表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
33/148

魚売りと貴族の娘 ― ねんごろ ―

 目を覚ますと、知らない天井を見つめていた。


 頭の中のぼんやりが晴れるにつれ、背中が痛くないことに気がついた。慌てて起きると、そこはふかふかのベッドの上だった。着ている物もみすぼらしい襤褸から、なんか薄いのに変わっていた。アテナの下着に似ている。どこかの屋敷の一室のようだったが、不思議と居心地の良さを感じた。匂いのせいかもしれない。アテナの匂いがした。


 ふと見ると、ベッドの脇に小さな鐘が置かれてあった。とりあえず、鳴らしてみる。


 すぐに、ドアが開いた。現れたのはアテナだった。私を見て、嬉しそうにほほ笑む。「元気みたいね」


「ここは?」


「ウィンストン家の屋敷で、私の寝室。シュナが気を失っちゃったから、ダクティルに連絡して運んでもらったの」


「ダクティル?」


「知ってるでしょう? 私の家の駆士」


 私はコクリと肯いた。昔、私を沈めようとした奴だ。


「屋敷のお医者さんに診てもらったんだけど、疲労が溜まってるみたい。栄養のある食事と、休息が必要なんだって」


 私は苦笑した。「そんなの知ってるよ」


「ちょっと待ってて」


 そう言うと、アテナはドアから出て行った。

 すぐに、料理の乗ったお盆を持って現れた。ベッドの横の机に盆を乗せる。湯気の出ているスープや、お肉料理、カラフルな野菜たち。見ているだけで涎が出てくらぁ。


「おいしそうでしょう? 料理長に作ってもらったのよ。見て見て! このサラダは私が作ったのよ! 食べさせてあげるね」と、興奮気味にアテナは言った。


「自分で食べれるよ」


「遠慮しないで」


 アテナはニコニコでお肉を切り分け始める。何だか楽しそうだから好きなようにさせた。


「あーん」


「あーん」


 お肉が口に入って来た。一口分の幸せがそっと舌の上に乗った。噛むと、脂がじゅわっと滲み出し、口の中いっぱいに広がっていく。肉は噛みしめる必要もなく削れていく。今すぐに喉の奥に押し込みたかったのだが、しかし噛めば噛むほどに美味しくなるのが分かるのでなかなか手放すことができない。もはや噛むところもなくなってからようやく、名残惜し気に飲み込む。幸せで頭がいっぱいになっていた。これが美味いということなのだと理解する。私が今まで食べていたものは、料理なんかじゃなかったんだ……。


「美味しいでしょう?」と、アテナ。


「こんなの初めてぇ」


 私は頬に手を当て、身をよじる。それから、雛鳥のように口を開け、次の一口を待った。


 アテナは「あーん」と、私の口にスプーンを運ぶ。


「あーん」と、私は口を開けた。


 もぐもぐ。


 スープもサラダもとてもおいしかった。特に野菜なんてものは黒カブとか角ネギとかの根菜の、それも腐りかけのものしか食べたことがなかったものだから、こんなにいっぱいの種類があることにまず驚いた。野菜って美味しいものだったんだなぁ。


 私は部屋を見回す。アテナの部屋……。来たのは初めてだったが、違和感はなかった。豪華な飾りなどはなく、必要な物だけが用意された質素で簡潔な空間。実にアテナらしい。


「私なんか屋敷に入れちゃってさ、怒られないの?」


「あーん」


「あーん」


 もぐもぐ。


「うめ……うめ……」


「大丈夫。この屋敷にはね、私しか住んでいないから。昔はお兄様たちと住んでいたんだけど、みんなご自分の屋敷で暮らすようになったから今では訪れることもないの。だから、シュナがいることなんて、誰も気づきもしないよ」


 さすがはウィンストン家。子供部屋ならぬ、子供屋敷があるのか。


「でも、お医者さんとかは知ってるんでしょ?」


「あーん」


「あーん」


 もぐもぐ。


「内緒にして、と言ってあるわ。嘘を吐かせるわけにはいかないから、聞かれたら正直に答えていいとも言ってあるけど……。大丈夫なの。聞かれることなんて絶対にないから」


「ふーん」


「あーん」


「あーん」


 もぐもぐ。


 もぐもぐ。



 食事を終えると、アテナは私の口元を布で拭ってくれる。


「ああ、おいしかったぁ」

 お腹をポンポンと撫で、ごろりとベッドに横になった。「満腹である」


 空腹が過ぎて腹が膨れたことは何度もあるが、本当にお腹いっぱいになったことは以前にはちょっと思い出せない。赤ちゃんがいるみたい。お、今蹴った? お腹をナデナデしていると、食後のお茶が運ばれて来た。至れり尽くせりとはこのことだ。


