転移魔法陣
取り残され、途方に暮れる私の頭を、背後から誰かが叩きます。驚いて振り返ると、プレシオーサでした。
え、ぶったの? どうしてそんな酷いことを……。
彼女は歯型のくっきりと残った手を私に見せ、ジロリと睨みます。私が口を開くその前に、「荷造り手伝いなさい」と、言いました。
「荷造り……?」
「ここから別の場所に移るって話でしょ。この部屋片づけるから手伝えって言ってんの」
「どうして私が……」
「そこに突っ立ってるからでしょ、馬鹿ね!」
失礼この上ない話でしたが、単純に彼女が怖かったので私は荷造りに協力しました。
ワーミーたちの好奇の目を気にせず、適当に散らばった荷物をまとめていると、入り口のドアが開く音がしました。すぐにドタドタと誰かが部屋に飛び込んできます。
頭にバンダナをつけた胸の大きな女の子。もちろんエスメラルダです。
「いひひ、見て見て~。いいもの拾っちゃったんだぁ。可愛いでしょ~」
そう言って、彼女は盗んだネックレスを仲間たちに見せびらかし始めました。
「ああ、よく似合ってるよ」、「メルはいいもの拾う天才だなぁ」、ワーミーたちは優しい目で見守り、精一杯甘やかします。気を良くした彼女は私にも見せてきました。「ほらほら見てぇ――」
ようやく、お互い初めましてだと気がついたようです。「え、あなた誰? これ可愛いでしょ?」
エスメラルダは仲間たちから私の話を聞くと、嬉々として抱きついてきました。甘い香りがしたのでホッとしたことを覚えています。そのまま仲間たちにも抱きつきました。嬉しさを抑えられず、周囲に飛びついてしまう様はさながら愛玩動物のようでした。
「仲良くしようね~、ルージュちゃん! 困ったことがあったら何でも私に言ってね! ルルって呼んでいい? それともジュジュ?」
「どちらもやめて。あなたと仲良くするつもりはありません」
私ははっきりと宣言します。「私はワーミーが大嫌いなの! 仕方なく行動を共にさせていただきますが、あなたたちの仲間になったなんてゆめゆめ思わないでください」
「え~仲良くしようよ~」
エスメラルダは再び抱きついて来ます。
「だから仲良くなんて……ちょっと……離れて――」
「それで、みんな何やってんの?」
私の肩越しに、荷物をまとめている仲間たちを不思議そうに見つめました。
「場所移ることになったんだ」
「どこに?」
「劇場だよ」
「わあ、素敵!」
彼女はこちらまで思わず頬を緩めてしまいそうになる完璧な笑顔を浮かべました。
そうこうしているうちに荷造りを終えた私たちの元に、ルビウスが帰ってきました。劇場で手に入れて来たのでしょう、彼がつけている仮面はしっかりとしたものに変わっていました。偽物の赤い毛もついているため、傍目からでは彼だと分からないでしょう。
ワーミーたちは魔法陣を使って移動します。転移魔法です。
カルムではいまだに空想の産物である超高度の魔法なのですが、それをこんなに小さな魔法陣にまで縮小しているのですから、やはりマギアトピアの魔術レベルはカルムとは比べ物にならないものなのでしょう。
魔法陣とはいかに小さく描くかで魔術師たちは頭を悩ませてきたと言います。
例えば、都市で一般的な明かりを灯す魔法陣も、今では掌大しかありませんが、かつては家ほどの大きさだったそうです。地面に描かれた巨大な魔法陣を囲い、賢者然とした魔法使いたちが陣から出た小さな火に喜んでいる――魔法黎明期を描いた「希望の灯火」という絵画はあまりにも有名です。複雑な記号や文字を短縮し、別の形へと簡略化する……魔術師たちは日がな一日その研究に没頭しているそうです。
魔法陣を眺め過ぎていることに気づき、私は慌てて顔を逸らしました。
転移者は魔石を手に、魔法陣の上に乗ります。すると、陣が仄かに輝き始め、すぐに眩い光を放ちます。発光が終わると、転移者の姿はなくなっていまいました。私に魔石を持たせるわけにはいかないので、エスメラルダとともに転移することになりました。心配せずとも私は魔法など微塵も使えないのですけどね。
