劇団を辞めなくてはならなかった理由
私は客席を二階に上がり、用意してもらった席へと向かう。いつもは関係者用のボックス席なのだけど、この客入りじゃ仕方ない。平土間の立ち見を含め、観客席は既に満席だった。
入口の真上にある貴賓席に王女様たちはいた。慎ましく座席に座りながらも、期待に顔を輝かせている。興奮した面持ちで隣に座る貧相な子にしきりに話しかけていたが、その体格差から脅しているようにしか見えない。見た目からでは信じられないが、彼女は観劇が趣味なのだそうだ。武闘大会の方が絶対に向いていると思う。
「なんだ~? なんか臭くないか~?」
突然、近くの貴族の一人が言った。
私はクンクンと辺りを嗅いでみる。何も臭わんけど。
「おい見ろよ、魚売りがいるぜ」
「ど~りで生臭いと思ったよ」
「おいおい、誰も魚なんて頼んじゃぁいないよなぁ?」
ああ、そういうことか。
顔が強張る。
「おい、魚売り」
貴族の一人がわざわざ私のところまで来た。「無視するなよ。この場にお前以外の魚売りがいるか?」
男はポンポンと私の頭に手を置く。
こいつらは私に問題を起こさせて、この場から追い出すきっかけを作ろうとしている。こんな見え見えの手に引っ掛かるな。しょせんはボックス席にも入れない程度の奴ら、アテナがふっと息を吹くだけで消し飛んじゃう雑魚野郎ども。今この場では顔を覚えるだけに留めて、後ほど一人ずつ個別に潰して湖に沈めるのが良し。
「お前の母親ってさ、死体運びやってんだろ?」
サアッと顔から血の気が失せるのが自分で分かった。
「聞いたぞぉ、劇団で暴れた奴がいるって。死体運びの女ってもっぱらの噂だ。それで思ったんだけどさ、お前が劇団追い出されたのもその頃じゃなかったか?」
男の仲間たちは笑い始める。
そんなこと、もう誰でも知っている。何も特別なことじゃない、何も。馬鹿。この馬鹿。
「まあ、お前には同情するよ。あんな女か男かも分からない奴の子に産まれたんじゃ、ろくな人間にならないことは決まってるもんな」
もうダメだ。
私は勢いよく立ち上がる。男の顔に恐怖の色が浮かんだ。
ぶっ殺す。
右腕が空を裂く。
男の腹部に今にもめり込まんとするその拳――を、咄嗟に左手で止めた。
「ふー……」
私はうつむき、深く息を吐く。
「な、なんだよお前……」
男は慌てて私から距離をとると、悲鳴染みた声を上げる。「今、殴ろうとしたのか? み、みんな見たか!?」
「見たよ見た、確かに見たよ! 殴ろうとしたぁ!」
「こ、この卑しい魚売り! 自分が何してるのか分かってるのか!?」
私は舌打ちをする。「だから止めただろ……」
男たちは一か所に固まり、ヒステリックに私を非難する。「出て行けよ! 今すぐ出て行けぇ!」
みんなが私を見ていた。
まるで猛獣を見るように。その顔に浮かんでいるのは恐怖と、侮蔑。今にも私が無差別に人を襲うんじゃないかってそう思っている。沈黙がはっきりと聞こえた。
どうにも我慢できなくなり、私は座席を蹴った。
「ばーか」
周囲を睨みつけると、足早にその場を離れた。
心臓が激しく脈打っている。
我ながらよく我慢したと思う。普段の私なら一人残らず殴りつけていただろう。だが、今日騒ぎを起こすのだけはまずい。私はちゃんと時と場合を考えられる人間なんだ。アイツとは違う。
壁に背中をつけ、天井を見上げる。
「はあ……」
寒い。
私は腕をさする。
寒い、寒い。
水の音が聞こえる。
誘っているんだ。
ゴポ……ゴポ……。
何が悔しいかと言えば、彼らの言葉に何一つとして偽りはないことだ。
私が劇団をやめなくてはならなくなったその原因は、私の母にある。
ゴポ……ゴポ……ゴポ……。
ミラ役をめぐって劇団がごたごたしていた頃。
突然、母は劇団を襲撃した。
理由は分からない。ただ、母はひどく酒に酔っていたという話だった。裏口から侵入すると、手あたりしだいに物を殴って破壊した。団員たちは必死で止めたが、無駄だった。すぐに教戒師がやってきたが、その前に母は逃げ去った。私が駆けつけた時には、ただゴミの山だけが残されていた。
団員たちは引きつった笑顔で私を迎えた。
こんなの大したことじゃないさ、と団長は今にも自殺しそうな顔で私の頭を撫でてくれた。時間はまだある……大丈夫さ……。
頭が真っ白になった。
何よりも辛かったのは、みんなが私に見せまいとする悲しみがあまりにも大きかったこと。そして、怒りと憎しみも。
体が燃えていると本当に思った。
溢れ出る感情の抑え方を私は知らなかった。いても立ってもいられなくなり、すぐさま家に帰った。とにかく悔しくて、悔しくて、たまらなかった。あらゆる人や物にぶつかっても止まらなかったので、家に着いた頃にはいくつもの怪我が体中にあった。家に母の姿はなかった。家でなければ。私は酒場へと向かった。
馬鹿笑いだけが聞こえていた。酒場は何やら盛り上がっているようだ。みんなが母を囲い、大声で喚きながら酒を飲んでいた。何がそんなに面白いんだろう?
