花畑の二人
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「――そう言えば、この家は元々誰の家だったんだ?」
不意に、ルビウスが訊ねました。
「え?」
私は鏡越しにルビウスと目を合わせます。彼は私の傍を離れ、窓の近くの壁にもたれて腕を組んでいました。日の光を浴びるその姿は、まさしく絵画の中の人物のようでした。
「先ほど言っていただろう。今朝この家の夢を見た、と。都市の貴族の貴様が、どうしてこんな家を知っていたんだ?」
ワーミーたちにこの家を紹介したのは私です。隠れ場所に心当たりはないかと尋ねられ、その時頭に浮かんだのがこの家だったのです。まだ残っているとは思っていませんでしたが……。
「私の幼馴染です。昔は最奥区画に住んでいた者ですが、島送りにされてしまったのです」
「誰だ?」
「ダリア・バーガンディ。そしてその母のアザレアです」
ルビウスの眉毛が上がりました。
「島送りとは聖地における最大の罰だったな。では、ここに住んでいる者たちは……」
「ええ。多くはかつて背信行為のために審問にかけられた者たちです。洗礼を剝奪され、大聖堂からの加護を失っています」
「つまり、庇護魔法の対象外だと。どうりで病人が多いわけだ。彼らにはもう救いがないわけだ」
「いいえ。彼らの顔を見ましたか? みんな、穏やかな顔をしていたでしょう? ここでの暮らしこそが、彼らにとっての救いなのです」
「意味が分からん」
「彼らはこの魔法のない島で、労働と聖人様への祈りを捧げながら日々を送っています。大聖堂は本来の信仰の形へと身を置くことで、信心を思い出させてあげているのです。再び信仰を取り戻すことができれば、都市に戻ることもできるでしょう。しかし島民たちの多くはここでの暮らしに充足するために、都市に戻って来ようとはしないのです。大聖堂がこの島を楽園と呼んでいるのはそのためです」
ルビウスはフッと笑みを漏らしました。
「そう教えられているのか?」
「え?」
「貴様はそうは思っていないんだろう」
「何故?」
「顔がそう言っている」
私はハッとして鏡の中の自分を見ます。驚いた私がいるだけでした。
「都市の者たちはこの島を何と呼んでいる?」
逡巡の後、私は呟くように言いました。「隔離島……」
「なるほど、聖地シュアンか。誰もが仮面を被っているというわけだ」
昼になり、ワーミーたちはそれぞれ自分の仕事に出かけました。ゼムフィーラは都市に占いに、ルビウスは偵察に、クーバートとシークは悪いことをしに、他の人たちは今夜の準備に。港の近辺にある広場に、舞台を設置します。何事かと集まって来る島民たちに、聖人様への催しをすると説明すると喜んで手伝ってくれました。彼らは聖人様という言葉が聞こえてくれば何だって信じてしまうのです。
肉体労働は男子に任せ、私はエスメラルダとともに島の探索に出かけました。特に見るところのない、退屈な島です。
私は少し離れたところから、島民たちの姿を眺めます。この島には、亜人の血を引く者がいると言われているのです。彼らと話したり、接触したりするわけにはいきませんから、かなり注意して観察しました。
亜人は聖地に入ることはできないのですが、稀にその血を引く者が正体を隠して入り込むことがあるのです。知らずに彼らと接触をして、後に取り返しのつかない目に遭ってしまった貴族の話はお父様に聞かされています。したがって、市民たちにとっては亜人そのものよりも、むしろ混血の方が忌むべき存在と言えるでしょう。しかし、見る限りでは島民たちの中にそういう者の姿はありませんでした。ただの噂に過ぎないのか、あるいはどこか人目のつかないところで暮らしているのかもしれません。
島民たちは都市では決して見られないような顔色をしている人や、ひどくやせ細っている人、腕が無い人の姿も見受けられました。病気が蔓延しているのは明らかです。洗礼による庇護魔法が無ければ、私も彼らと同じようになってしまうのでしょう。
彼らの姿は私に大聖堂の加護を失うことの恐怖を思い出させました。隣を歩くエスメラルダと、意識して距離を開けます。しかし、無邪気な彼女は私が離れた分だけくっついてくるので、諦めました。まあ、この島には教戒師がいないので、私のことが大聖堂にバレてしまう恐れはないでしょうが……。
島民たちは労働に従事するか、お祈りをするか、ベンチに腰掛けてぼんやりと空を見上げることしかしていません。
「何が楽しいんだろ」と、エスメラルダは小首を傾げます。
「信仰とはそれだけで喜びをもたらしてくれるものなのです。あなたたちには分からないでしょうけど」
「んー、私たちにとっての魔法みたいなものなのかな? だったら確かにエイブとかもずっと魔法のことばかり考えてるもんねー」
