした。私と入れ替わりで、彼女は家の中へと入って行きました。


 私は森へと向かいました。奥まで行くと、アザレアの言う通り、赤い花畑が広がっていました。私は花畑に腰を下ろし、ハネズヒソウを摘みました。引きちぎるようにひたすら摘んでいると、ふいに汗が頬を垂れ、私の膝の上に落ちました。袖で拭うと、それは汗ではなく涙でした。私は泣いていたのです。それに気づいた時、目から涙がワッと溢れました。独りぼっちの森の中で、私は声を上げて泣き続けました。



 バーガンディの家に戻ると、アザレアは花冠を作り始めました。しかし指に力が入らないため、とても難儀しているようでした。手伝いを申し出ましたが、彼女は自分の力で作りたいのだと言って譲りません。私と白金髪の女性は傍で見守り続けました。指を震わせ、幾度ともなく花を落とし、苦しそうに息をする彼女を見るのは辛いものがありました。聖人様がどうしてこの人を救わないのだろうと何度思ったことでしょう。どんな罪を犯したとしても、その姿を見れば、もう十分に償いは済んでいるはずです。彼女の罪は命を代償にしなければならないほどのものだったのでしょうか。


 日が暮れ始める頃、ようやく花冠は完成しました。それは見るからに不格好な代物です。ダリアに渡してほしいと、彼女は言いました。私はきっぱりと断ります。ダリアを必ず連れて来るから、あなたの手で渡してあげるべきだ、と。



 私たちは都市へと戻りました。


 不思議なことに、行きの舟でも帰りの舟でも、教戒師たちと出会うことはありませんでした。恐らく、奇跡的に彼らの警戒ルートから外れていたのでしょう。しかし目撃者はいるはずで、彼らは密告したはずです。私はその後しばらく大聖堂の呼び出しに怯えていたのですが、しかし結局、何のお咎めもありませんでした。まるであの数時間が夢の中の出来事だったかのようで……。私は拍子抜けしてしまいました。


 別れの際、私は女性に名前を訊ねました。


「名前など、もはや何の意味も持たない……」


 彼女はそう呟きました。


「どういうことでしょう……」


 彼女は困惑する私の顔をしばらく眺め、フッと頬を緩めました。


「私はシルヴィア……。シルヴィア・ゴールドスタインだ」


 そして、私の頭を撫でました。「お嬢ちゃん、私たちだけはアザレアのことを覚えていよう」


「覚えて……とは?」


「約束だ」


 彼女の強い眼差しに、私は肯くしかありませんでした。


「機会があれば……また会おう」


 そして、彼女は去って行きました。その後ろ姿が大通りの方に消えてしまうまで、私は見守り続けていました。


 ゴールドスタイン。聖地の貴族でそんな家柄は聞いたことがありませんでしたから、よく覚えています。あの人は一体何者だったのでしょう。外の人にしては、やけに聖地に精通していました。その後も折に触れて彼女の姿を探したのですが、今日までついぞ会うことはありませんでした。


 屋敷へ帰ると、私はすぐにお姉様に相談しました。アザレアの容体が悪いそうだ。ダリアを見舞いに行かせてあげて欲しい――。お姉様はそれをコーデリア様にお伝えしてくださったのでしょう。ダリアはお休みをいただき、島に帰ることができました。


 数日後、アザレアが息を引き取ったとお姉様が教えてくれました。お姉様はある女性を私に会わせてくださいました。その人はサーベンス家の使用人で、最後の数日間アザレアのお世話をしたのだということでした。よく太った女性で、今ではサーベンス家の使用人たちの長になっています。数日の付き合いのはずですが、彼女はアザレアに対して親しみを感じていたようです。アザレアの最期、ダリアとの別れを語る彼女はとても悲しそうでした。


 あの人は、そういう人でした。人のために全力を尽くせる人だったから、みんなもまた彼女のために全力を尽くしたいと考える。心よりみんなを愛しているから、みんなから愛される。表も裏もない、まさに聖女のような人……。


