本性
〇
隙間から、外の様子をうかがいます。人の話し声がすぐ近くで聞こえました。どうやら商人が戻って来たようです。私は蓋を閉め、暗闇に身を潜めます。
私とエスメラルダは露店にあった木箱の中に隠れていました。危うく教戒師に見つかりそうになり、咄嗟に目についたのがこの箱だったのです。中には果実が入っており、甘い匂いが充満していました。
教戒師のブツブツが聞こえてきました。商人と何やら言い合っているようです。もっとも彼らと会話が成立しているとは思えませんから、互いに一方的に言葉を投げつけ合っているだけなのでしょう。やがて、声は聞こえなくなりました。教戒師も商人たちもどこかに行ってしまったようです。
私は少し蓋を開け、確認します。
「もういないみたい。出ましょう」
私たちは外に出ました。細心の注意を払いながら進む私に対し、エスメラルダは紫リンゴをシャリシャリ齧りながらついて来ます。しかし角を曲がった時、ばったりと商人に出くわしてしまいました。
私は咄嗟に市民のふりをします。
「お姉ちゃん、早く行きましょう。教戒師たちがたくさん歩いていて怖いよ」
「お待ちよ、妹ちゃん。お姉ちゃんはそんなに早くは歩けないのさ」
エスメラルダも下手なりに演技をしてくれました。
商人は不審な目を私に向けていましたが、その目はエスメラルダに固定されました。
「嬢ちゃん、そのリンゴ。どこで手に入れた?」
「あそこ」と、エスメラルダは露店を指しました。
「俺の店で買ったってか? おかしいなぁ。お嬢ちゃんみたいな可愛い子、見覚えないぜ?」
「だって拾ったんだもん」
リンゴを齧りながらエスメラルダは答えました。
「盗んだんだな?」
商人は怖い顔で詰め寄ります。
「ううん。拾ったのよ」
エスメラルダは心外だという顔で、リンゴを齧ります。
商人は素早くエスメラルダの額を指で弾きました。バチンと子気味のいい音が鳴ります。
「痛ぁい!」
エスメラルダは額を押さえます。
「可愛い顔に免じて今回はこれで見逃してやるけどよ。もう駄目だからな!」
「う、うん……」
「お姉ちゃん、早く行こ」
私は涙目のエスメラルダの腕を引っ張りました。
しかし角からもう一人が現れ、ぶつかってしまいました。
「うわ、びっくりした!」
「ご、ごめんなさい……」
私は頭を下げ、横を通り抜けようとしました。
「おっと、待ちな嬢ちゃん」
不意に、男は腕を壁に当て、通せん坊をしました。「おい、この子……!」
「ああ、リンゴ盗んじまったんだよ。今回は見逃してやれ」
「馬鹿、お前知らねえのか? オブライエンの娘じゃねえか」
「え? あの行方不明の?」
商人たちは私たちの退路を塞ぎます。
「オブライエンの娘はワーミーの仲間になったって話だが……」
二人の目がエスメラルダに集まります。
「教戒師に報告するか?」
「馬鹿言え。見ろよ、二人ともとびっきりの上玉だ。お宝が見つからなくてもよ、ワーミーが手に入れば二代目も喜んでくれるんじゃないか?」
「メ、メル……」
「うん」
エスメラルダは私の手をぎゅっと握ります。「ごめんねぇ、私たち急いでるの。じゃあね」
「まあ待てよ、嬢ちゃんたち。ちょっと話をしようぜ。リンゴもっとあげるからさ」
「ごめんねー」
エスメラルダはパチンと指を鳴らしました。
男たちは小さな悲鳴を上げ、慌てて私たちから離れました。何が起きるのかと、私も身構えます。しかし、何も起きませんでした。
「あれ?」
エスメラルダはもう一度指を鳴らします。やはり何も起きませんでした。
彼女はその後も指を鳴らしたり、手を叩いたりを繰り返します。男たちはホッと胸を撫で下ろし、下劣な笑みを浮かべて近づいてきました。
「あの、メル……?」
エスメラルダは私を見て、ペロリと舌を出します。
「私……さっきの転移で魔石使い切っちゃったみたい」
そう言うや、彼女は齧りかけのリンゴを前方の男に投げつけました。男が怯んだ隙に、私たちは横を通り抜けます。
「待て!」
男たちは追いかけてきます。
一人の手がエスメラルダの三つ編みを掴みました。
「痛ぁい!」
「へへへ、捕まえた。本当に上玉だ。ちょっと味見してやろうか」
「やめて、離して!」
エスメラルダは捕まってしまいました。二人は彼女に気を取られています。ワーミー娘を手に入れたのだから当然のことでしょう。逃げるなら今の内です。私はワーミーの仲間でもなんでもありませんから、ここで見捨ててしまっても良心の呵責なんて少しも起きません。さようなら、エスメラルダ……。
その時、一応ポケットの中をまさぐっていると何かが入っていることに気がつきました。取り出すと、半透明の赤い魔石でした。一昨日、ルビウスがくれた魔石です。
「メル!」
私は魔石を放りました。彼女は手を伸ばします。
「おっと!」
しかし、男に奪われてしまいました。何ということ! 逃げよ!!
