表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
28/148

水の中の追憶

「こんなところで泳ぐのか」


 溜まりを見ながらルビーは言った。「魔導石があるんだぞ」


「平気なの」


 私はシャツを脱ぎ捨てる。母のお古の大き過ぎるシャツを脱いでしまえば、あっという間にパンツ一丁。この方がすぐに泳ぐことができるから都合がいいのだ。人の目を気にしたこともなかった。私のようなクソガキで、嫌われ者が裸になったところで気に留めるような人間はこの聖地にはいないから。


「お先に!」


「おい――」


 ルビーが何か言う前に、私は溜まりに飛び込んだ。




 沈む。



 ただひたすらに、沈む。



 魔導石の光が遥か頭上に見える。


 湖はどこまでも私を受け入れてくれる。

 地上の世界はこんなに優しくはない。


 私はきっと、シュラメに生まれるべきだったんだ。



 ゴポ……ゴポ……。



 闇の中を孤独に泳ぎ、時折現れる馬鹿な人間たちを襲う。


 私にぴったりの生き方じゃないだろうか。

 馬鹿にされ、殴られ、魚を売るしかない今の暮らしなんかよりもずっといい。


「戻って来てよ」


 ふと、アテナの顔が頭に浮かんだ。

 今にも泣き出しそうな……美しい顔。


 アテナは私の世界を変えてくれた人。

 初めて私と友達になってくれた人。

 シュラメなんかにはもったいない、聖地の宝だ。


「劇団に戻って来てよ。私……またシュナと一緒にやりたいの」


 彼女の言葉が、頭の中に何重にもなって反響する。



 できないんだよ。



 大破した劇のセット。

 呆然とする団員たち……。

 すすり泣く声。


 猛烈な怒りは、明確な殺意へと変わる。


 熱く溶けるような血。

 汚れた血。

 シャツにべっとり付いた血が、どんなに洗っても落ちてくれなかった。

 時間が経つにつれ、色は変わった。


 鮮やかな赤から、黒ずんだ朱色へと……。



「優しい人がいいな……」


 温かな布団に沈み込み、窓の外の月を見つめながら私は言った。背後から抱き締めてくれるその腕が、無上の安心を与えてくれていた。


「別に強くなんてなくていいよ……。お金持ちじゃなくても、貴族じゃなくてもいい。いつも笑ってて……絶対に私を殴ったりしない……。おばあちゃんになってもさ……毎日私のこと好きって言ってくれるの……。子供いっぱい作って……いつまでも楽しく暮らしたい……」