 今となってはアザレアがどういう人だったのか、私には分かりません。都市の人々が言うように、本当に酷い人間だったのかもしれない。その血を引くダリアは卑しい身分に落ちてしまい、会うことすらかなわない。私に残るアザレアの記憶も、今ではその醜聞により薄れてしまっています。しかし、私はあの人に死んでほしくなかった。それだけは確かなことです。




 廃屋の寝室に佇み、私は遠い日の記憶から戻ってきました。どうしてこんなに悲しい気持ちにならなければならないの。沈む夕日が悪いのです。


 振り返り、鏡を見ます。そこに映っているのは、ワーミーの少女でした。


「素敵よ、ジュジュ」


 ぽつりと呟くと、私は部屋を後にしました。



 衣装に着替えた私を、プレシオーサとエスメラルダが迎えてくれました。私たちは広場に戻ります。


 日が沈むに連れ、広場に集まる島民たちはその数を増やしていました。当初の目論見とは異なり、都市の人たちを呼び込むことはできませんが、ワーミーたちは気にしてはいないようでした。島民たちは興行の始まりを期待に満ち溢れた顔で待っていました。彼らはワーミーたちを聖職者と信じているため、もしもそうではないと分かれば暴徒と化してしまう危険はありました。ワーミーたちにそう忠告はしたのですが、それも一興とまともに取り合ってはくれませんでした。私も巻き込まれることになるのですから、これっぽちも面白くなどないのですけれど。


「プリシャはどうしてワーミーの仲間になったの?」と、私は訊ねます。


 エスメラルダとじゃれ合っていた彼女は、振り返って私を見ます。


「何よ、急に」


「急に疑問に思ったものですから」


「アンタと同じよ。ルビーにさらわれたの」


「あの人って……本当に――」、私は絶句してしまいます。


「でも、それを望んだのは私だから」


 どこか諦観したように息を吐き、彼女は言いました。


「今のあなたは、貴族の自分を捨ててまでなりたかったあなたなの?」


 プレシオーサは微かに笑みを浮かべただけで、答えてはくれませんでした。


 後ろからエスメラルダが飛びつきます。「もちろんだよね~。だって私と出会えたし!」


「あなたはちょっと黙ってて」


 私が言うと、エスメラルダは口を手で押えました。


「もちろん……後悔した時もあるわ」と、プレシオーサは言いました。「でも、あの日にそれを望んだのは私だから。たとえ何度あの日に戻っても、私はここにいるでしょうね」


「そう……」


 私は舞台を見ます。

 沈む夕日を浴びて、舞台は橙色に染まっていました。プレシオーサは私の肩に手を置きます。


「偉そうなこと言っちゃったけどさ。私だって最初は踊りなんてできなかったのよ。こんな衣装、わけわかんないし」


「そうそう、プリシャってば酷かったよねぇ。ルビーも言ってたもん、何だっけ? ミミズが這いずり回ってるようだって――」


「アンタは黙ってなさい」


 両頬を引っ張られ、エスメラルダはコクコク肯きました。


 今の流麗なプレシオーサの踊りからは想像できないことです。私と同じようなものじゃない。そう思うとおかしくなり、クスクスと笑ってしまいます。即座に頬をがっしり掴まれてしまいました。


「ま、アンタがどうしたいのかなんて知らないし、どうでもいいんだけど。しばらくはここにいるって決めたんでしょ?」


「もにょもにょ……」と、私は肯きます。


「だったら何もかも忘れて楽しくやりましょ。少なくとも今夜だけは」


 そう言うと、彼女は私を解放しました。


「そうだね」


「うん! あんなにいっぱい練習したしね!」


 飛びついて来るエスメラルダを華麗に避け、私は沈む夕日に目を向けます。


「そうよ。私の特訓を無駄にしたら許さないから」


 私たちが見ている前で、夕日は山の向こうに沈んで見えなくなってしまいました。


 何かが吹っ切れたような気がしました。都市も、大聖堂も、ワーミーも、アザレアも……今はもうどうでもいい。ただ必死に自分の全てをぶつけるだけなのです。

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