外区画にて
私たちは舟で外画へと向かいます。
ルビウスは私に布の下に隠れているように言いました。
「嫌です。この布、綺麗なの? オブライエン家の娘の私をこんな汚い布でくるもうと言うのですか?」
「文句を言うな。貴様のためだ」
「文句は言います! はっきりさせておきたいですが、我がオブライエン家とはこの聖地きっての名家です。私に対して無礼な行いは――」
「異端なんたらに襲われるぞ」
「ひえぇっ」
慌てて布の下に隠れます。
カビのような臭いのする布にくるまり、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えていると、「生まれたての小鹿のようにプルプルと震えるのはやめろ」と、的確に怒られてしまいました。
「前方から舟が来た。下手を打つなよ」
私はもう石になったつもりで息を殺し、耳をそばたたせました。
「これは麗しいお嬢さん」
よせばいいのにルビウスは話しかけました。声からして相手は若い女性のようです。
私に下手を打つなという割に、ルビウスは何やら揉めているようでした。布の下から顔を出し、様子をうかがいます。舟には二人の人影が見えました。一人は先日拝見した、シューレイヒム卿の従騎士ではありませんか。ではあの小さなお方は……。私は息をのみました。よもや、こんなところでまたお会いすることができるとは――。
しかしそこにいたのは王女様ではありませんでした。私の知っている子……。ダリア・バーガンディでした。
彼女とは幼馴染の間柄で、よく遊んでおりました。まだ彼女が最奥画に住んでいた頃の話です。島に追放されてしまってからは会ってはいませんが、私が覚えていたのだから向こうも覚えているはずです。私は慌てて首を引っ込めました。亀ではないのですけどね。
先日のサーベンスの屋敷での晩餐会で、働くダリアの姿を見ました。労働などとは無縁の生活を送っていた子が、額に汗をし、必死に働いていたのです。他の使用人たちとはあまり良好な関係を築けていないのか、孤立しているように見えました。挙句の果てには転ばされ、醜態を晒しました。没落貴族とはこうも惨めな存在なのかと哀れに思ったことを覚えています。私ならとっくに死を選んでいることでしょう。生き恥を晒してまでよく生きていられるものです。ダリアを見ていると、都市にへばりついているという表現がぴったりではないかと思われました。
やがて、声は聞こえなくなりました。
「今の、貴様も見たか? あんな舟で何をしていたんだろうな」
ルビウスが呟くように言いました。
「あの子はダリア、私の幼馴染です」と、私は答えました。
「ダリアだと?」
パッと、ルビウスは布を上げました。陽光が目に飛び込んできて、一瞬何も見えなくなってしまいました。
「どっちのことだ?」
「ええと……小さい方ですが……」
「ふうん、面白いことを言うな」
そして、また私に布を被せました。仮面を被っているので顔をうかがうことはできませんでしたが、ルビウスは少し驚いていたようでした。ダリアを誰かと勘違いしていたのでしょうが、今思えばあの時彼はダリアの身に何らかの変化を見て取ったのかもしれません。今日の私のように。
外画の浮島の一つで舟を停めたルビウスは、私を布にくるんで脇に抱えました。華奢な見た目なのにどうしてこんなに力があるのでしょう。
この外区画には都市の人口のほとんどを占める平民たちが住んでいます。渡し場には二十三番街と書いてありました。幼い頃、度胸試しにダリアと二人で探索したことがありますが、ここが世界の果てに違いないと思ったことを覚えています。あそこは確か十四番街でしたから、世界はもう少し広かったようです。平民たちの会話は理解できたので、どうやら言葉は通じるようでした。
ルビウスは路地の中へと入り、人の姿がなくなるのを見計らって私を下ろしました。薄汚れた壁の、じめじめとした暗い路地。こちらの気分まで暗くなってしまいます。
「こっちだ。ついて来い」
そう言うと、ルビウスは先へと進みました。
遅れをとらないようにと慌てて追いかけます。彼は私の歩調になど合わせてはくれませんでしたから、精一杯の早足になってしまいました。
そのまましばらく進むと、
「ゴホン」
頭上から咳払いが聞こえました。私とルビウスは同時に空を見上げます。
民家の屋根に腰かけ、女の人が私たちを見下ろしていました。
「プリシャ」
ルビウスが反応すると、女の人は屋根から飛び降り、私たちの前に着地しました。
よく日に焼けた浅黒い肌、そして紫の髪……。切りそろえられた前髪から猫のような鋭い目がのぞき、私たちを睨みつけています。この人のことは街で何度かお見かけしたことがありました。いつも異国風の服を着て、怪しげな音色と共に素晴らしい踊りを披露していました。私などはよくもまああんな破廉恥な恰好で踊れるものだ、きっと生まれつき羞恥心がない低俗な人間なのだろうなあと感心したものです。庶民の服を着ていても、すぐに分かりました。
「アンタ、こんなところで何を遊んでんの? 魔石はちゃんと売って来たんでしょうね」
プレシオーサはルビウスに詰め寄り、指で胸を突きました。
「それがなあ……驚くな、魔石売りは廃業だ。魔石なら今頃湖の底に眠っているよ。困ったもんだ。アッハッハ」
「驚かないわよ。どうせそうなるんじゃないかって思ってたから」
「心外だぞ」
「現に失敗してるじゃない」
「偶然だぞ」
「大口叩いて資金集めを買って出たのはアンタでしょう。しっかりと稼ぎなさいよ。どんな手を使ってもね」
「お前が踊ればすぐに稼げるだろう」
「アンタのためにだけは踊ってあげない」
「アッハッハ。まあ怒るな、怒るな。可愛い顔が台無しじゃないか」
ルビウスはプレシオーサの顎をなでなでしました。「よーしよし、良い子良い子!」
「ばか!」
その時私は、二人は恋人なのだろうと思ったものですから、いたたまれなくなってしまいました。痴態を目の当たりにしているのですから。そんな私の冷たい視線に気がついたのでしょう、プレシオーサはルビウスの手を乱暴に払いのけました。
「お嬢ちゃん、こいつに関わるとろくなことにはならないわよ。女なら誰でもいい色魔なんだから。ほら、悪いこと言わないから帰りなさい」と、私に対して追い払う仕草をします。
今思えばここで本当に去ってしまえばよかったのかもしれません。過ぎた話ですけれど。
「人を何だと思っているんだ」
ルビウスは抗議をしましたが、胸倉を掴まれてしまいました。
「仕事も満足にこなせないごく潰し。違う?」
「大いに間違っている」
プレシオーサの手を掴むと、強引に引きはがしました。「金は必ず手に入れる。オレが口だけではないことを教えてやろう」
「それは楽しみね」
それから、ルビウスは私を指しました。
「それとこいつはどこにも行かない。オレたちと一緒に行くんだ」
「何を言っているの?」
ルビウスはプレシオーサに何やら耳打ちします。彼女は腕を組み、鋭い目で私のことを睨みつけていましたが、やがてコクリと肯きました。「ま、事情があるんならいいんじゃないの?」
「ほら、挨拶しろ」と、ルビウスは私の肩を掴みます。
「よ、よろしくお願いします」
私は深く頭を下げました。それは外画の汚い路地ではあまりにも場違いな、とても見事なお辞儀であったと言っておきましょう。