 抱き締める腕に力が入った。

 私の背中に額をつけ、震えているみたいだった。



「お前なんかが幸せになれるわけがねえんだよ!」


 雷鳴のような大声が響き渡る。「俺の娘なんだからな!」




「遠くに行きたい……二人で……。誰も私たちを知らない、ずっと遠くに……」



 暗闇がまとわりついて来る。


 ああ、もういっそこのまま――。



 目を閉じようとする私の視界に、ふと何かが見えた。頭上の光から誰かが高速でやって来る。

 その人は私の身体を抱えると、一気に水面へと浮上した。



「はあ、はあ……」


 荒く息をし、地面に手を突く。世界の匂いが押し寄せて来る。

 目の前にゲブラーの仮面が落ちていた。顔を上げると、ルビーの背中が見えた。長い髪を背中で一つにまとめている。彼の本当の髪は金色だったのだ。


「まったく……何だというんだ」


 耳に入ったらしい水を抜きながら、いかにも不機嫌そうにルビーは言った。


「出会っていきなり自殺される身にもなれ」


「お、泳いでただけだよ……はあ、はあ……」


「何でもいいが……命は大切にしろ。オレの前では絶対だ」


 ルビーは振り向いて私を見た。


 木々の隙間から、陽光がこぼれ落ちて来る。

 世界に鮮やかな火が灯った。


 思わず、見惚れてしまう。

 彼の素顔があまりにも美しかったから。


 黄金の髪が光を浴び、キラキラと輝く。つり目がちの瞳は真っ赤で、華やかな生命の象徴のようだった。


 なんだかゾッとしてしまう。カッコいいとか綺麗とかそんなのを超えて……本能で理解させられる。


 この人、特別なんだ。


 まるで聖人様のよう――。


「聞いているのか」


 ルビーは固まっている私を不審そうに見つめる。


「あ、え、う、うん……」


 私は返事をすると、傍にあったシャツで体を隠した。「ごめん……なさい」


 ルビーはブラウスの首元を掴み、パタパタと動かす。いかにも不快そうだが、それなら脱いでしまえばいいのに。


「貴様はそこで大人しくしていろ」


 私の頭をポンと叩くと、ルビーは溜まりの縁に立つ。


「泳ぐの?」


「いや。魔導石を見たいだけだ」


 そう言うと、服を着たまま飛び込んだ。



 彼は、この私が驚くほどのずば抜けた水泳能力を披露した。肉体の隅々にまで意識が行き渡っているような、体の使い方を完全に理解している人の動きだ。何故だか悔しい。こうしちゃいられねえ。シャツを放り捨てると、勢いよく湖に飛び込んだ。私の泳ぎを見せてやる!


 魔導石を調べているルビーのもとへ向かうと、後ろから抱きついた。首を締めあげても、脇をこちょこちょしてみても、ルビーは動じなかった。まるで私などいないかのように石に手を当て、観察している。私よりも石と遊ぶ方が楽しいらしい。そんなわけないだろ!


 何としても私に注目させてやる。そして、私の泳ぎを見せつけてやる。


 私はあの手この手でルビーにちょっかいをかけ続けた。しかし、頬や髪を引っ張っても、両足をがっしり掴んで湖底に引きずり込もうとしてみても、ルビーは私の方を見てくれない。こちらが先に限界が来てしまう。水面に向かい、息を吸った。おかしい。いつもの私なら、もっと長く息が続くのに。どうして今日はこんなに苦しいのだろう?


 ルビーは先と変わらぬ姿勢で水中にいた。もしやエラ呼吸の人なのかと近づいてみると、ちゃんと口から泡を出していた。一つが口に入る。イケメンの息を食っちまった! 思わず動転してしまい、ガボリと大量の泡を吐いてしまう。慌てて水面に戻った。


 覚悟しろこの野郎め。私は高速でルビーに近づくと、背中に頭突きをかます。例によってルビーは意に介さない。そのまま無視していればいい。澄ました顔で魔導石を調べるフルチン野郎の完成だ。盛大に笑ってやらぁ。


 ブラウスを脱がしてやろうと、後ろから胸の閉じ紐に手をかけた。途端、ルビーは弾かれたように私の手を掴むと、一気に水面に浮上した。あらら……。


「何のつもりだ」


 ルビーはギロリと私を睨みつける。美しい顔に間近で見つめられ、思わず目を逸らしてしまう。


「だって……無視するからじゃん」


「ガキみたいなことを言うな。一人で遊んでいろ」


「ガキだもん、ばーか!」


 私はベッと舌を出すと、彼の手を振り切って逃げ出した。


 しかし。


 3ダンテもいかない内に緊急事態発生。足に異常。攣ってしまった。今日は本当におかしい。いつもの私ならこんなに早く疲労がたまることはないのに……。危うく溺れてしまいそうになる。すぐにルビーがやって来て、助けてくれた。図らずも水中で抱き合う形になってしまう。ルビーは私を抱えたまま水面に浮上した。


「ごめん……おかしいな、上手に泳げない」


 ルビーの顔をまともに見られない。


「そういう日もあるだろう」


 美しい真っ赤な瞳には、私が映っていた。このまま吸い込まれてしまいそう……。


 動悸が激しい。

 こんなこと、かつてなかったことだ。体が芯から熱くなっていくのを感じる。もしや、これが……男女間に繰り広げられるという例のアレ?


 恋愛というものに疎い私は、今まで男の人に対して好意を持つということはなかった。シュナは子供だからとみんなは言うけれど、子供でも恋くらいするはずだ。私はどこかおかしいのかなと思っていたけれど……ちゃんとそういう感情を持てる人間だと分かり、妙に安心してしまった。私もいっぱしの乙女だったのだなぁ。


 ドッキン、ドッキン。


 ここは特別な場所、他の人は来ることはない。

 二人だけの世界。

 そんなところで、私は半裸で男の人と抱き合っている……。


「痛っ! 何するんだ貴様!」


「あっ、ごめん……」


 つい、ぶん殴ってしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