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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
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母と娘

 舞台裏に下りると、火はとうに消されていて、何事もなかったかのような平穏がそこにあった。

 団長は号泣しながら私を抱き締めてくれた。団員たちもみんな泣いていた。こんなに褒められたことはなかったので、困惑してしまう。


 驚いたことに、王女様まで現れた。王女様は私の演技を絶賛してくれた。私の手を両手でしっかりと握り、


「あなたを今まで知らなかったことは、私の、いえ、この国全体の不幸です!」とまで言ってくれた。


 観た直後だから興奮してるだけだろうけど、冷静になった後でも同じ意見ならこんなに嬉しいことはない。

 王女様は私に王都に出て来ることを勧めてくれた。「王立劇団にはあなたの場所は十分にある」、と。何だか事が大きくなりすぎて、訳が分からなくなる。私はただの死んだ魚を売って回る人なのに……。


 聖地の貴族たちも続々と私に会いにやって来た。ニヤニヤと、気持ちの悪い笑顔を浮かべているヘクトルがいた。その横で、苦い顔をして私を見るおばさんの姿が。


 肌が異様に白く、身を包む黒い服が相まって、亡者みたいだった。たくさんの人がいる空間の中で、彼女だけが変に現実感がなく、浮いて見えた。幻影か何かじゃないかと目をこすってみたけど、ちゃんといた。その顔には優しさは感じられない。アテナとは似ても似つかない。本当に母子なのかな。


 私と目が合うと、おばさんはこちらに近づいて来た。周囲の貴族が慌てて動き、道を開ける。ニコニコで私の手を握っていた王女様は、おばさんに気づくと、


「あなたも感動したでしょう、ヴィクトリア! シュナに何か言ってあげて!」と、興奮を少しも隠さずに言った。


「ええ……」


 おばさんは一瞬苦虫を噛み潰したような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべる。


「素晴らしかったよ、シュナ君」


 そう言って、私に握手を求めた。


「ありがとう」


 私は彼女の手を握る。


「君はアテナと懇意にしているそうだね」


「そうなの? あの子は良い子よね! 二人がお友達なんてとっても素敵! 私も嬉しいわ!」と、王女様は自分のことのように喜んだ。


「娘がこんなにいい友人を持って、親としてとても誇らしいよ。これからも仲良くしてやってくれ」


 そう言うと、おばさんは握手の上にもう一方の手を重ねた。


 私はニッと笑い、ヘクトルを見る。彼はチロチロと舌を出し、やれやれと呆れたように首を振った。


「はーい!」


 誰の耳にも届くような元気な声で、私は言った。


 証明完了!



 その後も貴族の列は途切れることなく続いた。


 みんな、以前から私は凄い子だと思っていたとか、私から買った魚がとてもおいしかったとか、嬉しいことばかり言ってくれる。もっと前に言ってくれれば信じてあげたのにな。


 さすがに面倒臭くなってしまったので、後は団長に任せて逃げた。とにかく、アテナに会いたかった。彼女はどこに行ってしまったのか、それだけが気がかりだった。


 裏口から劇場の外に出る。そのまま外通路を通って大通りを目指した。


 ふと、闇夜の中に誰かが立っているのに気づいた。見上げるような巨躯の、顔に知性の欠片もない放牧された牛と見紛うその人は――。


「よう、お前か」


 母だった。

 私は立ち止まり、一歩後ずさる。


 半年ぶりの母は、何も変わっていなかった。

 相変わらず筋肉質で、全身には痛々しい傷痕が走っている。変わったところといえば、棒義足がちょっとおしゃれになっているくらいか。


「……何してんの、こんなところで。出禁でしょ」


「だから入ってねえだろうが」


 母は櫂でついっと地面を指した。なるほど、確かに舟の上だ。敷地内ではない。


「お忍びの仕事って奴だ」


「劇場で誰か死んだの?」


 舟には棺が積んであったが、しかし死体が入っているわけでもなさそうだった。


「お前にゃ関係ねえよ」


「そう」


 どうしたものか。母の前を通らなければ、都市に出ることができない。戻って正面口から出るのは人が多すぎて無理だろう。仕方ない。私は母を警戒しながら、その前を通り過ぎようとした。


 しかし。


「待てよ」


 がっしりと頭を掴まれた。やる気か、この野郎。そういえば、次に会った時が私の最後だとか何とか言っていたっけ。


 これが半年ぶりの母子の再会だろうか? どうしてこうなってしまうんだろう。せっかくのいい気分が台無しだ。私は歯を食いしばり、衝撃に備える。やってやるよ。これを耐えれば、私の番……。足を踏み潰し、悲鳴を上げたところで顎を狙って一撃だ。今の私になら何だってできる。白目を剥かせてやらぁ、クソったれ。


