熱血プレシオーサ先生
料理の後片づけを終えると、私はプレシオーサに踊りの稽古をつけてもらいます。庭に移動し、洗濯物が風に揺られている下で私たちは踊りました。
彼女は言います。踊りは技術ではない。心だと。
私は思います。お馬鹿かと。
上手く踊りたいと思うだけで満足に踊れるのなら誰も苦労はしません。恥ずかしさが残っているから体が硬いのだとも彼女は言いました。昨日、恥じらいを持たない女性なんて最低だとおっしゃっていたのは確かこの人のはずですが、まあ時と場合によるのでしょう。
指導は熱を帯びていきます。プレシオーサのしなやかな動きはまるで流れる水のよう。まさに融通無碍、頭で考えず、求めに応じて身体が動いているのが見て取れます。対して私の動きは泥の中で遊ぶカエルのようで……誰が見ても見込みはありませんでした。動くたびに泣きたくなります。仕方ないのです。私は生来運動が苦手なのですから。よく何もないところで転んでしまい、罠があるのかと周囲を心配させたものです。華麗に踊るなんて土台無理な話なのです。しかし厳しいプレシオーサ先生は決して私を見放しません。
「アンタ、何も考えずに踊っているでしょう? 私の踊りとアンタの踊り、何が違うのかよく考えなさい!」
何もかもが違いますけど。
「ほら、上手く踊ろうとしてるから体が硬くなってる! 今のアンタにそんなの期待してないのよ! 下手くそなんだからもっと素直に動きなさい!」
素直に踊ったら怒られたんですけど。
「自分の身体でしょ! どう動くのかは自分が一番分かってるでしょう! 私だって技術も何も知らないんだからアンタももっと自由に踊るの! ほら、やりなさい!」
さっきから言ってることがフワフワし過ぎて意味分かんないんですけど。
「まだ休憩じゃないわよ、立ちなさいルージュ! このグズ! ノロマ! 運動音痴! ポンコツ貴族!」
涙が止まらないんですけど。
それでも私は踊ることをやめません。地面を舐め、擦り傷だけになりながらも必死に食らいつきます。これ以上馬鹿にされてたまるものか――執念だけが私を支えていました。
私は超貴族オブライエン家の娘……どこの馬の骨とも知れぬ小娘に罵倒されてごめんなさいというわけにはいかないのです。私の賞賛すべき反骨心を前に、プレシオーサの指導にも熱が入ります。鞭が過激になるにつれ、飴担当のエスメラルダも口を挟めなくなり、隙を突いて飲み物やタオルを手渡してくれる人になってしまいました。
「何やってんの! もう限界? ここで諦めたらアンタ一生後悔するわよ! 自分に負けてもいいの!?」
「やだぁ!」
「だったら踊れ! 私なんかにこんなに言われて悔しくないの? 悔しいでしょう!? 怒ってるはずでしょ!? 踊りなさい、このグズ!」
「酷いことばかり言わないで!」
「甘ったれんじゃないわよ! こっちは酷いものばっか見せられてんだから! 少しは私を驚かせてみなさいよ! そうしたら認めてあげるわ! 私を越えてみなさい、ルージュ! グズ! グージュ!」
「うわぁあああ!!」
罵声と悲鳴がこだまする過酷な特訓は昼まで続きました。
意識が遠くなりかけた時、拍手とよく通る笑い声が聞こえてきました。
「アハハ、やっているな。ご苦労なことだ!」
危ない領域に足を踏み込んでいた踊りの世界は、彼の声で現実に戻ります。
「昨日よりは幾分マシになったようだな。なぜカエルの形態模写をしているのかは理解に苦しむがな!」
まあ、失礼な!
私は満腔の怒りを眼に込め、振り返ります。
涼しい顔をした男の人が立っていました。
天から零れ落ちて来た陽光が、その金色の髪をキラキラと煌めかせています。私の憤怒も、その美しさを前にしては呆気なく霧散してしまいます。日の光の下では彼はまさに物語の中の人のように特別な存在に見えました。ワーミー最後の一人、ルビウスです。この人は単独行動が多く、あまり仲間たちと一緒にいることはないようでした。
彼の腕にはゼムフィーラがくっついています。上目でルビウスを見つめる様は陶酔と呼んでも差支えがないでしょう。恋する乙女というのは端から見ると、こんなにも気持ちの悪いものなのですね。
怒気を露わにした私に臆したのでしょう、私の顔を見て、ルビウスは目をぱちくりさせました。ふふん。
しかしその直後、こともあろうに大笑いを始めました。その場の全員がギョッとして彼を見ました。
「アッハッハ、やはり今日は貴様だったか! 何とも良い時に来た! 会いたかったぞ!」
ゼムフィーラの腕を振りほどくと、ルビウスは私の前へとやって来ました。私の顔を間近で見つめ、顎に手を当てて何やら考え込んでしまいました。この人は一体何を仰っているのでしょう?
