表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
32/148

暗闇に差す光

 あんなことをしでかしたのに、母は大した罪に問われなかった。

 教戒師から戒めを受けたらしいが、相変わらず粗暴との話で、大して効果はなかったようだ。


 噂では、大聖堂の誰かが庇ってくれたということだ。そんなことをしても何のメリットもないから、でたらめには違いない。でも、母には魚売りから死体運びになった過去がある。誰かが口利きをしたからこそギルドを抜けることができたのだ。母に味方するなら、私にも味方してくれたらいいのに。


 事件の翌日も、私は普段通りに働いた。早朝から外画で魚を売り、荷物の運搬をし、夜は路地裏で過ごした。誰にも何も言われなかった。むしろ、遠巻きにされていたような気がする。劇場にはとても行けなかったし、アテナにも会えなかった。もうこの外画の外に自分の居場所はないと、そう思っていた。


 アテナに会ったのはそれからしばらくしてのことだった。


 日の光が遮られた暗い水路を、私は舟で進んでいた。壁一面に黴やら汚れやらがびっしりと続いていて、とても居心地がよかった。人なんてすれ違いもしないから、魚は大量に売れ残ってはいたが、どうでもよかった。そこが自分にふさわしい場所なのだと、もう分かっていたから。


 水路の先で建物が途切れ、光が射しているのが見えた。その先にはまた薄暗が続いている。ちょうど、こんな感じだったのだろう。ずっと続くと思っていた時間は、長い人生の中では一瞬のことだったんだ。そんなことを思いながら、光の中に入った。


「あっ」と、声が聞こえた。


 見ると、陽光を背にして誰かが小橋の上に立っている。アテナだった。肩で息をしていた彼女は、ホッと息を吐いた。


「よかった……やっと会えた……」


 私たちは上と下でしばし見つめ合った。アテナが一歩足を踏み出した途端、私は力いっぱい櫂を漕ぎ、その場から逃げた。


 とても顔を合わせることなんてできなかった。怖かったわけじゃない。もしも今彼女と話せば、ますます自分が嫌いになることが分かったから。全部諦めて、やっと納得できたのに……。


「待って、シュナ!」


 アテナは追いかけて来た。恥も外聞もある貴族にとってはありえないほど全力で。でも、どんなに俊足だったとしても、この都市では舟に追いつくことはできない。水路を続けて二つ曲がり、振り切った。


 私は空を見上げる。汚い壁の上に、天井画のような嘘くさい青空が広がっていた。

 終わりはあまりにも突然で、心の中に染み込むのに時間がかかった。



 どぼん。


 何か、大きなものが水に落ちた。


 え?


 振り返ると、路地のどこにもアテナの姿はなかった。落ちたんだ……! 私が慌てて腰を上げたちょうどその時、水面から手が出て来て、力強く舟の縁を掴んだ。直後、ザバッと誰かが乗り上げて来た。


「追いついたぁ……」


 アテナは縁に身をもたせ、ふーっと大きな息を吐いた。


「え……何してんの……」


 あまりにも驚いたものだから、口を開けたまま固まってしまった。というか、ちょっとひいた。


「感謝しなくっちゃ。泳ぎを教えてくれた誰かさんに」


 髪をかき上げ、彼女は楽しそうに笑う。服を着たままなのに、よく舟に追いつけたものだ。ここまで泳げるようになっていたなんて、知らなかった。


 アテナが助けを求めたので、抱きかかえて舟に乗せてあげる。彼女はぐしょぬれの服を確認し、「どうしよ」と困ったような顔で舌を出した。私が何も言えずにいると、すっと姿勢を正した。


「シュナ……大事なことを伝えに来たの」


 そう言うと、彼女は私の手を取った。私は咄嗟に手を弾き、背後に下がる。魚の入った籠にぶつかった。ぼとぼとと、頭から死んだ魚たちが落ちて来る。思わず泣きたくなった。


 アテナは私に近寄ると、魚を掻き分けて顔を出してくれた。


「シュナ、あなたのお母様はとても酷いことをしてしまった。みんなが傷ついた。私も……」


「うん……」と、私は答える。


「そして、あなたもね」

 私の頬に手を当て、アテナは言った。「みんなが平等に傷ついたの。分かってるでしょ? シュナのことを責めている人なんて、劇団にはいないよ。あなたが来るのを待ってるんだから」


「でも……」


 思わず目を逸らしてしまう。


「みんな心配してるのよ。劇団はようやく傷が癒えて来たところなのに……あなただけが傷だらけのままだから」


「だって……もう無理だよ……。私は……魚売りだもん。舐め合ってれば治るほど……浅い傷じゃないんだよ」


 何もかもが嫌だった。

 暗い路地も。

 生臭い魚も。

 母の暴力も。

 みんなの優しさも。


 みすぼらしい自分も。



 美しいアテナも。



「どうして……? どうして、こんな――」



 奥歯を噛みしめた。

 いけない。これだけは、言っては……。


 私はギュッと目をつむると、アテナの肩に手を置いた。


「落ち着いたらさ、ちゃんと劇場に行くよ。みんなにそう伝えて」


 にっこり笑ってそう言った。


「来てくれてありがとね、アテナ。とっても嬉しい。今、仕事中だからさ。この魚全部売らなきゃなんだ。また今度ゆっくり話そ――」


 まだ言い終わらない内に、アテナは私を抱き締めた。


「大丈夫だから、シュナ。全部、大丈夫。私がついているから……」


「何言って……」


「無理しなくていいんだよ。一人で頑張らなくても……私がついているから……」


 アテナは私を放すと、間近で見つめる。彼女の瞳には涙がいっぱい溜まっていた。


「シュナ、大好きだよ」


 涙を拭い、薄い笑みを浮かべて、アテナは言った。


「シュナが自分を嫌いになっても、私を嫌いになっても……私はずっと大好きだから。だからね、お願い。私から……もう逃げないで」


「アテナ……」


「私の目を見て、シュナ」


 言われた通り、彼女の瞳を見つめる。涙が頬を伝った。なんでアテナが泣くのか、分からなかった。私の代わりに泣いてくれているのだろうか。


「大好きって言って」


「何だよ、それ」


 思わず、笑ってしまう。「大好きだよ、アテナ」


「知ってる」


 アテナは私を抱きしめた。


「アテナ?」


「遠くに行きたい……二人で……。誰も私たちを知らない、ずっと遠くに……」


「そうだね」と、私は答えた。


 私とアテナを乗せて、舟は外画のどこかを魔法が生み出す水の流れに乗って進んでいた。本当にそんな場所まで連れて行ってくれればいいのにと、その時の私は本気で思った。


 アテナの話では、その後、私は気絶してしまったらしい。自分でもいつ意識を失ったのか分からない。けど、理由は分かる。


 安心したからに決まってる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