歓楽街
薄暗い路地を、私たちは進む。
喧騒は耳を塞いでもはっきりと聞こえるほど大きくなっていた。角を曲がると、路地の先から明るい光が漏れ出していた。
路地を抜けると、いくつもの商店が連なる賑やかな通りがあった。いや、違う。よく見ると、水路に足場を浮かべ、その上で商売をしているのだと分かった。お店だと思っていたのは舟だった。歪な形のたくさんの舟が浮かんでいた。通りには店は存在せず、幅の広い水路にしか店はなかった。
縦横無尽の足場の上を歩いているのは、いかにも貧しい身なりをした人たちだった。この区画に住む平民たちに違いないが、貴族らしい人の姿もあった。
水路の一部は舟が行き来できるスペースがあり、そこに天蓋のついた舟がいくつも浮かんでいた。それぞれに女性が乗っているらしい。舟に男の人が乗り込むと、幕が閉まる。そのまま大型の舟に引っ張られ、夜の湖へと出て行ってしまった。
「ここは?」
「歓楽街でしょうね。まさか聖地にもあるとは思わなかったですけど」
「歓楽……楽しそうね。どういう場所なの?」
「大人の世界ってやつです」
ジャンヌは片目をつむって見せた。
大人の世界……。大人の……。そんな場所があるなんて。子供には内緒にして、大人たちだけで歓楽を独占しているんだ。何と欲深い! 楽しいことはみんなで分け合った方が良いに決まっているのに。私が女王になった暁には、王国中の歓楽街を子供にも解放してやる。
「お子様がこんなところ歩いていたら目立ちますから」と、ジャンヌは自分のローブの中に私を隠した。
水路まで下りると、足場を渡る。視界がローブで遮られ、外の様子をうかがうことはできなかった。あくまでも楽しみを独占するつもりなのだ。私の希望は彼女に伝えている。それでもなお見せないということは、よほどのことなのだろうと判断し、受け入れた。文句は言うけれど。
「それにしても……殿下が来るってのに、こんな場所が残ってるんですねぇ。何考えてんだ?」
ジャンヌは不満気にブツブツと呟く。
「いけない場所なの?」
「聖なる土地にはあっちゃダメなのは確かですね」
「いけない場所にいるのね、私……!」
思わず胸が弾んでしまう。
「あ」
ふと、ジャンヌは立ち止まった。「なるほど、そういうことね」と、何やら得心のいった様子。
ローブの隙間から覗いてみる。大きな建物が目に入った。変わった形をしており、本館だろう屋敷の後ろから、角のように二つの塔が伸びている。そして、屋敷正面に見える大きな紋章……。
「あれは……」
「おっと」
ジャンヌはすぐに隙間を手で塞ぎ、私の視界を遮断した。いじわる。
「あの建物って……」
「商館ですよ。ハニカム商会です」
吐き捨てるように、ジャンヌは言う。「何らかの契約でも交わしてあるんでしょうね。だから、大聖堂も厳しく取り締まれない。こいつらは商会を盾にして商売してるんですよ」
「商会にたかるハエってところね」と、ため息交じりに私は言う。
「いや、蛆虫でしょう」と、ジャンヌは言った。
商会は着実に王国を浸食している。旅の途中でも商人たちの姿を見かけたが、この聖地にまで……! 自分の身が蝕まれるような、そんな嫌な気分がした。
「私、商会って大嫌い!」
我慢できず、私は言った。
「それでこその殿下です」
それからはもう止まらず、私たちはハニカム商会の悪口を言い合いながら先に進んだ。
「おや」
鉄壁のローブが緩んだので、顔を出す。
人が集まっている舟があった。どうやら酒場らしい。喧嘩でもしているのか、怒鳴り声が聞こえる。
「ハハハ、困った奴らですねえ」
ヘラヘラと笑うジャンヌだったが、その目は爛々と輝いている。「ちょっと行ってきますね」
「混ざりたいだけでしょ」
ジャンヌはウィンクしてみせると、一人で足場を渡って行ってしまった。
私は腕を組み、ジャンヌの姿を見守る。彼女は争いの渦中に飛び込むと、有無を言わせず酔っ払いたちを水路に放り投げ始めた。
酒場舟の後ろから、足場を通って路地へと抜ける人の姿が見えた。酔っ払いというわけでもなさそうだ。見ていると、猛牛のごとき暴れ女には目もくれず、店主らしき男に話す人たちがいることに気がついた。店主は彼らを舟の裏へと案内し、男たちは路地へと消える。
「ふいー。解決しました」
すぐにジャンヌが戻って来た。一仕事を終えた彼女は、とても清々しそうな顔をしていた。彼女に水路へと放り込まれ、酔いの冷めた人々は、すごすごと身を小さくしながら都市へと帰っていた。
ジャンヌは私が見ているものに気がついた。二人でしばらく、酒場舟を眺める。
私たちが見ている前でも、また数人の男が店主に話しかけ、裏から出て行った。
「何だろう?」
「行ってみましょう」
ジャンヌは路地へと向かう。
男たちの後を追うと、路地に出たすぐ目の前の民家へと向かった。ドアの前には男が立っていた。彼らは二言三言、話をした。すぐにドアの前の男は横にずれ、男たちを通した。
ジャンヌは少しの迷いもなく男に話しかけた。
「通るかい?」と、男は言った。
「何があんの?」
「通るかい?」
ジャンヌの言葉を無視して、男は続ける。
「あー……なるほど」
何かを察したのか、ジャンヌはその場から離れる。
ローブの中の私の耳元で、ジャンヌは言った。「あいつ、目が死んでます」
「え?」
「誰かに洗脳されてるってことです」
「つまり……どういうこと?」
「あの家の周辺にも魔法の気配がありました。恐らく、あの男の許可がなければ入れない……それか、警報が鳴るようになってるんじゃないですかねぇ。かなり高度な魔法ですよ、あれ」
「何者かが、都市に魔法をかけて何かをやっているということね。大聖堂のあずかり知らないところで……」
「そうです。どうします?」
「もちろん、大聖堂に報告する」と、私は即答した。
「ですね」
「入った後でね」
「でしょうねぇ!」
ジャンヌはローブの中で、どさくさに私を抱き締めた。まるで褒めるかのように。
「何が行われているのか、大聖堂はきっと教えてはくれないわ。少し中を覗いてからでも遅くはない。そうでしょう?」
「うんうん、そうですね。アタシがついていますから、安心してください。殿下はローブの中に隠れてくれてれば大丈夫ですから」
なんとも軽い言葉。
この人は恐らく……私の返事がどうであっても、入るつもりだったのだろう。悪い人。
私たちは男のところに戻った。どうやら、酒場の中に勧誘する別の人間がいるらしく、家の中に入る人間は途切れなかった。
「入るかい?」
男は言った。
「入るわい」
ジャンヌは答えた。
男は無言でドアを指し示した。