「恐らく湖底のあれは……。使用人、魚売り、カエル……。残るはあと一人……」
何やらブツブツと呟きます。カエルって……。
「おい、このカエル借りるぞ」
ルビウスはそう言うと、私の腕を掴みます。カエルって……。
「今頃帰って来て……何してたのよ」
プレシオーサはジロリと睨みます。「ご飯は?」
「食べて来た」
「先に連絡してっていつも言ってるでしょう」
「許せともいつも言っているはずだ」
そう言うや、ルビウスはプレシオーサにキスをしました。まあ破廉恥な! プレシオーサは怒るに違いないと思ったのですが、呆れたように「ばか」と言うだけでした。ルビウスはそのままエスメラルダと日課のハグをすると、彼女にも同様にキスをしました。わ、また! 頽廃が過ぎるわい! ルビウスは私のところに戻ってきました。ひえぇっ。私は思わず身を固くして、目をつむってしまいます。わ、私に手を出したらどうなるか……ごにょごにょ。
「貴様を調べさせてもらう。この聖地の異常を解決する糸口になるかもしれない。協力しろ」
ルビウスは私にはキスをしませんでした。ホッとしたような、ガッカリなような……。ふと見ると、ゼムフィーラが恨みのこもった目で私を睨んでいました。困ります。
「聖地の異常ってどういうことよ」と、プレシオーサ。「アンタだけが気づいていることがあるってこと?」
「後で話す」
「ちょっとー。ジュジュはこの後私と一緒に遊びに行くんだからぁ」と、エスメラルダ。
「後で返す」
有無を言わせず、ルビウスは私の腕を引っ張ると家の中へと連れ込みます。二階に上がると、寝室に私を押し込みました。
姿見の前に私を立たせると、背後から肩に手を置き、鏡の中の自分の姿を注視するようにと言いました。鏡に映る私は少し緊張しているようでした。それも仕方のないことです。こんな狭い部屋で殿方と二人きり。それも、とびっきりの美少年。思わず背筋が凍えてしまう美貌。こんなに端正な顔をした人は、聖地のどこを探しても見つけることはできないでしょう。ただ整っているというだけでなく、美しい金色の髪と真っ赤な瞳には崇高なものすら感じてしまいます。あるいはそれは、彼の性別を超越したような中性的な容姿のせいかもしれません。
「――つまり、今の姿に何ら変わったところはないと」
「ええ、ございません」
ルビウスは不可解な事を口にしました。彼によると、鏡の私にはどこかおかしなところがあるようなのです。ふむん?
「もっとよく見ろ。いつもの自分を思い出せ。髪の色や瞳の色に変化はないか? 身長は? 体重は? 声は? 貴様は本当にこんな姿だったのか?」
「おかしなことを仰るのですね。私は私のままです。何ら変わったところはございませんわ」
「やはり自覚できない……と。シュナと同じだな」
シュナ? あの子がどうしたと……。いや、それよりも。ルビウスには私に起きている変化がはっきりと分かるようでした。一体何だと言うのでしょう。再度、注意深く顔を眺めます。そういえば、少し痩せたような気がします。肌が荒れているような気も……。ここ数日、あまり眠れていないから……。これは実に悲惨です。ルビウスに告げると、「どうでもいい!」と、頬をつねられてしまいました。まあ、何と乱暴な!
鏡の私は、さながらワーミーの女の子でした。襤褸をカモフラージュするためなのか、様々な色の布を継ぎ接ぎされた衣装を身にまとい、髪を二つ結びにして肩口から垂らしています。ワーミーの女の子はみんなこうしています。男は一つ結びにしていて、男女ともに髪を長く伸ばしています。長髪が魔法に関係するとは思えないので、マギアトピアで流行の髪形なのでしょう。お父様が今の私を見たらきっと憤死なさることでしょう。
その後もルビウスによる尋問は続きます。
今朝は何の夢を見た?
身に覚えのない記憶はないか?
そして、ルチル殿下を見たことがあるか?
誰に物を言っているのか分かっていらっしゃるのでしょうか。先日の晩餐会で、この私は殿下と仲良くお話する栄誉に浴したのです。短い時間でしたが、殿下は私との会話をとても有意義と感じてくださったのはその目を見れば分かりました。私たちは心で通じ合ったのです。
ダークブロンドの髪に、火の眼の良く似合う素敵なお方でした。目じりの下がったその瞳は、彼女の持つ優しさと、若干の消極性を感じさせましたが、その目に灯る赤い輝きからはまるで正反対の活発な印象が見受けられました。相反するの二つの顔、はたしてどちらがあの方の本当の顔なのでしょう。もっと傍にいれば殿下の様々なお顔を見ることができるのかもしれません。
私はルビウスの的を射ない質問に、一つ一つに丁寧にお答えします。やがてルビウスは顎に手を当て、考え込んでしましました。
それにしても、本当に美しい方です。もしも彼が貴族の出ならば、求婚者が殺到し外を出歩くのも難しくなってしまうでしょう。シューレイヒム卿の従騎士ルシエル様も整った顔をしていましたが、比べ物になりません。興行の際には魔法を使わずとも、このお顔だけでプレシオーサよりも投げ銭を稼いでしまうそうですから相当なものです。見惚れていることに気がつき、慌てて顔をそらします。ルビウスは他人のそういう態度には慣れているようで、何も言ってきませんでした。
お傍に置いて一生眺め続けていたいと思えるその美しい顔ですが、同時に憎らしくもあります。私が今ここにいる理由は、ひとえに全てこの人のせいだからです。この人とさえ出会わなければ、私はワーミーとなどお付き合いすることもなかったのに……。二度と顔を見たくないと思えたらいいのですが、残念ながらそれは少しも思いません。
あれは二日前、つまりは聖週間の一日目のことでした。