 しかし私の予想にしたような痛みは来なかった。

 母はゴツンと額を合わせる。比較的痛くない。


「やるじゃねえか、お前」


「え、観てたの?」


「いんや。話に聞いただけだ」

 母は私を離すと、ニヤリと笑う。「よくは知らねえけどよ、何か凄かったんだろ、お前」


「何言ってんだよ、今さら……」

 私は額を手で押さえ、睨みつける。「めちゃくちゃにしたくせに」


「昔の話だろ」


「そんなんで許されると思ってんのかよ」


「じゃあお前から謝っとけよ」


 この女……マジで言ってんのか……。

 私は絶句してしまう。文字通り、開いた口が塞がらなかった。


「へへっ、貴族の馬鹿どもがよ、興奮して何の話してるかと思ったらみんなお前のこと話してやがった。なんかよ、すっとしちまったぜ。大したもんだよ、お前。本当によ……。もう気軽に殴れねえな」


 そう言いながら、私の頭をボカリと殴った。

 完全に油断していたからかなり効いた。無言で呻く私の頭を怪物のように大きな手でがしっと掴むと、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。髪の毛が全部抜けるかと思った。


「さすがは俺の娘だぜ!」


 馬鹿みたいに大きく口を開け、豪快に笑いながら母は言った。


 こんなに嬉しそうな母は初めて見た――。


 その途端。

 ブワッと涙が溢れ出て来た。


「え、あれ?」


 私は慌てて目を押さえる。でも止まらない。指の間からも流れ出た。


 え? 

 なんで?


「おいなんだ、泣いてんのか?」


「違う、馬鹿! 泣くか! こっち見んな馬鹿!」


 母に背を向け、ぶんぶんと腕を振った。


 とまれとまれとまれ! 


 でもそう思えば思うほど、涙は流れ出てしまう。

 もう立っていられない。

 何なんだよ!


「泣いてやんの」


「泣いてないって言ってんだろ脳みそ筋肉女! 出禁ババア! どっか行け!」


「やっぱガキだなお前」


「お前が言うな!」


 気まずい空気が流れた。当たり前だ。私も母も、こんな時どういう振る舞いをすればいいのかなんて分からないから。まともな母親でも娘でもないんだ。とにかく涙を止めることだけに全力を傾けていた。



 その時、暗闇の中から足音が近づいて来た。私はハッと顔を上げる。母の手が目の前にあったが、彼女は弾かれたように私から離れた。それから、誤魔化すように頬を掻く。何やってんだ? 私は立ち上がり、足音の正体を探る。二階に繋がる、関係者用の出口からだろう。


「お」


 母も音の方を見る。


 コーデリア様だった。

 なるほど、母は彼女の送り迎えをしているのだ。王女様との一件から、正面からは入れないのだろう。つまりは母の出禁仲間。王女様と離れた場所で人知れず観劇をしていたのだ。


 私は涙を拭うと、母のもとを離れ、コーデリア様のもとへと駆け寄る。コーデリア様ははたと立ち止まり、怪訝そうな顔で私を見た。


「こんばんは、コーデリア様」、私は頭を下げる。


「ミラを演じていた子ですね」


 コーデリア様はきっと結んだ唇を、わずかに上向かせる。


「はい。あの、コーデリア様……私の演技はいかがだったでしょう」


「素晴らしかったですよ。みなさん、褒めていましたね」


 違う、みんななんかどうでもいいんだ。

 私は一歩足を踏み出し、「コーデリア様はどう思いましたか?」と、訊ねた。


「私?」


 しまった。コーデリア様は困惑している。


「えっと……その、突然すいません。でも、どうしても言いたくて……。あなたがいたからこそ、私は今日の演技をすることができました」


「どういう意味でしょう」


 コーデリア様は小首を傾げる。


「私は五年前の……コーデリア様のミラを観て演劇を始めました。その日から、私の目標はずっとあなただったんです。コーデリア様のような演技ができればって、ずっと思っていました……」


 また涙が出そうになる。ちくしょうめ。でも仕方がない。憧れの人にやっと自分の想いを伝えることができたのだ。涙の一つも出るだろう。


「私のミラ……」


 コーデリア様は一瞬虚を突かれたような顔をする。まるで、自分が演技をしたことを忘れているかのような……。しかしすぐに思い出したのか、徐々に顔色が変わっていく。眉間に険しい皺が寄る。額には三本の太い血管が放射状に延びていく。あれ、どうしてだろう。何だか怒っているみたい――。


 パン、と乾いた音が闇夜に響いた。


 おや?

