緊急事態
ミラが消えた。
どうしたのだろう。前半こそ素晴らしい演技を見せてくれていたのだが、それが全然出て来なくなってしまった。本来ならもっと活躍しているはずなのに……。気づいたのは私だけではないようだった。湖面に波が立つように、客席にざわめきが広がっていく。
何やら不測の事態が起きているようで、舞台袖が慌ただしくなっていた。アテナの身によからぬことが起きてしまったのかもしれない。先ほどからゲブラーが小粋な聖人ジョークを披露しているのは時間稼ぎのアドリブに違いない。彼と指揮術師のコンビネーションのおかげで何とか舞台としての体裁を保っていた。
王女様の様子をうかがうと、彼女もまた怪訝な顔で舞台を見ていた。腕を組み、奥歯を噛みしめている様はいかにも怒り出しそうに見えた。彼女の周囲には空席があり、ひげもじゃ男の姿はあったが、二人の弟子の姿が見えなかった。王女様が帰るための準備をしているのかも……。ヤバい。
ふと、二階の客席に立っている人の姿が見えた。団長だった。一番端まで行くと、急に慌て始め、今度は身を乗り出して立ち見の客たちを見回している。私を探しているのだと分かったので、手を振ってみた。団長は下を指し、待機するように指示した。
胸が押し潰されそうになった。どうしたの、アテナ。あんなに練習したじゃない……。私はもういても立ってもいられなくなり、すぐに指示された場所に行こうと腰を上げる。その時だった。
「ミラ、やっと見つけた! そんなところにいたのか!」と、ゲブラーは言った。
え、ミラ?
アテナ!
私はホッとして舞台上を見る。
しかしどこにも彼女の姿はなく、相も変わらずゲブラー一人。そして彼は明らかに私の方を見ていた。
「そんなところで何をやっている、ミラ! 早くここまで来い!」
そう言うと、ゲブラーは私に向けて手を伸ばした。
何アイツ。馬鹿?
ハッと周囲を見回すと、観客たちも私を見ていた。当たり前か。主演が声をかけているのだ。変則的な演出だと思っているに違いない。私も演者の一人だと……。見上げると、王女様までが身を乗り出して私を見ていた。うおーっ!
私は飛び降り、観客たちの中に紛れて指定された場所に向かった。すぐに団長がやって来た。
「シュナ……」
顔面蒼白の団長が現れた。今にも泣き出しそうな……いや、もう泣いている。
「団長、どうなってるの? アテナはどうしたの?」
「落ち着いて聞いてくれ……」
「なんでアテナ出て来ないの? 今、ゲブラーが私見てなんか言ってたんだけど、どういうこと? 団長なんでここにいんの? なんで? なんで? ていうか、アテナはどこ?」
「聞けって言ってんだろ!」
「早く言ってよ!」
「アテナが消えちまった! 代わりの子たちも、ちょっと様子がおかしいんだ」
「はぁ? 何言ってんの?」
「つまりだな、ミラを演じられる子がいなくなっちまった。お前、行けるか?」
「何それ。そんなこと急に言われてもぉ……」
「お前、アテナの練習に付き合ってただろ。台詞覚えてないか?」
「覚えてるけどぉ……」
私は顎に手を当てる。「んー、私がアテナ探して来た方がよくない?」
「それは俺たちがやる! とにかく今は一刻も早くミラを舞台に戻さなきゃ――」
ワッと、観客たちが沸いた。再び、みんなが私のことを見ていた。
ハッとして振り返ると、いつの間にやらゲブラーが目の前にいた。
「うひゃっ!?」
驚きのあまり飛び上がり、団長の顎で強かに頭を打った。「はぐっ!?」、団長はそのまま崩れ落ちてしまった。げっ、ごめん。
ゲブラーはその場に片膝を突き、私に手を伸ばす。
頭上から光が私たちを照らし出し、周囲から浮き上がらせる。周りにいた観客たちは慌てて背後に下がり、ぽっかりと空間を作った。
「さあ、ミラ! オレの手を取れ! 時間がない、早く!」
「えっと……私に言ってるん……だよね?」
「当たり前だ!」
「人違いってことにならない?」
「ならん! 間違いなく貴様はミラだ!」
そんなことを言われても困ってしまう。そんなつもりで観に来てないのに……。
どうして、アテナ? どうしていなくなっちゃったの?