 お茶をカップに注ぎ、私に手渡すと、アテナは姿勢を正した。


「あのね、シュナ」


「熱ちちっ、何?」


「シュナが気を失ったこと、ギルドに話したの」


「へえ。なんか言ってた?」


「元気になるまで、休みをくれるって」


 私はカップから口を離し、アテナを見る。


「いらないよ。お金もらえないじゃん」


「勝手にごめんなさい。でも、シュナには休息が必要だから――」


「休んでなんかいられないよ。働かなきゃダメなんだ。私みたいなのはさ、みんな疲れてるんだよ。でも休まないんだ」


 お茶をアテナに返すと、私はベッドから下りる。


「ご飯、ありがとね。おいしかったよ。ギルド行かなきゃ」


「どうするつもり?」


「休みはいらないって言って来る」


「待って」


 アテナは背後から私の肩に手を置いた。


「お金のことなら心配しないで――」


「いらないよ!?」


 大声でそう言うと、私はバッと振り向いた。


「……え?」


 アテナはきょとんとした顔で私を見ていた。


 瞬間、火がついたように顔が熱くなった。額に汗がにじむ。


「あ、だから、えっと……休みはいらないって……」


 唇を噛み、思わず顔を逸らしてしまう。



「違うの」、私の手を優しく握り、アテナは言った。「ギルドに話をしてね、お休みの間もお金をもらえるようにしたの」


「え? ズルくない、それ?」


「シュナのこれまでの労働時間を調べたの。そうしたらね、他の人たちよりも超過していることが分かったんだ。でも、その分の賃金は払われてなくて、無償労働させられていたのよ」


「そうなの?」


 びっくりした。確かに、魚を売る以外にも荷物の運搬やら漁の手伝いやらをやらされてはいたが、その分のお金はもらえるって話だったのに……。金回りの話で嘘は吐かないって、親方も言ってたくせに……。


「だからね、親方さんに超過分を休む期間の賃金として支払うように頼んでおいたわ。これはシュナの正当な労働の対価だから。シュナが頑張ったから貰えるお金なの」


「じゃあ……本当に休んでいいの?」


「もちろん」


 アテナに連れられ、またベッドに腰を下ろす。


「それでね、シュナ……泊まる場所、ないんでしょう?」


 私の隣に腰を下ろし、アテナは言った。


「頼めばギルドの宿舎に――」


「お金かかるでしょう? それに宿舎は男性向けのものでしょう? 複数人で同じ部屋に寝泊まりすると聞いたわ。シュナにはよくないと思うの」


「そ、そう……?」


 よく知ってるな。


「だからね……」

 彼女はおずおずと身を寄せると、上目に私を見る。「この屋敷に泊まらない?」


「ここに?」


「ええ。自分の家だと思っていいから………」


「ほー。豪華になったなぁ~、うち」


 愉快に部屋を見回していると、アテナは指をもじもじし始める。


「とても素敵な考えだと思うんだけど……。ここなら安全だし……美味しい食事もあるし……ベッドで眠ることもできるし……」


「アテナもいるし?」


 アテナは顔を上げ、期待を込めた目で私を見た。「え、ええ。そうよ」


「うーん、どうしよっかなぁ~。私さぁ、こんなでっかい家……」


「うん……」


「うりゃっ!」、いきなりアテナを抱き締めると、二人してベッドに倒れ込んだ。虚を突かれたらしいアテナは、「きゃんッ」と、足を踏まれた犬っコロみたいな声を上げた。


「私さ、こういうでっかい家に住むの、夢だったんだぁ! だから嬉しい! 持つべきものは貴族の友達だね! ありがとアテナぁ!」


 ギューッと抱きしめ、解放する。苦しかったのか、アテナは真っ赤っ赤で締まりのない顔をしていたが、すぐにいつもの慎ましい顔に戻った。それからベッドに置き直り、そっと私の頭を撫でた。


「いつまでもいてくれていいから」




 私はしばらくの間、屋敷で暮らした。


 楽しかった。


 早起きなんて忘れ、たっぷりと寝坊して、アテナと遊んで過ごした。


 アテナは畑から生えて来るのかと思うほどたくさんの服を持っていたから、鏡の前で着せ替えをして遊んだ。見るからに可愛らしい服の数々は、私が着ると「お前が着んのかよ」みたいな嫌な顔をするのだけど、隣で手を叩いて喜ぶアテナの声が聞こえた途端、すぐに従順になってくれる。照れくさいけど、可愛い私も悪くないと思ってしまう。