彼女は私の手をぎゅっと握り、「絶対に離さないでね」と、何度も念を押します。転移の途中で魔石を失ったり、魔法陣から出てしまったりすると、それはもう筆舌に尽くしがたい無残なことになってしまうのだとか。そんなことを聞かされては、体が心から震えてしまうのもやむを得ないことでしょう。足に力が入らず、魔法陣の上に膝をつき、エスメラルダの足に必死にしがみつくという醜態を晒してしまいます。そのまま、私たちは光に包まれました。
目を開けると、どこか暗い場所に立っていました。テントの中のようです。
「ザラァ、お待たせ~」
脇に立っている少女に向かって、エスメラルダは言いました。野暮ったいローブを着た妖しい姿の女の子……ゼムフィーラです。抱きつこうとするエスメラルダを手で制し、「さっさと出て行きなさぁい。後が使えてるんだからぁ」と言い放ちました。
「何か冷たいね~。どしたの? またルビーに怒られちゃった?」
ゼムフィーラの眉が下がり、うつむいてしまいました。
「御三家ってのと接触次第に連れてこいってぇルビーが言ったのにぃ……。ちゃんと相手は選べってぇ……そんなのぉ私分かんないもん……」
「ん? 何の話?」
「アナタには関係のない話よぉ! さっさと出て行けってぇ言ったでしょぉ!」
彼女の怒声に押されるように、私たちはテントから出ました。
そこは劇場の一室のようでした。
ワッと観客たちの沸く声が聞こえてきます。エスメラルダに手を引かれるまま、部屋から外に出ました。廊下には紫の煙が充満していました。劇団員たちは私たちの姿を見ても何も言わず、それどころか目にも入っていないようで、自分の作業を続けています。舞台へと続く階段に立ち、ワーミーたちが食い入るように劇を観ていました。私たちもそこに混じり、観劇します。
「アテナだっけ? あの子、凄いんだよ。ありゃ天才役者だぜ」
興奮気味にビートが言いました。
「うーん、初めて見たけどさ、舞台演出って味気ないなぁ。もっと派手にできないもんかね」
「へへっ、明日は俺たちでやってやろうぜ。何も知らねえ観客たちの度肝を抜いてやる」
「私も出た~い」
それぞれに勝手なことを言っています。
やがて、ウィンストンが舞台からはけてきました。
劇団員たちは拍手喝采で彼女を迎えます。「よかったぞ、アテナ!」
「ありがとうございます」
彼女はニコリと笑いますが、ワーミーたちに向けた眼差しに温かみはありませんでした。
「あなたたちは外に出ないで。なるべく最初の部屋に閉じこもっていてください」
そう言うと、私の腕をとって奥へと連れて行きました。
私たちはある一室に入りました。
ウィンストンの頬は上気しており、全身に汗をかいていました。それは常の慎ましい彼女とは、まるで異なる姿でした。
「さっきも言ったように、あなたはしばらくここにいた方がいいと思うわ。この部屋を自由に使って。何か要望があれば今のうちに言ってね」
「特に……要望なんてないわ。ここにいた方がいいというのはどういうこと? あなたは何か知っているの?」
「ルビウスから話は聞きました。事態が動くまで隠れていた方がいいでしょう」
「あなたの手の内に置いておきたいというわけ? もしもの時は私を大聖堂に引き渡すつもりなんでしょ? 恩着せがましく私のためみたいに言うのはやめなさい」
ウィンストンは何も言い返してきませんでした。それで正解です。もしも否定の言葉を上げようものならぶってやるつもりでしたから。彼女の沈黙は、私との間にある深い溝を表しているようでした。
やはり私はこの子のことが好きではありません。同じ御三家に生まれた者ですから、小さな頃から顔を合わせる機会はたくさんありました。しかし初めて会った時から、私はこのウィンストンという人間を受け入れることがどうしてもできないのです。
端正な顔立ち、知性、博愛の心……およそ人から尊敬されるに値する全てのものを高い水準で持っている彼女に対する劣等感、嫉妬のために……などと片付けられれば話は簡単なのですが、残念ながらそうではないのです。確かに私は些細ないくつかの点でウィンストンよりもほんのわずかに劣っていますが、その他の多くの点では明らかに優れており、総合的に見れば私の方が優秀な人間であることは客観的な事実であることは間違いないので、自分より劣っている者に嫉妬なんてしません。
