シュナが悪い
劇場へと戻ると、私たちは裏口から中に入った。
「どこに行ってたの!」
すぐに、バンダナの女の子がやって来た。
彼女はルビーの胸を突くと、「連絡してよぉ、もう本番始まるよ!」と言った。
「安心しろ。オレは本番に強い。いつも強いが、本番は特に強い」
大した自信だ。どうやら劇に出るのは本当らしい。だがゲブラー役というのは嘘だろう。その役はずいぶん前から決まっているから。
「それじゃあな」
ルビーは私の頭を撫でる。
「また会えるかな?」
劇団にいるのだから会えるに決まっているのに、何だか急に寂しくなってしまった。
「会えるさ」
ルビーは仮面を上げる。美しい顔にぼーっとしていると、私の頬にキスをした。
「ひえっ」
あまりにも驚いたものだから、思わずぶん殴ってしまった。
「役者の顔を殴るな」
ルビーは仮面をつけ直すと、足早に奥へと行ってしまった。
心臓が飛び出しそうだった。
私は胸を手で押さえ、傍の壁によりかかる。
ああ、やばい。
私、ルビーのことが大好きになっちゃったみたい……。
私の様子を見かねたのか、団長が寄って来た。
「おいどうしたシュナ。顔真っ赤だぞ。風邪か? アテナにうつすなよ」
私はぼんやりと団長を見上げる。ふっくらしたおっさんの顔を見ていると、瞬く間に興奮は冷めてしまった。チッ。
「それと、すまんシュナ。いつもの席だが急な客が入ってな……埋まっちまった。二階の端っこになっちゃうけど、いいか?」
「もちろん。観れるならどこでも大丈夫。立ち見でいいよ」
「馬鹿。良い席で観るのも勉強だ」
団長は私の頭をポンと叩く。この人の中では、私が復帰することは決定事項となっているみたい。
「フラフラしてないで、アテナを励ましてやってくれよ。いつになく緊張しているようだ」
「分かったぁ」
控室にはミラの格好をしたアテナがいた。組んだ手の上に顎を置き、小刻みに震えている。なんだか顔も青白いように見える。これはまた度胸を分けてやらねば。
「アテナ~」
近づくと、アテナは私の方は見ずに、
「どこに行ってたの」と言った。
「えへへ。とっても素敵な人に出会っちゃって。ちょっと一緒に泳いでた」
私は頭を掻いた。でへへへ。
「素敵な人?」
アテナは怪訝そうな顔をしてこちらを見た。
「うん、ルビーっていうの。新入りかな、今日の劇に出るって言ってたよ。これが恋なのかなぁ。ほら、私ってそういうのに疎いじゃん? 分かんないけど、胸がドキドキして止まらないの」
「そう……。もうすぐ本番が始まるっていうのに、私を残して……男の人と遊んでたの」
「ごめんごめん。でも、アテナは大丈夫だって私は知ってるから。きっと凄いミラになるよ。私も観てるから」
「冠は?」
「ん?」
「私の花冠はどうしたの?」
「ああ、ルビーにあげちゃった。本当にすごくよくできてたからさ、ルビーも喜んで――」
その瞬間、アテナは弾かれるように立ち上がった。私は呆気にとられて動くことができなかった。椅子が倒れ、大きな音が鳴る。その場のみんながこっちを向いた。アテナの目は泳いでいた。動揺している? そうか、怒り慣れていない子だから、どうやって怒りを表せばいいのか分からないんだ――。そう気づいたのは、頬を叩かれてからだった。
私は頬に手を当てる。痛くはなかったが、驚いた。
アテナだけは絶対に私をぶたない人だと信じていたから。
アテナは青い顔をさらに青くし、目の端にじんわりと涙を浮かべた。それでも謝ることはなく、キッと私を睨みつける。
私は自分の頬に手を当てる。
「何してんの」
自分でも不思議なくらい冷たい声が出た。
アテナはビクリと肩を揺らす。
さて、どうしよう。
一発は一発。やられたら倍にしてお返しするのが私の流儀だけれど……。大事な本番を控えている女優を殴るわけにはいかんよな……。でも舐められたままでは終われないから、とりあえず拳を丸める。
「何やってんだ!」
団員たちが慌てて割って入って来た。遅いよ。
「落ち着け、シュナ! どうしたってんだお前ら! アテナはこれから本番だぞ!」
団長は必死の顔で私を諭した。
「分かってるけどぉ……」
丸めた拳が寂しいから、とりあえず団長を殴っておいた。
「シュナが悪いのよ、シュナが……!」
消え入りそうな声でアテナは言った。
「あぁ?」
「私が……私が……こんなに……こんなに――」
「聞こえねぇよ、はっきり言えボケェ!」
「ボケェはお前だ!」
私は強引にアテナから引きはがされ、控室の外に出される。呆然と立ちすくんでいたアテナだったが、椅子に腰を下ろし、手で顔を覆った。慌てて団員たちが声をかけるのが見えた。
私は団員たちの手を振り払い、身を乗り出す。
「私、観てるからねアテナ!」と、声を張った。
「静かにしろ! もう客入れてんだぞ!」
構わず、叫んだ。「俺は観てるぞぉ馬鹿野郎!」
すぐにドアが閉まり、私は連れ出されてしまった。
そんなに怒んなくてもいいじゃんね。
「そりゃ友達なら喧嘩の一つはするだろうさ。だがよ、今する必要がどこにあるってんだ? お前ら劇団潰す気か?」
団長は顔を赤くして怒っている。
「アテナ、すごく怒ってたね。何でかなぁ」
「お前が一人で遊びに行っちまうからだろ。一緒にいてほしかったんだよ」
「うーん。じゃあ私が悪いのかな?」
「知るか、自分で考えい!」
そう言うや、団長は私の髪をぐしゃぐしゃと掻きまわす。
「とにかく、劇をしっかり見とけ。アテナの演技から目を離すな。そんで、終わった後に一番に会いに行ってやるんだ。ちゃんと褒めちぎるのを忘れるな!」
「演技がダメダメだったら?」
「お前はどんな奴だ。酷い奴か? 今そんなこと考えるんじゃねえ! 成功以外の何も想像するな! だが、もしもんときゃ死ぬ気で慰めてやれ!」
「よぉっし、分かった!」
私は顔の前で拳を合わせる。
こういう場合の団長の助言は、基本的に正しい。人のことをよく見てるから。
「客席では静かにしてろよ」
「はぁい」
団長は私の背中を押し、客席の階段へと押し込んだ。




