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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第三章 ルージュの魔法
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カブのクーデターです!

 目を開けると、窓から差し込む光が宙を舞う埃を照らし出していました。

 頬に伝った涙を、手の甲で拭います。


「んん……」


 耳元で、エスメラルダが熱い吐息を漏らしました。


 寝る前にじゃれついて来たのは覚えていましたが、結局一晩中抱き締められてしまったようです。胸の前でしっかりと握られた彼女の腕をなんとか振り切ると、私は寝返りを打ちます。


 とても悲しい夢でした。


 身体が内から引き裂かれてしまいそうな……。あの子にとっては、実際にその通りだっただろうと思います。どうして今さらあの人の夢を見たのでしょう……なんて、理由は明白です。この場所に来たからです。だから、私はいやだった。この家は、あの人が亡くなった場所なのだから。


 エスメラルダがそろそろと腕を伸ばし、背中越しに抱きついて来ました。

「起きたの?」と、いかにも眠たげに彼女は言います。


「悲しい夢を見たの……」


 声を震わせて、私は言いました。


「そう……もう大丈夫よ」


 彼女は私の肩を掴むと、グイッと引っ張って自分に向き直らせました。明るい緑の目が私を見つめます。それから私の頬を優しく撫でると、しっかりと抱き締めました。


「泣いていいよ、私の胸で……」


 彼女の豊満な胸に沈み、私は目をつむります。それだけで、とても安心してしまうのだから不思議です。すぐにお迎えがやって来て、私は夢の世界へと戻ります。警戒しなければならないのは分かっているのに、この人の純真は私の拠り所となっていました。もういっそのこと、何も考えずにこの人の胸の中でずっと眠っていたい。私を吸収してはいただけないでしょうか、おっぱいに――途切れる意識の中で、そのようなことを考えていました。


「いつまで寝てんの」


 その声が聞こえた瞬間、私の意識は強制的に覚醒します。衝撃に備えて体を強張らせていると、やはり足で頭を小突かれてしまいました。涎を垂らして熟睡しているエスメラルダの拘束からやっとのことで逃れると、私は顔を上げます。紫色の髪の女の人がこちらを見下ろしていました。


「まだ早いわ」


 以前の私ならそう答え、すぐにまた眠ろうとしていたに違いありません。ひとたび目をつむればすぐにごきげんな音楽に誘われ、楽しい夢の世界に飛び込めるのが私の数多い美点の一つです。しかしそれを許してくれるほどこのプレシオーサは優しい人ではありません。放り投げられて痛い思いをするのはもうまっぴらですから、私は素直に起き上がります。


 ミシミシと嫌な音のする頼りない階段を下り、洗濯物が入った籠を抱えて、私たちは外に出ます。早朝の冷気が出迎えてくれました。鼻腔から入って来た冷たい風は、そのまま脳へと駆け抜け、私に束の間の爽快をもたらしてくれます。


 猛牛のようにずんずんと進んでいくプレシオーサから遅れないよう、私は小走りで移動します。周囲の家から、私たちと同じく洗濯物を持った女性たちが現れました。行先は同じ、湖です。そこには共同洗濯場があるのです。



 ふと、汚れたシャツが風に舞うのが見えました。視線を正面に戻すと、目の前からプレシオーサがいなくなっていました。女性たちの姿もなく、既に遠くの洗濯場にいるのが見えました。一体いつの間に。少しぼんやりし過ぎたみたい――。


「ゴホン」


 振り返ると、後ろにプレシオーサがいました。彼女はシャツを拾い上げると、私の籠に入れます。それから詰るように睨みつけると、私を追い越して先に進みました。悪いのは風で私のせいではないのに。腹に据えかねたので、私は早足で彼女を追い抜いてやりました。



 今日も今日とて、早朝の湖の水は冷たいです。指を浸していると、切断されてしまうんじゃないかと思ってしまうほど。過言ですけど。


 女性たちは和気藹々と喋りながら洗濯物を踏んでいきます。都市の洗濯は水を張った盥に汚れた衣服を入れ、彼女たちのように踏み続けるというのが一般的です。しかし私たちは違います。



 私とプレシオーサはギザギザの切れ込みの入った板に洗濯物をごしごしこすりつけます。こうすることで簡単に汚れが落ちるのです。これは大変な発明です。しかし大変な重労働です。


「何やってんの、アンタ。全然洗えてないじゃない!」


「だって冷たいんです」


「泣き言で水が温かくなってくれるわけ? 馬鹿言ってないでさっさとやんなさい。本当ならアンタ一人でやるはずなんだからね、分かってんの? 本当にグズね」


「もう! 分かっています!」


 あまりにも無礼な物言いに、カッとなってしまいました。誰の物かも分からない汚れた下着をむんずと掴み、力いっぱい板にこすりつけます。瞬く間に水は黒く濁ってしまいます。この不躾な女の末路です。今に見てなさい……。


 バシンと頭を叩かれました。


「馬鹿、だから力入れすぎだっての。今度破いたらアンタに縫ってもらうからね。ほら、このくらいでいいのよ」


 プレシオーサは私の手に自分の手を重ね、力の加減を説明しました。


 本当にうるさい人です。オブライエン家の娘であるこのルージュが手伝ってあげているのですから、本来なら平伏して頭を垂れるのが筋だというのに……。こんな乱暴な人ができるのですから、この私にできないわけがありません。いつまでも馬鹿にされるのは大変心外ですから、今だけは素直に教えを受け入れます。私を馬鹿にし続けたこと、絶対に後悔させてあげるから……。


 洗濯を終えた頃には、私の指はすっかりかじかんでいました。これは凍傷です。そうに決まっています。今すぐに暖炉の火と温かいミルクを要求します!