舞台に上がることは問題ではなかった。でも私が上がってしまっては、アテナが作り上げた素晴らしいものが台無しになってしまうような気がした。彼女の努力の結晶を私が壊してしまう……。
しかし、劇は続いている。
王女様が観ているのに、失敗するわけにはいかない。
誰かがやらなくてはいけないのだ。
誰かが――。
私は天井を見上げる。
ごめん、アテナ。
「ああ、ゲブラー! よくぞこの人の中から私を見つけてくださいました! 少しも嬉しくなんかないけどね!」
やけくそ気味に声を張ると、すかさずゲブラーは私の手を取った。
「よし、そのまま離すなよ!」
ゲブラーは私を抱えるや、ぽーんと大きく跳躍した。そのまま、なんと観客たちの頭の上を駆けた。
え? え?
呆然としている間に、私たちは舞台上に降り立った。今この人、空を歩いていたような……。
床に下ろされ、私は観客たちの方を見る。全ての目が私に集中していた。思わず足が震えてしまう。ゲブラーの腕にすがりつき、息を整える。怖気づいたのかと思った。でも、違った。胸の中で何かが猛烈に暴れ回っている。
私はバッとゲブラーから離れた。
「ゲブラー! あなたはまた無茶をして! 危うく色々なことが台無しになってしまうところだったじゃない!」
「ハハハ! だが貴様を見つけ出すことができた! これで全てが元通りというわけだ!」
「はい、また一からやり直しましょう!」
私はパンと大きく手を叩く。
困惑していた観客たちだったが、私の一言に拍手で応えてくれた。
「さあ、ミラ! これからウルジュワの魔術師様に会おうというのにそんなみすぼらしい格好で何のつもりだ? さっさと着替えて来るがいい!」
ゲブラーは私を舞台袖に連れて行く。
よっし、任せろ!
舞台裏の階段を下りていると、焦げる臭いが鼻をついた。
背景美術の山が燃えていた。
「え?」
戸惑う私を、裏方の二人の女性が誘導する。バンダナの人と、紫の髪の人だ。どちらも新しい人だ。
「ねえ、あれどうしたの? 何で燃えてんの?」
「いいから、いいから」
何やら奥の方で怒声と、物が壊れる音も聞こえる。
「誰が怒ってんの? 止めなくていいの?」
「いいから、いいから」
衣裳部屋に放り込まれ、半ば無理矢理服を脱がされた。
「え、何? アンタこの下何も着てないの?」
紫髪が裸の私を見て声を上げる。
「すぐ泳げるからね」と、私は胸を張った。
「はあ? 何言ってんのアンタ? 本当に何言ってんのアンタ? もう子供って歳でもないでしょう? 恥じらいを持たない女なんて最低よ。頭悪いんじゃない? 悪いでしょ? 悪いわね」
紫髪は呆れ顔で言った。
初めて会った人に何故にそこまで言われなければならないのか? ぶん殴っちゃおうか。
「はいはい、お話はそこまで! 急いでるの、ごめんねー!」
バンダナの女の子が私たちの間に割り込んで来る。よほど焦ったのか、あるいは床でつまずいたのか、勢いのままに抱きついて来た。
「いい、ミラ? 台詞は覚えてなくてもゲブラーが何とかしてくれるから! あなたは流れに沿って演技をして!」
「馬鹿みたいな顔して突っ立ってないでさっさとこれに着替えなさい! 時間がないのが分からないの?」
紫女が私に衣装を手渡した。
そんな顔してたかな? しかしまあ、確かに時間はない。爆発音のようなのも聞こえるし……。二人に手伝ってもらい、私はミラの衣装に着替えた。鏡に映っている私は、夢にまで見たあのミラだった。現実のことではないようだ。これで燃えなければそんなの嘘だ。
舞台へと駆けていると、隅で女の子たちが眠りこけているのが見えた。ミラの代役ができる子たちだ。何が何やら。さてはディフダの呪いだろうか? 劇から抹消されたことを怒っているの? ならば私が相手になってやる!
火は勢いを増し、団員たちが必死で消火活動に当たっていた。どこかの部屋では相変わらず誰かが暴れている。誰も彼もがバタバタと駆け回り、手が付けられない。劇団、今日で終わるのかな?
そんな状況にも関わらず、団員たちは私に寄って来て励ましてくれた。
「頼むシュナ、もうお前だけが頼りだ」
「何でもいいから最後まで演じ切ってくれ! お前ならできる!」
ここまで絶望的な顔をした人たちを見たことがない。王女様の前で大失敗を演じてしまえば、最悪の話、劇団解体どころか追放さえもあり得るからそれも当然だろう。
「任せてよ」
力強く私は答える。
自信なんてない。
あるのはただ、どうしようもないワクワクだけ。
「頑張れ、シュナ……」
「クソ、この非常時に団長まで気絶してるし……。何なんだよもう!」
それだけは私のせいだけど、バレてないなら黙っとこ。




