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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
序章 ルチルの巡礼
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都市

 世界の明度が変わった。

 私の不安の表れかと思って空を見ると、厚い雲が月を覆い隠していた。少しだけ安心する。人目につかないように気をつけながら、私たちは水路の方へと向かった。


 橋には教戒師が立っているため、通ることはできない。どうするのかと思っていると、小舟が一つ置いてあった。


「へへへ。ちゃんと手を回しておきました。結局この世はこれですよ、これ」


 ジャンヌは指で円を作る。


「まあ、悪い人」


「さ、行きましょ」


 舟に乗り込むと、ジャンヌが櫂を漕ぐ。昼の船頭さんの動きを観察していたのか、ジャンヌは実に巧みに舟を動かした。この人は何をやらせてもそつなくこなす。ルシエルもそうだから、そういう人じゃないと従騎士にはなれないということなのだろうが、ジャンヌの場合は日頃の態度が態度だから驚いてしまう。


 対岸に着くと、私は舟から下りた。ジャンヌは目立たないように舟を停める。


 船着き場は浮島の縁に当たり、段差の下にあった。私たちは息を殺し、暗闇に身を潜める。上へと目を向けると、うっすらと人影が見えた。ブツブツと呟く声も聞こえる。教戒師だろう。しばらくすると、声は遠ざかって行った。私たちは近くの階段を上り、都市へと出る。


「ここら一帯は最奥区画って呼ばれて、上流階級が集まっている場所らしいです。外に行くにつれ、うち区画、なか区画、そと区画……って呼ばれてるみたいです。まあ、普通はない画とかがい画って言うそうですけど。名前の通り、区画が下がるにつれて住人の身分もどんどん下がっていくらしいですよ」


 ジャンヌは手振りでシュアンの構造を説明した。


「上の区画に興味はないわ」


「分かってますって。では、こちらに」


 周囲を確認し、ジャンヌは私を通りへと誘導した。



 シュアンの全人口は三十万人ほどだという。しかし区画によって人口は異なり、最奥区画には上級の貴族や聖職者たちしか住んでいない。街並みはすっきりとしていた。聞いた話では、最奥と内区画合わせても、およそ三パーセントの人しか住んでいないそうだ。残りの人たちが押し込められているわけだから、区画が下がるほどに密度は増えていく。その結果、大通りを一つ外れると、路地は魔窟のように入り組んでしまっていた。こんなの、絶対にコーデリアは私に見せてはくれないだろう。


 私たちは中区画の路地を歩いていた。ジャンヌは馴染の道かのように歩いて行く。本当に都市の構造が頭に入っているのだろうか。何度か同じ道を通った気がするけれど……。彼女の歩みに少しも躊躇がないため、迷子になっているのか判断がつかなかった。


 この区画でも、やはり外を歩いている人の姿はなかった。民家の灯りも消えており、都市全体が寝静まっているようだった。


「どうして人がいないのかしら」と、隣を歩くジャンヌの袖を引く。


「さあ。寝てるんじゃないですか?」


「みんなが同じ時間帯に? 王都ではそんなことはないでしょう」


「んー。あの赤面ハゲたちが関係ありそうですけどねぇ」


 静寂の中に、ブツブツと呟く声が聞こえる。教戒師だ。路地の至るところに彼らは立っていた。呟きのおかげで事前に見つけることができるが、こう数が多くては避けられなくなるのも時間の問題だ。


 私たちは来た道を引き返し、違う道を歩く。


「でも、夜に外出するのが背信というわけでもないでしょう?」


「分かんないですよ。教えなんてその土地によって違いますからねえ。大聖堂が早く寝て早く起きなきゃいかんぞって言えば、夜にフラフラしてちゃそりゃもう背信ですよ」


「そういうものかしら……」


 これまでの人生で、教えに背いたことなんて一度もない。王族の私には、教えの方から歩み寄ってくれたから。本当に夜間の外出が厳禁なら、今の私は絶賛背信行為中ということになる。まさか破門されることはないだろうが、やっぱり怒られてしまうのかな? それもまた初めての体験だから、少しだけ楽しみだったりして……。


