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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第二章 シュナの大火
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魚売りと貴族の娘 ― 出逢い ―

 まだ母の足が二つあった頃の話。


 母は昔から漁業ギルドに入っており、水路を巡って魚を売ることで生計を立てていた。私もまだ言葉も話せない頃から母を手伝い、魚を売っていた。私たちに回って来る魚はあまり上等なものではないため、主に外画を中心に商売をしている。しかし貧乏人相手ではあまり売れ行きも良くなく、どうしても売り切りたい時などは内画へと入っていた。


 ギルドは売人を管理しており、魚の種類も値段も決定権は彼らにある。質のいい魚や、多くの量を取り扱いたいと思ったら、調査週間と呼ばれる期間に目覚ましい功績をあげるしかない。その期間の売人たちは罪を犯してからが勝負と言わんばかりにがらりと豹変してしまう。


 その日も調査週間であり、母は朝から気合が入っていた。善良な市民を脅して無理矢理買わせる、その家族を紹介させて無理矢理買わせる、さらにその知人を紹介させて……などして順調に売り上げていたが、昼になる頃にはすっかり飽きていた。私に全部売り尽くすまで家に帰って来るなと言い、自分はさっさとギャンブルをしに出かけてしまった。


 健気な私は一人で商売を続けた。まだ幼かった私には都市の区画もあまり頭に入っておらず、気がつけば内画を越えて最奥画にまで来てしまっていた。幼いながらにも街の雰囲気が変わってしまったことには気づいた。人々の冷たい視線を不思議に思っていると、男の人に舟を停められた。ウィンストン家の浮島に入り込んでいたのだ。


 彼は駆士ランナーだった。王に忠誠を誓い、力を尽くすのが騎士なら、駆士とはその貴族版。主人の貴族のために剣を振るう。傭兵と違うのは社会的地位が高いことと、桁外れに強いこと。


 駆士は私に即刻この浮島から出て行くようにと警告した。物腰の柔らかな男で、人の良さそうな笑みを浮かべていた。今にして思えば、優しい奴だったのかもしれない……が。当時の私はとにかく人に指図されることが嫌いで、何より魚を全部売ってしまわなければ母に怒られてしまうこともあり、彼を無視することにした。駆士から笑顔が消えた。私は賄賂代わりの魚を投げた。駆士は怒った。舟ごと私を沈めようとするほどに。


 助け舟を出してくれたのが、アテナだった。


 駆士の足元に何か小さいのがいるなぁとは思っていたが、その小さいのがおもむろに言葉を発すると、強いはずの駆士はすっかり恐縮してしまった。そのまま小さいのに命じられるがまま、駆士は屋敷へと帰って行った。


 私がポカンとしていると、アテナは「こっちに来て」と路地を歩いて私を誘導した。言われるままに舟を動かし、角を曲がって細い水路に入る。左手には、生垣がはるか奥まで続いていた。小さな橋があったので、その下で舟を停めた。


「ここで待っていて」


 そう言うと、アテナは屋敷に帰って行った。


 大人しく待っていると、しばらくして生垣の間からアテナが現れた。私は舟を橋から出し、彼女と相対する。


 アテナは橋の上から私を見下ろし、「聞いてもいいかしら」と言った。


「あなた、外画の子でしょう? 外画の子はみんなそんな話し方をするの? お洋服も私とはずいぶん違うのね」


 蔑みというよりは単純に興味があったが故の質問のようだった。


 しかし当時の私は、貴族とは私たち平民が恐れる存在で、つまりはとても強い奴らなのだと思っていた。一見可愛らしいアテナも、実はとても怖い人に違いない……と。駆士とのやり取りを見たばかりではなおさらだ。