 アテナが集めているお人形さんを見せてもらったり、本を読んでもらったり、一緒にお料理してみたりもした。出会ってからというもの、あんなに長く同じ時間を過ごしたのは初めてだった。一緒にお風呂に入り、一緒に食事をして、一緒のベッドで眠った。


 ベッドの上で、私たちは色々な話をした。


 劇のこと。

 将来のこと。

 どういう大人になりたいか。

 どういう人と結婚したいか……。

 絶対に叶わない願いを、たくさんたくさん語り合った。



 忙しい人のはずのアテナとどうしてずっと一緒にいられるのか、不思議だった。彼女に聞いても笑顔しか返って来なかったけれど、後で知ったところでは、本当に大事な用事以外はすべて休んでいたらしい。自分を犠牲にしてまで、私のために時間をとってくれていたのだ。それはお金にすると、きっと私が一生かかっても払えないくらいの価値になるんだと思う。それを無償で提供してくれる彼女は、かっこよかった。憎らしいくらいに。


 大事な用事の日とは、大聖堂でのお仕事がある日だ。

 その日が来ると、アテナは前日の夜から憂鬱な顔をしていることが多かった。何をしているのかは教えてくれないが、夜中に目を覚ました時にはもう出かけていたり、夜が過ぎても帰ってこなかったり、帰って来ても元気がなく、すぐに眠ってしまったりと傍目にも大変らしいことは分かった。変わってあげられないのがもどかしかった。


 そんな日は一人で屋敷を独占できたのだけれど、少しも楽しいとは思えなかった。早くアテナが帰って来ないかな、とそればかり思っていた。自分で思っている以上に、私は彼女に依存していたのだ。あのまま時を過ごせば、きっと片時も離れられなくなったに違いない。そんな風に思えるほど、アテナは私を大切に扱ってくれた。



 夢のような時間は、ある日突然終わりを告げた。


 その日、私はアテナと一緒に劇場を訪れた。アテナの言う通り、団員たちは温かく私を迎えてくれた。とにかく心配していたそうで、連絡しなかったことで怒られてしまった。


「さあ、聖誕祭までもう時間がない! 今こそみんなで力を合わせよう! 俺たちなら大丈夫だ!」


 団長は眉を下げ、不安でいっぱいの顔で言った。本当に顔に出る人だ。


 日が暮れる前に、私たちは帰途についた。


「ね、言った通りだったでしょう?」


「うん」


 アテナは手を握って来る。私もしっかりと握り返した。心の中のもやもやがようやく晴れて、とてもすっきりとした気分だった。これでもう、何も思い残すこともない。


 最奥区画に入ろうかという通りの前で、駆士が待っていた。彼は私を一瞥すると、アテナに小声で何かを言った。


「そう……。お前はもう帰っていいわ」


 ダクティルは頭を下げると、去って行った。


 アテナはうつむき、指をもてあそんだまま何も言わなかった。たまらず、「どうしたの?」と、私から訊いた。


「お母様に……気づかれたと……。手回しはしていたのに……」


「そっか、じゃもう泊まれないね。おばさんにお礼言っといてよ。楽しかったって」


 アテナは私の手を両手で握った。


「私もシュナと一緒に行く。もう屋敷には帰らない……!」


 その目があまりにも真剣だったから、私はプッと噴き出した。


「アハハ、何言ってんの。虫とか鼠とかうようよいるところで寝なくちゃいけないんだよ。酔っ払いは絡んで来るし、頭おかしい奴に襲われることもあるし、ご飯だってろくに食べられないよ。そんなところに行きたいの?」


「そ、そんなの……構わない……。シュナと一緒にいたいの……!」


 そう言いつつも、アテナの顔はどんどん蒼白になっていく。


「帰りなよ。せっかく良いお屋敷に住んでるんだから」



 そして、私たちは別れた。



 その数日後に私は劇団をやめると告げた。

 あんなに悲しそうなアテナの顔を見たのは初めてだった。


 ウィンストン家の屋敷で過ごした日々は、今でも私の中で魔石のようにキラキラ輝いている。あまりにも綺麗なものだから、その辺に放置するわけにもいかず、心の宝箱にしまっている。じっくりと手にとって眺めたら、たちまちあの数日間に戻ってしまうから……鍵をかけ、めったに外には出さずにいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