シュナとアテナ
目を開けると、月が見下ろしていた。
ここは一体……何がどうなった?
私は舟の上にいた。アテナは……アテナは……?
ふと、左手に何かを握っていることに気がつく。誰かの手のようだ。それはとても冷たかったから、ギョッとして顔を向ける。
アテナはいた。腕だけではなかったので、心底ほっとした。何とか起き上がり、アテナの口元に手を持っていく。ちゃんと呼吸をしていた。
そこは湖の上だった。都市の光がずっと向こうに見える。月の光を浴びて輝く私の髪が、深い闇を仄かに照らしていた。
その時、舟の近くで水面が盛り上がった。
直後、水中から何かが飛び出した。
月光に焼かれたそれは、勢いよく水面に叩きつけられる。舟が大きく揺られ、頭上から水しぶきが降り注ぐ。舟よりもはるかに大きな蛇のような怪物……シュラメだった。
「馬鹿な魚め。何もしないというのに噛みおって……」
誰かが水中から顔を出す。ルビーだった。
私に気づくと、「起きたか」と言った。
「え、ル、ルビーが――」
驚きのあまり、言葉が続かない。ただ口をパクパクするだけになった。
「殴っただけさ。死んではいまい。恐らくな」
「た、助けてくれたの……?」
「そっちか。まあな。魚どもが別の方角に行ってしまったからな。もしかしてと思ったら……案の定、貴様らが下りて来た。命は大事にしろと言ったはずだ」
ルビーはジロリと私を睨んだ。「オレの要件はまだ済んでいない。もう下りて来るなよ」
そう言うと、再び潜ってしまった。
私は呆然と見送ることしかできなかった。
あの人は一体何者なのだろう? シュラメを倒せる人間なんて聞いたことがない……。湖底に用があると言っていたが、まさか底まで潜るつもり……? ワーミーとは、あんなにも常識外れの人たちなのだろうか?
私はシュラメへと目を向ける。
長い口に、びっしりと詰まる尖った牙。鱗はなく、ざらざらとした皮膚があるばかり。鉾舟の飾りとはまるで違う。格好良くも、美しくもない。ただ長い魚だ。私が売っている死んだ魚にもこんなのがいた。こんな魚が……私に似ている? こんな魚になりたいなんて私は思っていたの?
「ふっ」、思わず笑ってしまう。
水の音が聞こえるたび、私は湖に潜った。闇の中に、シュラメたちの境界に沈んでいきたかった。そこだけが私を受け入れてくれる気がしたから……。
でも、水の音はもう聞こえない。
夜の湖は、無表情に私を見つめ返す。生まれて初めて、湖が怖いと思った。湖底の暗闇が、そこにある大きな目が恐ろしいと思った。怖くて怖くて震えが止まらなかった。
私は生きている。この体には温かな血が流れている。私は生きているんだ。それがとにかく嬉しかった。私はもう、湖底を目指すことはないだろう。それだけは確かだった。
「ん……」
その時、アテナが目を覚ました。私はアテナを抱き起し、顔にへばりついた前髪をとってやる。それから、頬をぺちぺちと二回叩いた。
アテナはぼんやりとした目で私を見ていたが、すぐに大きく見開いた。
「シュナが……助けてくれたの……?」
「最初だけね」
私は微笑む。
「どうして……助けたの……。私はもう……生きていちゃ――」
震えるアテナを、私は抱き締める。
「ミラも本当はこうしたかったんだと思う」
私のアテナへの想い。これは恋愛感情なんかじゃない。はっきりと断言できる。ルビーに感じた苦しくて泣きたくなるようで、それでいてじんわりと胸を温めてくれる心地のよさを感じない。
それでも、私はアテナのことが大好き。それが心の全て。
たとえ彼女の想いを受け止めることができなくても、理解することができなくても、それでも一緒にいたいと思う。生きていてほしいと思う。それはいけないことなのだろうか? そんなはずがない。ミラだって、ディフダを助けたかったはずなのだ。
「ごめんなさい、シュナ……ごめんなさい……」
「アテナがいないと、私は生きていけない。それはとっても不幸なことなの。アテナがどんなに悪い子でも、私は一緒にいたいんだ」
彼女の髪を撫でながら、私は呟く。
「俺がお前を守るから。ずっとずっと、守るから。俺と一緒に生きてよ、アテナ」
アテナは力なく私の背中に腕を回した。
湖底にある死者の国で、ディフダとミラは仲良くやっているのだろうか?
ルビーが上がってきたら聞いてみようと私は思った。
第二章 シュナの大火 完




