暗闇に差す光
あんなことをしでかしたのに、母は大した罪に問われなかった。
教戒師から戒めを受けたらしいが、相変わらず粗暴との話で、大して効果はなかったようだ。
噂では、大聖堂の誰かが庇ってくれたということだ。そんなことをしても何のメリットもないから、でたらめには違いない。でも、母には魚売りから死体運びになった過去がある。誰かが口利きをしたからこそギルドを抜けることができたのだ。母に味方するなら、私にも味方してくれたらいいのに。
事件の翌日も、私は普段通りに働いた。早朝から外画で魚を売り、荷物の運搬をし、夜は路地裏で過ごした。誰にも何も言われなかった。むしろ、遠巻きにされていたような気がする。劇場にはとても行けなかったし、アテナにも会えなかった。もうこの外画の外に自分の居場所はないと、そう思っていた。
アテナに会ったのはそれからしばらくしてのことだった。
日の光が遮られた暗い水路を、私は舟で進んでいた。壁一面に黴やら汚れやらがびっしりと続いていて、とても居心地がよかった。人なんてすれ違いもしないから、魚は大量に売れ残ってはいたが、どうでもよかった。そこが自分にふさわしい場所なのだと、もう分かっていたから。
水路の先で建物が途切れ、光が射しているのが見えた。その先にはまた薄暗が続いている。ちょうど、こんな感じだったのだろう。ずっと続くと思っていた時間は、長い人生の中では一瞬のことだったんだ。そんなことを思いながら、光の中に入った。
「あっ」と、声が聞こえた。
見ると、陽光を背にして誰かが小橋の上に立っている。アテナだった。肩で息をしていた彼女は、ホッと息を吐いた。
「よかった……やっと会えた……」
私たちは上と下でしばし見つめ合った。アテナが一歩足を踏み出した途端、私は力いっぱい櫂を漕ぎ、その場から逃げた。
とても顔を合わせることなんてできなかった。怖かったわけじゃない。もしも今彼女と話せば、ますます自分が嫌いになることが分かったから。全部諦めて、やっと納得できたのに……。
「待って、シュナ!」
アテナは追いかけて来た。恥も外聞もある貴族にとってはありえないほど全力で。でも、どんなに俊足だったとしても、この都市では舟に追いつくことはできない。水路を続けて二つ曲がり、振り切った。
私は空を見上げる。汚い壁の上に、天井画のような嘘くさい青空が広がっていた。
終わりはあまりにも突然で、心の中に染み込むのに時間がかかった。
どぼん。
何か、大きなものが水に落ちた。
え?
振り返ると、路地のどこにもアテナの姿はなかった。落ちたんだ……! 私が慌てて腰を上げたちょうどその時、水面から手が出て来て、力強く舟の縁を掴んだ。直後、ザバッと誰かが乗り上げて来た。
「追いついたぁ……」
アテナは縁に身をもたせ、ふーっと大きな息を吐いた。
「え……何してんの……」
あまりにも驚いたものだから、口を開けたまま固まってしまった。というか、ちょっとひいた。
「感謝しなくっちゃ。泳ぎを教えてくれた誰かさんに」
髪をかき上げ、彼女は楽しそうに笑う。服を着たままなのに、よく舟に追いつけたものだ。ここまで泳げるようになっていたなんて、知らなかった。
アテナが助けを求めたので、抱きかかえて舟に乗せてあげる。彼女はぐしょぬれの服を確認し、「どうしよ」と困ったような顔で舌を出した。私が何も言えずにいると、すっと姿勢を正した。
「シュナ……大事なことを伝えに来たの」
そう言うと、彼女は私の手を取った。私は咄嗟に手を弾き、背後に下がる。魚の入った籠にぶつかった。ぼとぼとと、頭から死んだ魚たちが落ちて来る。思わず泣きたくなった。
アテナは私に近寄ると、魚を掻き分けて顔を出してくれた。
「シュナ、あなたのお母様はとても酷いことをしてしまった。みんなが傷ついた。私も……」
「うん……」と、私は答える。
「そして、あなたもね」
私の頬に手を当て、アテナは言った。「みんなが平等に傷ついたの。分かってるでしょ? シュナのことを責めている人なんて、劇団にはいないよ。あなたが来るのを待ってるんだから」
「でも……」
思わず目を逸らしてしまう。
「みんな心配してるのよ。劇団はようやく傷が癒えて来たところなのに……あなただけが傷だらけのままだから」
「だって……もう無理だよ……。私は……魚売りだもん。舐め合ってれば治るほど……浅い傷じゃないんだよ」
何もかもが嫌だった。
暗い路地も。
生臭い魚も。
母の暴力も。
みんなの優しさも。
みすぼらしい自分も。
美しいアテナも。
「どうして……? どうして、こんな――」
奥歯を噛みしめた。
いけない。これだけは、言っては……。
私はギュッと目をつむると、アテナの肩に手を置いた。
「落ち着いたらさ、ちゃんと劇場に行くよ。みんなにそう伝えて」
にっこり笑ってそう言った。
「来てくれてありがとね、アテナ。とっても嬉しい。今、仕事中だからさ。この魚全部売らなきゃなんだ。また今度ゆっくり話そ――」
まだ言い終わらない内に、アテナは私を抱き締めた。
「大丈夫だから、シュナ。全部、大丈夫。私がついているから……」
「何言って……」
「無理しなくていいんだよ。一人で頑張らなくても……私がついているから……」
アテナは私を放すと、間近で見つめる。彼女の瞳には涙がいっぱい溜まっていた。
「シュナ、大好きだよ」
涙を拭い、薄い笑みを浮かべて、アテナは言った。
「シュナが自分を嫌いになっても、私を嫌いになっても……私はずっと大好きだから。だからね、お願い。私から……もう逃げないで」
「アテナ……」
「私の目を見て、シュナ」
言われた通り、彼女の瞳を見つめる。涙が頬を伝った。なんでアテナが泣くのか、分からなかった。私の代わりに泣いてくれているのだろうか。
「大好きって言って」
「何だよ、それ」
思わず、笑ってしまう。「大好きだよ、アテナ」
「知ってる」
アテナは私を抱きしめた。
「アテナ?」
「遠くに行きたい……二人で……。誰も私たちを知らない、ずっと遠くに……」
「そうだね」と、私は答えた。
私とアテナを乗せて、舟は外画のどこかを魔法が生み出す水の流れに乗って進んでいた。本当にそんな場所まで連れて行ってくれればいいのにと、その時の私は本気で思った。
アテナの話では、その後、私は気絶してしまったらしい。自分でもいつ意識を失ったのか分からない。けど、理由は分かる。
安心したからに決まってる。




