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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
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ディフダになりたかった少女

 アテナの考えなんて手に取るように分かる。

 彼女は色々なことを一人で抱え、圧し潰されようとしている。心に隙間を作りたいはずだ。そんなあの子が向かう場所と言えば……。

 路地を駆け、水路を潜り、私は急いだ。


 ウィンストン家の魔導石が闇夜の中に妖しく輝いている。


 アテナは水に足を浸け、ぼんやりと水中の光を見つめていた。仄かな光に染まる彼女は、今にも溜まりの中に溶けてしまいそうで……。はかなくも美しいその横顔に、一瞬、背筋がゾクリとしてしまった。


「やっぱりここにいたぁ!」


 私はパチンと手を叩く。


 アテナはゆっくりと私に顔を向ける。驚いた様子は見せなかった。「来たんだ」


「そりゃ来るでしょ。色々聞きたいことあるし」

 私はアテナの隣にどっかりと腰を下ろす。「ひひっ。母ちゃんが探してたよ。嫁入り前の娘に劇にかこつけてキスするたぁ許さん! って」


「話したんだ」


「ちょっとだけね。ぶっ殺すって言ってたよ」


「やっぱり……気づいてたんだ……」


 アテナはうつむく。


「ひひっ。一番のファンを侮っちゃいかんぞ。顔隠したくらいじゃすぐに分かっちゃうよ。楽しかったね!」


「人前であんなこと……言わせないでよ」


「でもさ、スッキリしたでしょ?」


「……そうかもね」と、アテナは薄く微笑む。


「なんかさぁ、言いたかったこと全部言えた気がするよ!」


「……酷いこと、たくさん言われた」


「私もね!」


 私はアテナを抱き寄せると、頭を拳でぐりぐりしてやった。


「でもおかげで、とっても良い舞台になったよ! みんな褒めてくれたよ! 王女様もだよ! やっぱり凄いよ、私たち二人って! 凄い子たちなんだよ!」


 そう言うと、私はアテナをしっかり抱きしめた。彼女は抵抗もせずに受け入れていた。



 興奮しているのが私だけだと気づいた時、アテナは私の手を離れ、無言で湖を見つめていた。


「ごめんなさい……シュナ……」


 声を震わせてアテナは言った。


 私は彼女の肩に手を置いた。


「最初から……私を舞台に上げるつもりだったんだね。だからしつこいくらい台詞の練習をして覚えさせたんだ」


「私にはミラを演じる資格なんて最初からなかったの……」


 ぽつりと、彼女は呟く。「だって私はディフダだから……」


 そして、アテナは語り始める。


「いつも、心に空白を感じていた。誰かにその隙間を埋めてもらいたかった。初めはコーデリア様がそうだったの。あの素晴らしいミラを観て……あの人なら、私を満たしてくれると思った」


「空白……?」


「そう。私は欠けてるんだって、小さな頃からずっと思ってた。空白は、すぐに寂しいとか不安とか、悲しい感情で埋まっちゃうから、いつも苦しかった。でもね、コーデリア様の……あの日のミラを想うと、それが薄れた気がしたの。空白が満たされていくような……。あの人のことを想うと胸が温かくなって……自分の全てを捧げなくちゃって思えたの。精一杯に尽くすから、私だけを見てほしいって。こんなこと、誰にも言えなかった」


 私たちは同じようにコーデリア様に夢中になっていたと思っていたけど……。

 全然同じじゃなかったんだ。


「でも、いつだったかな……。コーデリア様に対する想いが薄れていることに気づいたの。あの人を見ても、想っても、傍にいても、少しも満たされることがなくなった。そしてね、気づいちゃったんだ。私の想いは、別の人に向けられるようになっていたの」


 アテナはそっと私の手に自分の手を重ねた。


「いつも傍にいてくれて……思いもよらないことをして私を驚かせて、怒らせて、笑わせて……普通の子みたいに扱ってくれる人……」


 アテナは伏し目に私を見つめる。


 何か言おうかと思ったけど、口から言葉が出て来なかった。

 心が冷たくなっていくのを感じる。なのに体は熱くなり、背中を汗が伝う。

 しばしの沈黙の後、アテナは続ける。



「ミラを演じるのが苦しかった。自分を騙して……否定しているみたいだったの。本当のことを言えば、昨日だって演じたくなかった。どうすればいいのか分からなくて、不安で頭がいっぱいだったから、占い師さんを訪ねたの。でも、その占い師さんはワーミーの仲間だった……。私がウィンストンの者だって知ったら、占いのテントの底が光って……足元に転移魔法の陣が描かれてたんだ。ワーミーの隠れ家に連れて行かれちゃった。そこで、ルビウスたちと話をしたの」