 好奇の目にさらされる中、私たちは家へと戻ります。


 家の裏手にある木に紐を結び、洗濯物を干します。手際よく干していくプレシオーサに対し、やはり私は手間取ってしまいます。これは育ちの差というものでしょう。貴き私は一つ一つに時間をかけて干すのです。淑女のたしなみというものです。それを彼女は「鈍くさい」の一言で片づけてしまいました。


 まあ、何と無礼な人! まとめてパパパっとなんてまともな人間のする行為ではないことを自覚してほしいものです。しかし彼女は誰かの汚いシャツで私の首を締めんばかりに怒っていましたので、素直にペースアップを心がけます。今に見ていなさい……。


 全てを無事に干し終えると、朝食の準備に取り掛かります。


 黒カブを切るようにと命じられました。望むところです。親の仇のようにカブを切っていると、弾みに切った欠片が飛んで行ってしまいました。カブは私やプレシオーサの顔に当たり、床に転がります。これは反逆です。カブのクーデターです! 鎮圧したのはプレシオーサでした。飛散したカブを集めると、憤怒のこもった目で私を睨みつけました。いけません。これでは私がカブになってしまいます。しかし、プレシオーサの口が開きかけたその時、背後で鍋が沸騰しました。


「ああもう、灰汁が……!」


 プレシオーサは私のことなどすっかり忘れ、お鍋に夢中になりました。そんなに好きなら入ってしまえばよろしいのに。そんなことを考えていると、プレシオーサは無言で角ネギを指します。次に同じことをしたらあなたを煮込みますと、彼女の背中は言っていました。がくがく震えながらネギを切っていると、エスメラルダが起きてきました。


 彼女はいつもバンダナを頭につけています。バンダナが本体なのだとつまらない冗談を言っていましたが、就寝の際にもとらないので理由を聞いたところ、これがないと寝癖が酷いことになるとのことでした。いつか見てみたいものです。


 エスメラルダは、「うー」、「にゅー」、「ぶにょにょにょ」などと、およそ人語ではない何かを口走りながら私の隣に立ちます。手伝いをしてくれるつもりなのは明らかですが、しかし瞼が開いていない人にナイフを預けることはできません。ポカンと開いた口からは涎が垂れ、顔面は蒼白で、フラフラと揺動するその様から、眠くて眠くて仕方がないのは明らかでした。朝に弱い人は珍しくはないですが、この人はおよそ最弱であろうと断言します。


「いいからアンタは寝てなさい」


 プレシオーサにそう言われ、素直に隅で丸まって眠ってしまいました。ずるい。



「角ネギ切った?」とプレシオーサ。


「はい。もう少しで……」


 しかしその時、ナイフで指先を切ってしまいました。


「アッ、痛い! 痛ぁい!!」


 私は悲鳴を上げます。指からは血が出ました。ああ、何と言うこと! 私の貴き血が!


「見せなさい」


 プレシオーサは暴れる私を押さえつけ、指を確認しました。


「もう駄目です、医者を呼んで! だからこんなことしたくなかったのに! 痛い、痛いの。とっても痛い! 血、血がとまらない……。死んでしまいます……!」


「馬鹿、ちょっと切っただけでしょ。押さえとけばすぐにとまるわよ」


「どうしてそう言えるの? 絶対にとまりません! 誰か、誰か医者を呼んで――」


「ああもう!」


 プレシオーサはやおらに私の指を口の中に入れました。ぎゃっ! それから自分のスカートを少し破ると、私の指に布を巻きつけました。


「もういいからアンタはあっちに行ってなさい! 邪魔!」


 怖い顔でそう言うと、調理に戻りました。


 私はエスメラルダの隣で膝を抱え、プレシオーサの後姿を眺めていました。手際の良い人です。きっと農民の生まれなのでしょう。幼い頃から身を粉にするのが当然だという環境に生まれたからこそ、ここまで何事もそつなくこなせるのです。不憫な人……。


 スープが完成する頃には、エスメラルダもようやく目が覚めたようでした。クンクンと部屋に漂う匂いを嗅ぎ、だらしなく頬を緩ませます。彼女の顔を見て、プレシオーサの険しい顔がフッと緩みました。「変な顔」。それから私へと目を向けます。何を言われるのかと私が身を強張らせると、「指」と、彼女は言いました。指?


「ああ……」、私は自分の指を見ます。布を解くと、血はとまっていました。


「だから言ったでしょ」


 そう言うと、プレシオーサは仲間たちの平穏なる夢の世界に侵攻し、無慈悲な破壊の限りを尽くさんと部屋から出て行きました。


 私は深い息を吐きます。「また怒らせてしまいました……」


「ジュジュは頑張ってるよ」


 エスメラルダはそう言うと、私を抱き寄せました。




 プレシオーサの怒声、壮絶な殴打の音が頭上から聞こえたかと思うと、家がグラグラと大きく揺れます。埃が天井から落ちてきました。私とエスメラルダは身を寄せ合い、家の崩壊に備えていました。やがてお寝坊さんたちが起きてきました。頭や頬を押さえている者、目に涙を溜めている者もいます。


「頼むからプリシャ……普通に起こしてくれ……」


 彼らはプレシオーサに懇願します。


「優しく起こしてほしい?」


 彼女が訊ねると、お寝坊さんたちの全員が頷きました。


「朝の仕事手伝うなら考えてあげる」


「じゃあいいや!」


 全員が口をそろえてそう言いました。



 明日はきっと天井が抜けるだろうなあと私は思いました。


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