瞬間、エスメラルダは男の腕を握ります。歯を合わせ、カチリと音を鳴らしました。その途端、男の掌の魔石が淡い光を放ちました。
「うわぁっ!」
地面から植物の蔓が生えて来て、あっという間に男たちを吊り上げてしまいました。彼女は素早く男たちを振り払います。しかし、しつこい男は背後から彼女のバンダナを掴みました。エスメラルダも頭を押さえたものですから、布が破れる音がしました。今度こそ男の手を振り切り、エスメラルダは私の手を握ると、駆け出しました。
「魔石ありがとね、ジュジュ! でも、もう使えない。どこかで手に入ればいいんだけど……」
「とりあえず、今は隠れましょう」
私たちは教戒師の目を避けながら、橋の下へと身を隠しました。
エスメラルダはポケットから魔石を取り出し、確認します。魔石はただの石になっていました。
「おかしいなあ。プリシャは十分に使えるって言ったのに。あの子が消費量を間違えるわけないんだけどなぁ」
「……わざと使えない魔石を渡したんじゃない?」
「まっさかぁ」
「だってそうでしょう? 魔力を使えないあなたを都市に行かせるということは、みすみす捕まえてくれと言っているようなものじゃない。ミスだとするとあまりにも都合がよすぎるわ。もしかして、彼女は大聖堂の刺客なんじゃ……」
「ダメだよ、ジュジュ。友達のことを一度でも嫌な目で見ると、二度と前と同じようには見られなくなっちゃうよ。悪意の芽は育つのが早いんだから」
「友達じゃないもの」
私はプイッとそっぽを向きます。
「またまたぁ」
彼女は背中から抱きついてきました。
「とにかく、いつまでもここに隠れているわけにはいきません。教戒師たちにはすぐにバレてしまうでしょうから……。あるいは、既に気づかれているかも……」
「大丈夫だよ」
エスメラルダは私を励ますように抱き締めます。「ルビーは私たちのこと分かってるはずだから。すぐに迎えに来てくれるよ。だから大丈夫」
「私はあなたほど彼のことを信用していませんから……」
「ルビーは必ず来てくれる人だよ」
「本当にそうなら頼もしいですけれど」
「信じてないなあ」
「私には他に頼る人がいますから」
「へえ、誰?」
「お姉様です。きっと、お姉様が助けに来てくださいます」
「うん、そうだね。頼もしい人が二人もいるんだから、こりゃ絶対に大丈夫だよ」
胸に回された彼女の腕に、頬を乗せます。誰でもいいから、早く助けに来てほしい……。私に安心を与えてほしい……。今はこの温もりに頼るしかなさそうです。
そういえば。
「さっき、あなたのバンダナが破れる音がしたけれど……」
「ああ、そうだった。縫わなきゃね。私、裁縫得意なんだ~」
エスメラルダは頭からバンダナを外しました。彼女の寝癖の話をふと思い出し、私は振り返ります。果たしてどんな酷い髪型をしているのでしょう。もしや禿げていらっしゃる――。
「え?」
バンダナの下から現れたのは、酷い寝癖ではありませんでした。そこにあったのは、猫のような獣の耳です。普通の耳とは別に、頭部から獣の耳が生えていたのです。
目を丸くする私を見て、エスメラルダはしまったという顔をします。それから、獣の耳に手を当て、ペロリと舌を出しました。「私ね、獣人族の血が入ってるの」
返す言葉もありませんでした。
気づかなかった。
全く、気づくことができなかった。
一緒にお風呂に入るなんてことはありませんでしたし、ちゃんと人間の耳をしていたから……。
「隠していてごめんねー。ほら、カルムってさ、この耳が嫌いな人もいるみたいだからさ~。まあ、これは耳ってよりは角みたいなものなんだけど――」
私はエスメラルダの腕を強引に引きはがすと、立ち上がります。急いで体を手で払い、汚れを落としました。彼女は驚いたように私を見つめます。
瞬時に頬が赤くなるのが自分でも分かりました。もちろん羞恥のためではありません。
「ごめんねで済むと思っているの?」
私は一歩後退すると、彼女を睨みつけます。「こんなに恥をかかされたことはないわ。混血の癖に私に触れたり抱きついたりしていたの? 私に穢れを移すつもりだったの? どうして最初に言わなかったの! 知っていたらあなたになんて近づいたりはしなかった!」
エスメラルダは立ち上がり、獣の耳を触ります。それから微笑みました。「だよね」
「私はオブライエン家の娘です! 何度も言いました! あなたのような混血と関わり合っていい人間ではないの! 何度も何度も言いました! 私はこの都市で一生を送るのです! どうしてくれるの? ワーミーだけなら言い訳も立つのに……混血と関わり合ってしまったなんて……!!」
私は髪を掻きむしります。全身にサッと鳥肌が立ちました。
「私はもう貴族として生きていられない! お前のせいだ! 汚らわしい人間もどき! お前のせいで私は――!」
唾を飛ばしながら私は叫びます。汚らわしい、汚らわしい、汚らわしい! 目からは涙がこぼれました。悔しい、悔しい! こんな馬鹿女のために私の輝かしい人生は終わりを余儀なくされるのです。
「落ち着いて、ジュジュ。ちゃんと謝るから……。ほら、今は隠れてなきゃ……。大きな声出さない方が――」
混血女は私に手を伸ばしました。
「触るなッ!」
私は腕を払います。「キャッ!」、彼女は尻餅をついてしまいました。
「二度と私の前に現れないで。お願いだから。誰にも……絶対に私のことを人に言わないで……。お願いだから……私のことは忘れてください」
涙を拭うと、私は背中を向けました。
「待って、ルージュ……行かないで――」
彼女の声を無視して、駆け出しました。今はただ、一歩でもその場所から離れたかったのです。