「ルビーと?」


「彼はワーミーよ。気づかなかったの?」、アテナは小首を傾げる。


 ――あの人たちとは話しちゃダメ。

 ――怖い人たちだから。


「ああ……。だからか……」


 私は嘆息する。もっと早くに気づけたような気がするけど……恋は盲目ってのはマジみたい。


「彼らは新しい隠れ場所を探してた。だから、私が劇場を紹介したの。今、この聖地で魔術師たちがいても怪しまれない場所は劇場以外にないから……。ワーミーたちが団長たちや他の魔術師たちを洗脳するのを私は止めなかった。その代わりに、私の計画に協力してもらったの」


「それが、私を舞台に上げることだったの?」


「シュナは誰よりもミラを演じるべき人間だから。私は違う……。私はディフダを演じるべき人間で……。でも、ディフダはもう舞台からいなくなっちゃってたから……。ゲブラーの仮面を利用して、彼女をもう一度蘇らせたの」


 そして、ディフダはミラと結ばれた。

 それがアテナの思い描いた筋書きなんだ。


「あんなことをするなんて……自分で自分が恐ろしい。みんなに迷惑をかけて……。でも、もう、自分を抑えられなかった……」



 だから、アテナはあんなに私がディフダの役を演じることに反対していたんだ。ミラの役を私に譲ろうとしていたんじゃない。自分がディフダを演じたかったんだ。ミラを愛してしまったがゆえに湖に身を投げた彼女と、自分のことを重ねていたんだ。


 アテナは私を見つめる。


「シュナ、大好きだよ」


 それは、以前にも彼女が言ってくれた言葉。

 同じ言葉なのに、どうしてこんなに違うんだろう。


 その眼差しは、友達が友達に向けるものではなかった。


「アテナ……ごめん。私は――」


 すると、アテナは私の眼前に手を伸ばし、言葉を遮った。


「いいの」


 彼女は静かに首を振った。 


「最初から分かっていることだから。全部、分かってる。それにね……私はシュナにふさわしい人じゃないの。本当は、友達としても一緒にいてはいけないの。私ね、シュナ。汚い人間なんだ。本当はずるくて、愚かで……みんなを騙してたんだ。ずっと苦しかった……。シュナと一緒にいちゃいけないのに、でも離れられなくて……」


 アテナの声はどんどんと小さくなって、最後の方は私に届く前に消えてしまった。胸を手で押さえ、アテナは震える。


「シュナは私に泳ぎを教えてくれたよね。でも私は……シュナに嘘を吐いて……可愛くしてあげるなんて言って、あなたを変えちゃって……。シュナを自分の人形のように思ってたの……。平民なんだから、私の自由にしてもいいって……。乱暴なあなたは好きじゃなかったから、私が好きな優しくて、もっと女の子らしい子になるようにしたの。シュナと仲良くなって、あなたのことを知れば知るほど……自分のしてきたことがとても酷いことだって気づいたんだ。本当のシュナを塗りつぶして、私の理想を押し付けて……。あなたに演技をさせちゃってた……。私はあなたを貴族の女の子たちみたいにしたかっただけなんだ。あの子たちと友達になれなかったから、代わりにシュナをあの子たちみたいにしたの。本当に最低で……友達を名乗る資格なんてない……」


 アテナは手で顔を覆う。


「シュナが劇団をやめて……湖で泳ぐようになって……怖かった。本当に毎日、怖かった。湖底近くまで潜るようになっちゃって……劇団にいた頃はそんなことしなかったのに……。待ち合わせの時間が苦しかった。今日はもう来ないんじゃないか……シュラメに食べられちゃったんじゃないかって……。少しでも時間が遅れたら、もうどうしたらいいのか分からなくなっちゃって……」


 そんなことを思っていたの?