 どの道を選んでも、必ず教戒師は立っている。配置も計算されたものなのだろうか、ついに、彼らの前を通らねばどこにも行けなくなってしまった。ここまでかとジャンヌを見ると、彼女はイタズラっぽい笑みを浮かべ、空を指していた。彼女は私を抱えると、屋根の上へと跳んだ。


 高層の建物が多い王都に比べ、シュアンの建物はそこまで高いものはなかった。形は独特で、下部が膨らみ、地面に根を張ったようになっている。コーデリアの話では、本当に根っこのように地面を貫通し、水の中まで伸びているらしい。浮島の移動を前提とした作りなのだそうだ。


 ジャンヌは私を背負い、ひょいひょいと屋根の上を駆けていく。浮島から浮島へと渡って行き、一直線に外へと向かう。


 しだいに、通りに人の姿が見え始めた。外区画に入ったらしい。教戒師たちの数は目に見えて減っていた。それと比例して、通りを歩く人たちの姿が増え始めた。


「いるところにはいるんですねぇ」


「やっぱり背信なんかじゃないのよ」


「では……一体何に怯えてるんですかねぇ」


 ジャンヌは何か見通すような、含みの籠もった声で言った。



 私たちは屋根から下り、散策を始める。


 この外区画は平民たちが住んでいるところなのだそうで、上部の区画と比べ、町並みには汚れが目立った。地面の舗装も甘く、あちらこちらにひび割れがあった。その理由は察しが付く。都市の予算は祭祀区域から順に使われてしまうので、ここまで下りて来る頃にはほとんど残っていないのだ。恐らく、外郭に当たるこの辺りの浮島は大きく動かすこともないのだろう。だから早急に修繕する必要もない。そうでなければあまりにも危険だ。いつ崩壊するかも分からない場所で暮らす人々の気持ちを思うと、さぞ不安に違いない。


