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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
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劇団を辞めなくてはならなかった理由

 私は客席を二階に上がり、用意してもらった席へと向かう。いつもは関係者用のボックス席なのだけど、この客入りじゃ仕方ない。平土間の立ち見を含め、観客席は既に満席だった。


 入口の真上にある貴賓席に王女様たちはいた。慎ましく座席に座りながらも、期待に顔を輝かせている。興奮した面持ちで隣に座る貧相な子にしきりに話しかけていたが、その体格差から脅しているようにしか見えない。見た目からでは信じられないが、彼女は観劇が趣味なのだそうだ。武闘大会の方が絶対に向いていると思う。


「なんだ~? なんか臭くないか~?」


 突然、近くの貴族の一人が言った。

 私はクンクンと辺りを嗅いでみる。何も臭わんけど。


「おい見ろよ、魚売りがいるぜ」


「ど~りで生臭いと思ったよ」


「おいおい、誰も魚なんて頼んじゃぁいないよなぁ?」


 ああ、そういうことか。

 顔が強張る。


「おい、魚売り」


 貴族の一人がわざわざ私のところまで来た。「無視するなよ。この場にお前以外の魚売りがいるか?」


 男はポンポンと私の頭に手を置く。


 こいつらは私に問題を起こさせて、この場から追い出すきっかけを作ろうとしている。こんな見え見えの手に引っ掛かるな。しょせんはボックス席にも入れない程度の奴ら、アテナがふっと息を吹くだけで消し飛んじゃう雑魚野郎ども。今この場では顔を覚えるだけに留めて、後ほど一人ずつ個別に潰して湖に沈めるのが良し。


「お前の母親ってさ、死体運びやってんだろ?」


 サアッと顔から血の気が失せるのが自分で分かった。 


「聞いたぞぉ、劇団で暴れた奴がいるって。死体運びの女ってもっぱらの噂だ。それで思ったんだけどさ、お前が劇団追い出されたのもその頃じゃなかったか?」


 男の仲間たちは笑い始める。


 そんなこと、もう誰でも知っている。何も特別なことじゃない、何も。馬鹿。この馬鹿。


「まあ、お前には同情するよ。あんな女か男かも分からない奴の子に産まれたんじゃ、ろくな人間にならないことは決まってるもんな」



 もうダメだ。


 私は勢いよく立ち上がる。男の顔に恐怖の色が浮かんだ。



 ぶっ殺す。



 右腕が空を裂く。

 男の腹部に今にもめり込まんとするその拳――を、咄嗟に左手で止めた。


「ふー……」


 私はうつむき、深く息を吐く。


「な、なんだよお前……」

 男は慌てて私から距離をとると、悲鳴染みた声を上げる。「今、殴ろうとしたのか? み、みんな見たか!?」


「見たよ見た、確かに見たよ! 殴ろうとしたぁ!」


「こ、この卑しい魚売り! 自分が何してるのか分かってるのか!?」


 私は舌打ちをする。「だから止めただろ……」


 男たちは一か所に固まり、ヒステリックに私を非難する。「出て行けよ! 今すぐ出て行けぇ!」


 みんなが私を見ていた。

 まるで猛獣を見るように。その顔に浮かんでいるのは恐怖と、侮蔑。今にも私が無差別に人を襲うんじゃないかってそう思っている。沈黙がはっきりと聞こえた。


 どうにも我慢できなくなり、私は座席を蹴った。


「ばーか」


 周囲を睨みつけると、足早にその場を離れた。



 心臓が激しく脈打っている。

 我ながらよく我慢したと思う。普段の私なら一人残らず殴りつけていただろう。だが、今日騒ぎを起こすのだけはまずい。私はちゃんと時と場合を考えられる人間なんだ。アイツとは違う。


 壁に背中をつけ、天井を見上げる。


「はあ……」


 寒い。


 私は腕をさする。


 寒い、寒い。


 水の音が聞こえる。

 誘っているんだ。


 ゴポ……ゴポ……。


 何が悔しいかと言えば、彼らの言葉に何一つとして偽りはないことだ。


 私が劇団をやめなくてはならなくなったその原因は、私の母にある。


 ゴポ……ゴポ……ゴポ……。





 ミラ役をめぐって劇団がごたごたしていた頃。

 突然、母は劇団を襲撃した。


 理由は分からない。ただ、母はひどく酒に酔っていたという話だった。裏口から侵入すると、手あたりしだいに物を殴って破壊した。団員たちは必死で止めたが、無駄だった。すぐに教戒師がやってきたが、その前に母は逃げ去った。私が駆けつけた時には、ただゴミの山だけが残されていた。


 団員たちは引きつった笑顔で私を迎えた。

 こんなの大したことじゃないさ、と団長は今にも自殺しそうな顔で私の頭を撫でてくれた。時間はまだある……大丈夫さ……。


 頭が真っ白になった。

 何よりも辛かったのは、みんなが私に見せまいとする悲しみがあまりにも大きかったこと。そして、怒りと憎しみも。


 体が燃えていると本当に思った。


 溢れ出る感情の抑え方を私は知らなかった。いても立ってもいられなくなり、すぐさま家に帰った。とにかく悔しくて、悔しくて、たまらなかった。あらゆる人や物にぶつかっても止まらなかったので、家に着いた頃にはいくつもの怪我が体中にあった。家に母の姿はなかった。家でなければ。私は酒場へと向かった。


 馬鹿笑いだけが聞こえていた。酒場は何やら盛り上がっているようだ。みんなが母を囲い、大声で喚きながら酒を飲んでいた。何がそんなに面白いんだろう?