 頬を押さえる。今、何が起きた? 頬が痛い気がするけれど……。


 え、叩かれたの? 何で? どうして?


 コーデリア様はさらに二発私の頬を張ると、思いきりお腹を蹴った。私は尻餅をつかされてしまう。えっと、痛いんですけど。無防備な私を、なおもコーデリア様は蹴ろうとする。

 しかし、肩を掴まれ、強引に私から引きはがされる。


「何やってんだ、お前」


 母だった。


「愚かな小娘にしつけを施しているところだ」と、コーデリア様は言った。


「そのガキが俺の娘だってことは分かってんだろうな」


「そうだったのか」

 コーデリア様は少しも意に介さない。「お前のしつけが足りないようだ」


「なめてんのかコラ。てめえをしつけてやろうか、あぁ?」


 母の恫喝を受け、コーデリア様は後退する。


「死体運びの分際で私にそのような口を利いていいと思っているのか。誰が引き上げてやったと思ってる」


「マジで死にてえらしいな、このクソ女」


「私がいなければお前はとっくに島送りだ」


「とっとと失せな」


 母は追い払う仕草をする。


「覚えていろ。後悔させてやる」


 そう言い残すと、コーデリア様は夜の中に足音だけを残して去って行った。


 母はペッと地面に唾を吐いた。「何考えてんだ、あいつ」


「母ちゃん、謝って来なよ。仕事なくなっちゃうよ」


「へーきだろ。あいつにもうそんな力は残ってねーよ。馬鹿な女だ」


 母はジロリと私を見る。「平気か」


「うん」


 私は埃を払う。痛いのはむしろ心の方だ。


 コーデリア様の目は、湖底の闇のように冷たかった。本当だったのだ。コーデリア様は使用人を虐めていた。私はそれを確信した。あの人は平気で人を叩ける人だったのだ。知りたくなかった。


 先ほどまで、私はどうやって喜んでいたんだっけ。幸せを感じる方法を忘れてしまった……。


 いや、違う。私は首を振る。

 私が憧れたのは舞台上のコーデリア様だ。たとえ普段の彼女が非道で最低な人間だったとしても、関係ない。あの素晴らしいミラを覚えてさえいれば、それで十分だ。


「さーて、ちょうどいいや。今夜の仕事が無くなったことだし、俺も行くかぁ」


 そう言うと、母は舟に乗り込み、櫂を握った。


「何すんの?」


「お前、ゲブラー役のクソ野郎にキスされたんだってな」


 私はコクリと肯く。「クソ野郎じゃないけどね」


 母は憤怒に顔を歪めた。


「劇にかこつけて嫁入り前の娘に手ぇ出すたぁふてえ野郎だ。まだ劇場にいんのか?」


「出て行ったみたいだけど……」


「よぅし。絶対に見つけ出してぶち殺してやらぁ! 首洗って待ってやがれぇ、ゲブラー!」


 そう言うや、猛烈に櫂を漕いで行ってしまった。

 怖っ。関わらんとこ……。



「恐ろしい女だな、貴様の母親」


 突然の背後からの声に、


「オラァ!」


 振り向きざま、思わず本気でぶん殴ってしまった。「あ、ごめん……」


「貴様も恐ろしい女だ……」


 頬を押さえ、不機嫌にルビーは言った。もう仮面をつけていなかった。


「今から湖に泳ぎに行く。貴様もついて来るか?」


「湖に……?」


「湖底を見てみたいのだろう? オレが連れて行ってやる」


 ルビーは私に手を伸ばした。

 彼の手を掴もうとしたが、やめる。


「私、アテナを探さなきゃ……」


「そうか……そうだな」

 ルビーは微笑み、手を引っ込める。「貴様なら、アイツがどこに行ったのか分かるだろう」


「どこに――?」


 もちろん、とっくに分かっていた。私は肯く。


「早く行ってやれ。貴様が来るのを待っていることだろう」


「ありがとう」


 ルビーに背を向けると、


「ああ、そうだった」


 と、声がした。振り返ると、彼は柔らかい笑みを浮かべていた。


「今夜の演技は安くなかった。極上だ」


「ひひっ」


 私はルビーに極上のピースサインを見せつけると、駆け出した。


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