 朝、私が舟から手を振った時のアテナの嬉しそうな顔を思い出す。恐怖から解放された、心の底からの安堵……。そんなこと、私は少しも気づかなかった。


「シュナが劇団をやめなきゃいけなくなったのは、全部私のせいなのに……。私のせいで、シュナは湖で……」


「違うでしょ。母ちゃんが暴れたからだよ」


 ピクリと、アテナの震えが止まった。


 ヘクトルの言葉を思い出す。「ウィンストン家が……させたことなの?」


「私がミラの役をシュナに譲ろうとしていることが……お母様の気に障った」、らしくない冷血を思わせる口調で、アテナは言う。


「あの人は……以前からあなたたち母娘を嫌っていたの。外画に住む者が、劇団に所属し、棺舟の渡しとして大聖堂に出入りするようになったから……。だから私のお兄様を使って……あなたたちを排斥させようとした……。お兄様は人を使い、酒場であなたのお母様に嘘を吹き込んだ……。劇団は平民をミラには選ばない……。シュナがディフダに選ばれたのは……ディフダと同じ嫌われ者で、何よりもお前の娘だから……。湖で死にかけた者の娘なら、湖で死ぬ役を演じるには適役だと劇団は考えたのだろう、と……」


「そんな……理由だったの? そんなことで……」


「大事なことだったんでしょう、あの人にとっては。不器用だけど、ちゃんと母親なのよ」


「どういうこと?」


 アテナは微笑み、私を見る。


「今朝、私を外画に送ってくれたのはあなたのお母様よ。大聖堂の近くで、偶然会ったの。シュナをこれからもよろしくと言ってたよ。シュナには言わないでとも言ってたけど」


「ああ……」


 あの時のアテナの反応はそういうことか。笑いそうになるのを堪える。そんな場合じゃないんだ。




 アテナは手を膝に置き、魔導石の光を見つめる。


「結果として、劇団は襲われた……。そしてお兄様の考え通りにシュナはやめちゃった……。たとえやめなかったとしても無理やりにでもやめさせるつもりだったのでしょうけど。誤算だったのは、あなたのお母様が審問にかからなかったことでしょうね。大聖堂は見抜いていたんでしょう……」


 いや。多分、コーデリア様が助けたのだろう。アテナは知っているのだろうか。あの人のこと……。


「私にはもう……耐えられない」


 アテナの顔が苦痛に歪む。


「権威と信仰をはき違えている人たち……それが張りぼてであるとも知らず……そういう人たちが、聖地をどんどん腐らせていく。その中にあって、どうして綺麗なままでいられるの? 私もまた……汚されている。このままじゃ、私もあの人たちみたいになってしまう……」


 アテナは半ば狂乱染みた顔をして、自分の肩を抱いた。


「おぞましい……。どうして私が……? あんな酷いこと……我慢しなくちゃって……みんなそうしてきたはずなのに……でも、もうできないの。もう無理なんだ……」


「何の話……?」


「大聖堂は……きっと私を許さない……。私はもう耐えられないから……。私は汚れて……」


「アテナ……私なら……大丈夫だよ」


 私はアテナの手を握る。


「汚れてるなんて……思わないよ……。背信なんて……母ちゃんも多分いっぱいしてるし……。お、女のことが好きだってさ……別に……うん……」


 アテナは無言で私を見る。その顔は、驚くくらい生気がなかった。


「私のことが……す、す、好きだって……よ、汚れてるだなんて……思わないよ……」



 たどたどしい私の言葉は、誰の心にも響かなかった。



「ごめんなさい……」


 そう言うと、アテナはふらふらと立ち上がった。


「アテナ……?」


 思わず、私は彼女の手を強く握り締めた。どこにも行かないように。


「シュナは……劇を続けて。今夜のシュナ、本当に素敵だった。あの日のコーデリア様……いえ、それ以上に……。もっとみんなに見せてあげて……」


 アテナは私の眼前に何かを晒す。石だった。


「さよなら」


 そう言った途端、石は激しい光を放った。


「ギャッ!」


 間近で直視した私は、目を押さえて転げる。視界がぼやけてしまう。どぼんと、何かが水に落ちた音がした。何か? もちろんアテナに決まってる。


 すぐに水中に目を凝らす。だが、かすんで上手く見えない。手探りで水中を探るも、どこにもいない。


「クソ馬鹿野郎がッ!」


 そう叫ぶと、私は湖に飛び込んだ。


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