 私の姿を見て、おっさんたちは大声で笑った。道を開け、私を母のもとに通した。


「おい、ババ! チビが来たぞ!」


「あぁ?」


 酒樽を抱え、上機嫌の母の姿が目に入った。


「何してんだよ、お前……」


 荒い息をしながら私が言うと、母は煩わし気に私を見た。


「なんだぁてめえ。何しに来やがった。失せやがれ」


 そう言うや、酒を口に含むと、勢いよく私に噴きかけた。土砂降りのような笑い声が頭上から降り注いだ。


 その瞬間、私の頭は真っ白になった。



 気がつけば、血まみれの母が床に転がっていた。床も、壁も、私の拳も血に染まっていた。おっさんたちは顔を青くして私を見ていた。誰も止める者はいない。もはやその場には私と母しかいなかった。


「ククク……」、母は口から血を飛ばしながら、笑っていた。「壊してやるよ……全部な。次は……あのガキを殺してやらぁ……アテナつったかぁ……?」


 私は顔面に拳を振り下ろす。母の頭は床にめり込んだが、しかしその目は私から離れなかった。


「なんで……あんなことしたの?」


「ハハハ……もう……劇なんてできねえだろ……ざまぁみろ」


「みんなが何をしたっていうの? 私に……何の恨みがあるの? どうして私の邪魔ばかり――」


「その気持ち悪い喋り方やめろっ!」


 母はグッと顔を近づけて来る。「あのガキとつるむようになってからだ。情けねえったらありゃしねえ。てめえ、俺たちを馬鹿にしてんだろ!」


「何を言って……」


「お前はよぉ、魚売りだ。貴族になんかなれねえんだぞ」


「そんなこと……分かってる……!」


「ククク……貴族たちとつるめばよ……ここから出ていけるとでも思ってたんだろ」


「そうだよ。お前みたいになりたくないから……私は――」


「無駄なんだよ。お前はどこにも行けねえ……。一生この外画で俺たちと暮らすんだ……」


「黙れよ……!」


「教えてやるよ、クソガキ。お前は幸せにはなれねえよ……! お前は俺の娘なんだからな……! ははっ残念だったなぁ……! 幸せになんかなれるわけがねえんだよ……!」


「なんで……そんなこと言うんだよ……」


 体が震える。全身から血の気が引いた。


「クククク……ハハハハハ……」


 母はばたりと床に倒れ、狂ったように笑い出す。


「ふざけんな……!」


 私は母の首を掴み、顔を寄せる。「それが分かってたんなら……最初から産むなクソ女! 何で俺を産んだんだよ! 幸せになれないって分かってたのに!!」


 私の動揺を見逃す母ではなかった。

 素早く上体を起こして私を跳ねのけると、壊れた椅子の残骸か何かで頭を殴りつけた。血飛沫がバッと散る。一瞬くらりとしたが、次の動きは私の方が早かった。肩からぶつかると、再び床に押し倒す。そのまま、残骸を奪い取り、母の頭を殴りつけた。何度も、何度も。


「死ね! 死ねッ!」


「やめろ、シュナ!」


 背後から数人に羽交い絞めされる。振りほどくと、さらに多くの腕に掴まれた。


「離せよ、殺してやる……殺してやる……!」


「その前に俺が殺してやるよ……」


 いつの間にか、母は立ち上がっていた。頭から血をだらだらと流し、殺意しかない目で私を睨んでいる。どこにそんな力が残っていたのか、母は盛大に暴れ回った。もはや誰も彼女を止められなかった。頭に強烈な一撃を受け、足がふらついてしまう。母は近くのおっさんを手当たり次第にぶん投げて来た。おっさんたちを避け、壁をぶち破って外に飛び出すと、私は水路に飛び込んだ。



「覚えてろ、クソガキがぁ! 次に会った時がお前の最後だ! 絶対にぶっ殺してやるからなぁぁあああッ!」


 耳に残った母の怒声は、その後、何日も消えてくれなかった。


 それ以来、家には帰っていない。もう半年も前の話だ。



 嫌なことを思い出してしまった。


 震える手で顔を覆う。


 劇団が無事に再興出来て良かったと心から思う。

 あんな真似をした馬鹿の娘を、団員たちはまだ仲間として受け入れてくれる。


 だからこそ、辛かった。少しぐらい罵声を浴びせてくれた方が、私もすっきりする。一人ずつ好きなだけ殴ってくれたら、もっとしっかりとみんなの目を見ることができるのに。


 痛い……。


 どうして……こんなに……。

 痛い……。

 痛いよ……。

 マジでめっちゃ痛い……! 


 足が……。


 足が尋常じゃなく痛いッ!


 たまらず、私は近くの長椅子に座り、痛む場所を確認する。脛が赤くなっていた。さっき座席を蹴ったからだ。何で? そういえば、結構本気で蹴ったのに座席が吹っ飛ばなかった。こんなこと、今までなかった。ヒビいっちゃった? こんな馬鹿な……。


 今日は本当に何かおかしい。上手く泳げなかったり、すぐに足がつってしまったり……アテナに力負けしてしまったり。こんなの私じゃない。別の人の体みたいに上手く動かせない。


 限界なのかもしれない。

 私の肉体も、心も……。


 膝を抱える。


 まもなく劇が始まる。でも、私はここから動けない……。客席とロビーを仕切る扉がやけに分厚く見える。


 ゴポ……ゴポ……ゴポ……。


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