私の姿を見て、おっさんたちは大声で笑った。道を開け、私を母のもとに通した。
「おい、ババ! チビが来たぞ!」
「あぁ?」
酒樽を抱え、上機嫌の母の姿が目に入った。
「何してんだよ、お前……」
荒い息をしながら私が言うと、母は煩わし気に私を見た。
「なんだぁてめえ。何しに来やがった。失せやがれ」
そう言うや、酒を口に含むと、勢いよく私に噴きかけた。土砂降りのような笑い声が頭上から降り注いだ。
その瞬間、私の頭は真っ白になった。
気がつけば、血まみれの母が床に転がっていた。床も、壁も、私の拳も血に染まっていた。おっさんたちは顔を青くして私を見ていた。誰も止める者はいない。もはやその場には私と母しかいなかった。
「ククク……」、母は口から血を飛ばしながら、笑っていた。「壊してやるよ……全部な。次は……あのガキを殺してやらぁ……アテナつったかぁ……?」
私は顔面に拳を振り下ろす。母の頭は床にめり込んだが、しかしその目は私から離れなかった。
「なんで……あんなことしたの?」
「ハハハ……もう……劇なんてできねえだろ……ざまぁみろ」
「みんなが何をしたっていうの? 私に……何の恨みがあるの? どうして私の邪魔ばかり――」
「その気持ち悪い喋り方やめろっ!」
母はグッと顔を近づけて来る。「あのガキとつるむようになってからだ。情けねえったらありゃしねえ。てめえ、俺たちを馬鹿にしてんだろ!」
「何を言って……」
「お前はよぉ、魚売りだ。貴族になんかなれねえんだぞ」
「そんなこと……分かってる……!」
「ククク……貴族たちとつるめばよ……ここから出ていけるとでも思ってたんだろ」
「そうだよ。お前みたいになりたくないから……私は――」
「無駄なんだよ。お前はどこにも行けねえ……。一生この外画で俺たちと暮らすんだ……」
「黙れよ……!」
「教えてやるよ、クソガキ。お前は幸せにはなれねえよ……! お前は俺の娘なんだからな……! ははっ残念だったなぁ……! 幸せになんかなれるわけがねえんだよ……!」
「なんで……そんなこと言うんだよ……」
体が震える。全身から血の気が引いた。
「クククク……ハハハハハ……」
母はばたりと床に倒れ、狂ったように笑い出す。
「ふざけんな……!」
私は母の首を掴み、顔を寄せる。「それが分かってたんなら……最初から産むなクソ女! 何で俺を産んだんだよ! 幸せになれないって分かってたのに!!」
私の動揺を見逃す母ではなかった。
素早く上体を起こして私を跳ねのけると、壊れた椅子の残骸か何かで頭を殴りつけた。血飛沫がバッと散る。一瞬くらりとしたが、次の動きは私の方が早かった。肩からぶつかると、再び床に押し倒す。そのまま、残骸を奪い取り、母の頭を殴りつけた。何度も、何度も。
「死ね! 死ねッ!」
「やめろ、シュナ!」
背後から数人に羽交い絞めされる。振りほどくと、さらに多くの腕に掴まれた。
「離せよ、殺してやる……殺してやる……!」
「その前に俺が殺してやるよ……」
いつの間にか、母は立ち上がっていた。頭から血をだらだらと流し、殺意しかない目で私を睨んでいる。どこにそんな力が残っていたのか、母は盛大に暴れ回った。もはや誰も彼女を止められなかった。頭に強烈な一撃を受け、足がふらついてしまう。母は近くのおっさんを手当たり次第にぶん投げて来た。おっさんたちを避け、壁をぶち破って外に飛び出すと、私は水路に飛び込んだ。
「覚えてろ、クソガキがぁ! 次に会った時がお前の最後だ! 絶対にぶっ殺してやるからなぁぁあああッ!」
耳に残った母の怒声は、その後、何日も消えてくれなかった。
それ以来、家には帰っていない。もう半年も前の話だ。
嫌なことを思い出してしまった。
震える手で顔を覆う。
劇団が無事に再興出来て良かったと心から思う。
あんな真似をした馬鹿の娘を、団員たちはまだ仲間として受け入れてくれる。
だからこそ、辛かった。少しぐらい罵声を浴びせてくれた方が、私もすっきりする。一人ずつ好きなだけ殴ってくれたら、もっとしっかりとみんなの目を見ることができるのに。
痛い……。
どうして……こんなに……。
痛い……。
痛いよ……。
マジでめっちゃ痛い……!
足が……。
足が尋常じゃなく痛いッ!
たまらず、私は近くの長椅子に座り、痛む場所を確認する。脛が赤くなっていた。さっき座席を蹴ったからだ。何で? そういえば、結構本気で蹴ったのに座席が吹っ飛ばなかった。こんなこと、今までなかった。ヒビいっちゃった? こんな馬鹿な……。
今日は本当に何かおかしい。上手く泳げなかったり、すぐに足がつってしまったり……アテナに力負けしてしまったり。こんなの私じゃない。別の人の体みたいに上手く動かせない。
限界なのかもしれない。
私の肉体も、心も……。
膝を抱える。
まもなく劇が始まる。でも、私はここから動けない……。客席とロビーを仕切る扉がやけに分厚く見える。
ゴポ……ゴポ……ゴポ……。