 私は嘆息する。

 聖地の中枢が大聖堂とその近辺なのだとしたら、ここはあまりにも遠すぎる。物理的な距離だけでなく、人の心も。


 この区画に入ってから、喧騒のような人の声が聞こえていた。どこかに人の集まっている場所があるのかもしれない。


「ん?」


 ハタと、ジャンヌが立ち止まる。暗闇の中に耳を澄ませていた。私も耳に手を添え、目を閉じる。人々の声の中に、女性のすすり泣く声が混ざっているのに気がついた。


「ちょっと失礼」


 そう言うと、ジャンヌは私を脇に抱え、駆けだした。


 いくつか角を曲がると、水路に行き当たる。その縁にうずくまり、泣いている女の人がいた。乱れた衣服からは肌が露出し、哀れにもブルブルと震えている。


 私はジャンヌの元を離れ、女性へと近づいた。


「大丈夫ですか? 何があったのです?」


 私は小刻みに揺れる女性の肩に、手を置いた。

 しかし、すぐに違和感に気づいた。

 いつからだろう。確かに泣いていたはずなのに。

 女は笑っていた。

 ぎょっとする私を、素早くジャンヌが引き寄せた。


 辺りの路地からぞろぞろと男たちが現れた。


「な、何? 何なの?」


 訳が分からず、困惑してジャンヌを見る。


「あの女は餌だったってわけです」


「巡礼者はみんな優しいからなぁ。泣いてる女がいたら放っとかねえ」


 ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべ、男が言った。


「そうだよマヌケ! 痛い目にあいたくなきゃ、金目の物を出しなぁ! ほら、出しなよ!」


 先ほどまでのか細い印象はどこへやら、女は太々しい態度で言った。なんという演技派だろうか。


「そういうこった。ほら、まずは財布を――」


 男がジャンヌの肩に手を置いた。次の瞬間。男は吹き飛び、地面で大きく弾んで壁に叩きつけられた。

 その場の全員が男の行方を追い、唖然としてジャンヌへと視線を戻した。


「気絶させるだけで許してやるわ。巡礼者はみんな優しいからね」

「こ、この女!」


 それが、最後の言葉だった。

 瞬く間にジャンヌはその場の全員を叩きのめしてしまった。



「後は赤らハゲたちに任せましょう」


 そう言って、ジャンヌは私の肩を抱いた。それから、「おや、ご覧ください」


 ジャンヌは気絶している男の顔を見ていた。殴られた箇所が大きな痣になっている。

 すると、男の痣がみるみる治っていくではないか。見ている間にも、綺麗さっぱりなくなってしまった。


「なるほど、これが噂の庇護魔法ですか!」と、興奮を隠さずにジャンヌは言った。


 聖地の庇護魔法の話は有名だが、どこかで作り話だと思っていた。目撃してしまっては、信じないわけにはいかない。では、噂は本当なのだろう。洗礼者であれば、この聖地では怪我はすぐに治るし、病気にもならない。老いる以外では死ぬ者はいないのだという。


「気兼ねなくボコボコにできるってわけですよ! 暴れ放題です!」

 と、目を輝かせてジャンヌは言う。


「野蛮人」


 地面に倒れた男を見て、私は言う。


「行きましょう」


 私たちは足早にその場を離れた。



 心臓のドキドキが止まらない。


 知らない世界を見ることが私の望みだったはずなのに……。もう帰りたいと思ってしまう。氷のように冷たい手が心臓を握り締め、離してくれなかった。涙が押し上げられ、目からこぼれ落ちそうになる。


「うーん。道、間違えてるよね、これ……」

 と、ジャンヌが小声でつぶやくのが聞こえた。それから、私を見る。「怖いですか?」


「うん……」と、思わず答えてしまい、慌てて首を振る。「な、何を言っているの。こういう場所こそを見たかったのよ! も、もっと外に行きましょう!」


「ここは殿下が訪れになってはいけない場所なのです。さ、もう帰りましょう」


 そう言うと、ジャンヌは私の肩に手を置いた。すかさず、私はその手を振り払う。


「どうしてそんなことを言うの? 私はこの国の王女よ。私が訪れちゃいけない場所なんてないわ!」


 私の言葉に、ジャンヌはしまったという顔をした。「あー……」、ポリポリと頭を掻く。「そういう意味じゃなくてですねぇ。何と言えばいいのかな……段取りというか……あっ、違う違う……」


「無駄だって言うんでしょ? 私が市民の暮らしを見たところで、ただの自己満足だって……」


「そんなこと言いません、言いません」


 慌てて、ジャンヌはブンブンと頭を振った。「殿下の御心はよーく理解しております。王国のことを真剣にお考えになるあまり、夜も眠れず、その分たっぷりとお昼寝していらっしゃることは存じ上げておりますから! 無礼がありましたらどうかご容赦ください!」


 一息にそう言うと、ぺこぺこと頭を下げる。なんだか失礼なことを言われた気がするが、ここまでへりくだられたらこれ以上怒る気も失せてしまう。


「私は……良き王女になりたいだけよ。そのために、もっと人々の暮らしを見て学びたいの。辺境の都市を自由に歩く機会なんて、もう二度と来ないと思う。それもここは聖人領、王国の中にあって、王都の目の光が届きにくい場所。だからこそ、この機会を大事にしたいの」


 私は穢れなき眼でジャンヌを見つめる。彼女は明らかに困った顔をしていたが、最後にはフッとほほ笑んだ。


「分かりました。アタシの負けです、殿下。でも、後悔しても知らないですよ~? アタシはちゃんと止めましたから!」


「後悔なんてしないけど……私に何かあったら全部あなたのせいよ。しっかり守ってね」


「これですからね。従者の辛いところっすわ」


「私たちは一蓮托生ということよ。さあ、行きましょう!」


 心なしか声を張り、私は道の先を指した。


「へえへえ。このジャンヌ=マリア、どこまでもお供しますよ。へえ」


 いかにも嫌そうに、彼女は言った。


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