魚売りと貴族の娘 ― 別れ ―
「お隣いいかな?」
突然の声にハッとして顔を上げると、男が立っていた。長椅子ならまだ空いているのがある。そこに勝手に座ってろよ。ギロリと睨みつけてやった。
短い赤い髪をした男だった。文句なく美男と呼べる顔立ちをしてはいたが、顔に浮かぶ軽薄な笑みがそれを台無しにしていた。癖なのか、時折口の端からチロチロと舌を出す。とてもではないが格好いいとは言いたくなかった。というかキモい。キモい奴はあっち行け。
「なあ、シュナ」
男は馴れ馴れしく私の名を呼んだ。
「劇はもう始まるよ。こんなところにいていいの?」
「おや、僕を知っているのかい?」
「アテナの兄ちゃんでしょ。一番上の。名前は知らんけど」
「ヘクトル・ウィンストンだ。お見知りおき……いや、その必要はないだろうね」
私はコクリと肯く。「もう会うことはないから」
「その通り」
ヘクトルは私の隣に腰を下ろした。足を組むと、その上で手も組んだ。
「母がうるさくてねぇ。まったく敵わないよあの人には」
ため息混じりにそう言うと、ヘクトルは頭を振った。
「結局のところ他人をねぇ、自分の体の一部だって思ってるってわけ。脳が末端に命令を出すようにさ、何でも人にやらせようとするんだね。相手も自分と同じ考えをしているって本気で思ってるわけ。まあ、末端はそうせざるを得ないんだけどね。結局思い通りになっちゃうってわけさ。よくないよねぇ、そう言うの。ねえ?」
私はコクリと肯く。「よくない」
「でも、そういうよくないところほど、受け継がれちゃうってわけだよ、結局」
ヘクトルは顔を上げ、何もない空間を見つめた。
壁の向こうの声が、少し小さくなった気がした。
「劇始まるけど――」
私が言いかけると、ヘクトルは私の肩に腕を回し、抱き寄せた。
「それをさ、人は器量とか才能とか言うんだ。持ってる奴と持ってない奴がいるわけ。何を隠そうこのヘクトルは持ってはいないわけですけどね」
だろうね。
「弟のレスミスも、そんな器じゃない。うちの兄妹ではアテナだけなのさ、持っているのは。だから母様は全てをあの子に譲ろうとしてるってわけ。まあ、あいつなら上手くやるだろうさ。出来が違うんだよ、僕たちとは」
ヘクトルの笑みが大きくなり、顔に深い皺が広がる。
「そしてそして。あいつはもう十二歳。そろそろ教育を施さなければ間に合わない。お母様はあいつを修道院に入れるつもりってわけ」
「間に合わない?」
「修道院で教育を施し、身も心も清らかにする。知ってるだろう。この聖地では時々聖人様の子が生まれて来る。なあ、シュナ?」
「……」、私は肯く。
「聖人様は穢れの無い少女が好きなんだ。そうじゃなければ愛してはくれないってわけ。分かるだろ? 君のようなのと付き合っていると、純性が薄れてしまう。お母様はアテナが聖人様の子供を授かることができないんじゃないかって心配しているわけさ」
わけわけうるせぇなこいつ。
「嫌な役目さ。美しい物を壊すのはいつも辛い。無垢なる少女たちの友情……そりゃ僕も放っておいてやりたかったよ。君の御母堂には感謝したんだけどね。でも結局は先延ばしに過ぎなかったってわけ。あの時、徹底的に引き裂くべきだった」
「何を言って……」
「ここまでにしよう。アテナのためを思うなら、君は手を引け。君と一緒にいては、お互いに幸せになれない。あの子は生まれきっての支配者だ。お母様のようにね。君とは折り合いが悪いってわけ。この都市には二種類の人間しかいない。君なら分かるだろう」
「貴族と死んだ魚を売る人」
「死んだ魚……? ギルドの上下関係のつもりだったわけだけど……。なるほどね」
ヘクトルはクックッと笑った。