私がウィンストンを受け入れることができないのは、ひとえに彼女が持つ胡散臭さのためです。
聖地に住んでいるものならば、たとえ幼い子供でさえ純粋を保つことはできません。聖人信仰では光と影は表裏一体、聖地が美しければ美しいほどその裏には汚れが広がっている、そんなことは誰もが分かっていることです。それゆえ、皆、多かれ少なかれ二つの顔を持っているものです。私は昔からそういう他人の持つ二面性に人一倍敏感でした。温厚な人がふとした時に見せる暴力の影、乱暴者の目の奥にある優しい光……相反する二つの顔は、その人の魅力をより際立たせるとともに、私に安心を与えてくれました。それこそが「普通の人間」だからです。
しかしこのウィンストンはどうでしょう。この人は初めて会った時から、今日まで、穢れを知らない乙女のような顔しか見せないのです。そんなはずはないのです。ワーミーたちと相対した時でさえ、彼女はあくまでも深い森の奥にある泉のように澄んだ顔を崩しませんでした。それがどうしようもなく気味悪く、そして恐ろしいのです。彼女が本当に純心しか持っていないというのなら、それはもう白痴か、あるいは聖女であるかのどちらかでしょう。
かつて、そういう人がいたことを私は覚えています。聖女ミラとはこういう人だったのだろうと子供ながらに思っていました。しかしその人でさえ、裏には人に言えぬ深い闇を抱えていたのです。人間とは色々な顔を持っているもの——それが事実である以上、ウィンストンの純心こそが私が彼女を忌み嫌う理由に他なりません。だって、そうでしょう? もしもこの子が二つの顔を持っているとして、表の顔がこれほど燦然と輝いているのなら、裏には一体どれだけの影が広がっているというのでしょうか。
ドアが外からノックされました。
「どうぞ」
ドアが少しだけ開き、男の人が顔を出しました。鼻の下にひげを蓄えた、太り気味の男性……劇団の団長です。
「アテナ、分かってると思うが明日もあるんだから体を冷やすなよ」
「はい、これから浴室に行くつもりです」
「それと……」、団長さんは言いよどみます。「シュナが来ちゃってるんだが。入れていいか?」
ウィンストンは腰に手を当てました。
「私のことはいいから、劇を最後まで観るように言ってください」
「だそうだぞ」
「はぁい」
「だから言ったんだ。怒ってるぞ」
「ひひっ」
団長さんはドアを閉めましたが、「そうだ、すまん」と、少しだけ開けました。
「アテナ、今日はとてもよかったぞ。やっぱりお前ほどミラにふさわしい奴はいないよ。明日も頼んだよ」
そう言うと、ドアを閉めました。
ウィンストンは常の微笑みを浮かべていましたが、不思議とあまり嬉しそうには見えませんでした。よもや私に遠慮しているのでしょうか。この子にはそういうところがあるのです。私に対して特に友情など感じていないくせに、感じているふりをするのです。気にかけているようなふりをするのです。それは優しさなどではなく、自己陶酔の残酷な優越に他なりません。
「ミラにふさわしい、か」、ぽつりとウィンストンは言いました。「あなたも観たんでしょう? どう思った?」
「私は演技なんて分からないから」
私は冷たくそう言うと、腕を組みます。「まあ、あなたにしては上出来ではないの? 私が演技を勉強すれば、もっと素晴らしいものになるでしょうけど」
ウィンストンはフッと笑いました。「そうでしょうね」
それから、ドアに手をかけます。
「でも、明日のミラはあなたも観た方がいいと思うわ。きっと素敵な体験をすることになるでしょうから」
その時の私は、まさか彼女があんな真似をするなんて思ってもいませんでしたから、過剰な自信の表れだと思い、ついカッとなってしまいました。私が罵声を浴びせると、「気に障ったのならごめんなさい」。ウィンストンは哀れな者を見るような目をこちらに向け、部屋から出て行きました。
舞台上では今なお劇が続けられています。
時折聞こえる観客たちの声の中では、自分がとても惨めな存在に思えました。