「全然違うわ。魔法とは学問や技術のようなものでしょう? 魔法はあなたの救いになってくれるの? あなたに生きている実感を与えてくれるものなの? そうでなければ軽々しく同じなどと言わないで。私たち信教者にとって信仰とはそれだけ大切なものなの」
「魔法だって大切だよ~。だって生まれた時から空気みたいにあって当たり前のものなんだから。なくなったら悲しいし、生きるのが怖くなっちゃうかもしれないよ?」
「……信仰は私と聖人様の繋がりなの。その繋がりがまた別の人たちと繋がって、都市を一つにするのです。魔法にそういう大きな力があるの?」
「セフィロトの樹は誰の中にもあるものだからねぇ。みんな根っこで繋がってるんだよ」
「へー繋がってるの。それはすごいですねーへー」
もっと言い返すべきではあったのですが、言葉が出て来なかったので強引に話を終わらせました。
私たちはそのまま、目的地も定めずに歩きました。居住区を過ぎ、根城の廃屋を通り過ぎ、眼前には森が迫っていました。まるで最初から決まっていたかのように。廃屋から森までの景色は、今朝に見た夢と全く同じでした。遠い日の記憶を踏みしめるように、私は歩みを進めます。
森の奥は火の海になっていました。ハネズヒソウです。朱華色の火に似た花が無数に咲いていました。
「君たちかぁ、私を呼んでたのは!」
エスメラルダはパッと手を広げ、花畑に飛び込みました。花にもくっつく人なのです。
「呼んでたって、何?」
「森に入った時からさ、ずっとざわめき声が聞こえていたんだよ。小っちゃな子たちがさ、必死にこっち来て、こっち来てって。そりゃ来ちゃうよね」
魔法使いとはみんな頭がおかしいそうですが、この人もやはり例には漏れないようです。
「ジュジュ、ここに来たことあるでしょ?」
「え?」
ドキリとしました。
「みんなの声が強くなったから」
「私は……知りません。オブライエン家の娘たるこの私が、こんな島になんて来るはずがないでしょう!」
「植物は嘘つかないんだよ」
エスメラルダはパンと手を叩くと、彼女の体から蔓が生えてきました。蔓は地面に潜り、周囲の木々へと伸び、絡まって行きます。唖然とする私を尻目に、彼女は「ふんふん、なるほどなるほど」と頷きます。
「花を摘んだんだね。それもいーっぱい。花冠を作ったのかな?」
「え?」
ギョッとします。「ど、どうして分かるの?」
「みんなが教えてくれたから」
蔓は枯れ、消失してしまいました。エスメラルダはずいっと私に体を寄せてきます。
「ねえねえ、誰に上げたの? 大切な人だったんでしょう? わざわざ島まで来たくらいだもんねー。花冠って確か好きな人にあげるんでしょ? どんな人? 教えてよー」
「あなたには関係のない話です」
「そんなこと言わないで~。私の好きな人も教えてあげるから」
「ルビーでしょ」
「わっ正解!」
「誰でも分かるわ」
「いいもーん。自分で調べるから」
彼女は指先からにゅっと蔓を出します。
「な、何をする気なの?」
「辿って行くの。いつかは知ってる人に会えるだろうから」
気の長い話です。私はため息を吐きました。この人はワーミー、近い内に都市から出て行ってしまう人。都市の事情も何も知らない人ですから、別に話してもしまっても構わないでしょう。
「花は異性に上げたのではありません。ある女性に上げたのです」
「女の人が好きなの?」
「あのね、昨日教えたでしょう? 花冠を上げる意味は恋愛成就だけではないの。相手の幸運を祈るのが本来の意味なのです。そもそも私は冠を作っていません。花を摘んであげただけ」
「それで、誰なの?」
「私たちが宿にしているあの家の……持ち主だった人です。私の幼馴染の母親……」
「幼馴染ってことは、その人も貴族なんでしょ?」
「元貴族です。都市から追放されてこの島に移住したの。最低な人間でした」
エスメラルダは目をぱちぱちさせ、微笑みます。「そんな人に花は摘まないでしょう?」
「……そうしなければならない時もあるのです。あなたには分からないでしょうけど」
ダリアが都市からいなくなってからというもの、私は両親や知り合いの聖職者の方々からバーガンディ家がいかに卑しい存在なのかを教わりました。そのおぞましい所業の数々を聞くに当たり、よくも今まで何食わぬ顔で私と接していられたものだと、ダリアとその母であるアザレアを恨みました。私はダリアを大事な友達だと思い、また、アザレアのことが大好きだったので裏切られた気分になってしまったものです。
しかし同時に、しこりのようなものが胸に残りました。私が記憶しているアザレアと、周囲の言うアザレアは別人と言ってもいいほど違う人間なのでした。頽廃に染まった裏の顔を差し引いても、根本的に違うのです。ある日を境に、急に真実がねじ曲がってしまったかのように……。
私は確かめたかった。私の中のアザレアが虚構であることを。彼女を心の底から軽蔑するために。だから禁忌を犯してこの島に来たのです。