「面白い子だね。では自分でも理解しているはずだ、シュナ。君は魚を売るしかない。そんな子が、どうしてアテナと対等になれるんだい。辛いのは君のはずだよ。当たり前のように友達扱いしてくるアテナ。胸に湧くどうしようもない劣等感。本当は見下されてるんじゃないかっていう恐怖。そういう面倒なことと離れられるんだよ? もう疲れたろう。楽になってもいいんだよ。今別れるのが一番いいと思うんだけどね。今ならまだ楽しい想い出の方が勝っているだろう? アテナの気まぐれに感謝するべきだね。君には一生かかっても見ることができない景色を見せてもらえたんだから。素晴らしい想い出を胸に抱えて一匹でも多くの魚を売ることだね。そうすれば、いずれは区画を上って来ることができるかもしれないね。何千年とかかるだろうけど。長生きしなくちゃね」
「クソ野郎だな、お前」と、私は言った。
「でなければウィンストンの一族はやっていられないわけ。うふふふ。手切れ金なんて欲張っちゃいけないよ。人間は謙虚でないといかん。泥より出でて泥に染まらずってね」
ポンと自分の膝を叩き、ヘクトルは立ち上がった。二、三歩進むと、ふと立ち止まって振り返る。
「君が何も手放したくないと言うのなら……証明しなければね。自分が有用であることを。もっとも……あの人はその機会さえ奪ってしまったわけなんだけど。ご愁傷様だ」
馬鹿にするように肩で笑うと、ヘクトルは階段を上がって行ってしまった。
ロビーには誰もいなくなってしまった。私は「はあ……」と、大きく息を吐くと、だらりと長椅子の背に寄りかかる。
仕組まれていたんだ。
私が劇団をやめること。
母が劇団を襲撃したこと……。
全て私とアテナを引き離すために、ウィンストン家が仕組んだことだったんだ。
不思議と怒りは湧いてこなかった。
――大好きだよ、シュナ。
それでも。
いつの日か、アテナは私から離れてしまう。
平民の私と、いつまでも一緒にいることはない。
そんなこと、分かってる。
劇団こそが、私たちを繋ぐ唯一の絆だった。
でも、私はそこを離れてしまった。
あの時に、やっぱり……終わっていたんだ。
私たちは別れる時が来たのかもしれない。
心の宝箱に、どうして鍵をかけているのか。
見たくないからだ。
美しい想い出は、同時に泣きたくなるほど辛い記憶でもあるから。
知ってしまった。
アテナがどんなに恵まれた人間なのか。
そして、自分がどんなに惨めな人間なのかってことを。
頭の中では分かってはいたのに、実際に経験してしまうと、私はまるで分っていなかったのだと思い知った。「アテナ・ウィンストンは平民のお前と付き合っていい人じゃないんだよ」とは、よく貴族たちが投げかけて来た言葉。私はいつも舌を出して馬鹿にしていたのだけれど……彼らは嘘を言っていなかった。屋敷になんて行かなければ、知らないでいられたのに。
アテナは聖地を代表する大貴族の娘。今でさえ都市のことをちゃんと考えている。将来は間違いなく上に立つ人間だ。私みたいのが関わっちゃいけない人なんだ。子供だから、許されてきた。でも、それも今日まで。だってこの舞台が終わる頃には、アテナは――。
立ってみる。膝を曲げ、ジャンプしてみる。大丈夫、もう痛くない。
ドアへと向かう。
決めた。
今日、アテナの演技を見届けて、彼女に会わずに帰る。それでおしまい。二度とアテナの前には現れない。喧嘩別れみたいになってしまうのは悲しいが、でも、彼女はそんなことは忘れてしまうだろう。だって、今夜この劇が無事に終われば、アテナには幸福しか待っていないから。みんながあの子に注目する。色々な人たちに囲まれ、祝福される。今までとは比較にならないくらい特別な存在になる。私のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。それでいい。それがいい。
元々出会うことのないはずだった二人が、何かの間違いで出会ってしまっただけなんだ。二人とも、自分がいるべき場所に戻る。それだけのこと。結局のところ、聖人様のイタズラだったというわけで。
「ありがとう、アテナ」
私は呟く。そして。「頑張って、ミラ」
勢いよくドアを開けた。