 だから、


「あぁ? うっせーな、話しかけてんじゃねーよ馬鹿が。お前誰だよ、ぶっ殺すぞ」


 とりあえず、威嚇をしてみた。


 効果はてき面。アテナはビクリと肩を震わせ、明らかに怯えた様子を見せた。なんだ貴族の子も大したことないな、と当時の私は思った。


「ど、どうしてそんなことを言うの……?」


 アテナは精一杯の虚勢を張った。「わ、私が助けてあげなきゃ、あなたは湖の底にし、沈んでいたのよ。そ、そ、そんな言い方しなくてもいいでしょう……!」


「ぶん殴られてーのかクソがよ。さっさとどっか行っちまえ」


 アテナは呆然と私を見る。まるで違う生き物を見るようだった。当然だ。ウィンストン家の娘として大切に育てられた彼女に、そんな口を利く無礼者はいなかっただろうから。


「あ、あなたなんて助けなければよかった! もう知らない! すぐに追い払ってもらうから!」


 アテナはそう言うと、屋敷に戻ろうと駆け出した。


「ハッ。お礼が欲しかったのかよ。じゃあこれやるよ」、私はむんずと魚を掴み、ぶん投げた。


「オラァ! 死ね!」


 魚はアテナの頭に命中。


「ギャッ!!」


 驚いた彼女はそのまま水路に落っこちた。


 アテナがバシャバシャともがく様を、私はケタケタ笑って眺めていた。

 まさか泳げない人間が存在するなんて思ってもいなかったから、きっと私に怯えて変な動きをしているのだろうと勘違いをしたのだ。私を虐めて楽しむ母やおっさんたちの気分が分かったような気がした。しかしアテナはそのまま沈んでしまい、上がって来なかった。


 あ、これは死ぬ奴だ。


 私は慌てて水路に飛び込み、アテナを救出した。


 舟に引っ張り上げ、頬をぺちぺちと叩く。

 すぐにアテナは目を覚ました。


 彼女は間髪入れずに私からできうる限り遠ざかる。しかしお尻の下の魚に驚き、飛び上がる。すると魚の入った籠にぶつかり、ひっくり返してしまった。頭の上からぼとぼと落ちて来る死んだ魚たち。アテナは号泣した。


「チッ。泣くなよ、悪かったよ」


 仕方なく、私は謝る。「俺、お前みたいなのに会ったことねえからさ、分かんなかったんだよ」


「わ、私みたいなのって?」


「泳げない雑魚野郎」


 アテナはもっと泣いた。


 彼女の声を聞きつけ、誰かがやって来る足音がした。私はアテナを舟に残し、一目散に逃げだした。



 その晩は舟を失くしたことを責められ、母に徹底的に殴られた。大聖堂の庇護魔法がなければ、私はあの夜に死んでいただろう。洗礼を受けていてよかった。酔っ払った母は手が付けられない。馬乗りで顔面がへこむほどに殴られた後、家から蹴り出されてしまった。


 私は地面に仰向けなり、満天の星空を見上げていた。指一本動かすことができなかった。鼻が折れていたので血が止まらず、口で呼吸をするたびに喉から変な音が鳴ったのを覚えている。家からはまだ物を壊す音が聞こえていた。しばらくすると、全身がお湯に浸かっている時のような、心地よい温もりに包まれた。庇護魔法により、傷が癒え始めたのだ。それと同時に、とても眠たくなっていく。


 消えゆく意識の中で私はアテナのことを思い出していた。


 あの暴れ狂っている獰猛な生き物と同じ女のはずなのに、どうしてあんなに違うのだろう? 弱っちいこともあるが、何よりも喋り方や振る舞いが全く違っていた。


 ごつごつした巨大な手ではなく、あんな柔らかそうな手が殴ってくれれば、私も母とは違う女になれるのだろうか……。


 しばらくして、騒音がしなくなった。


 母は外に出てきて私を抱き起こすと、全身の骨が折れるんじゃないかというほど力いっぱいに抱き締めた。彼女は夜空を見上げ、大声で吠えていた。泣いているのだと気づいた時、私は意識を失った。



 翌日、舟は無事に戻って来た。ウィンストン家の駆士が届けてくれたのだ。駆士は私を褒めてくれた。アテナは私のことを命の恩人だと言ってくれたそうだ。そう言うことならさっさと言えよと、母はまた私を殴った。いつか殺してやると私は誓った。


 それからしばらくして、また最奥区画を訪れる機会を得た。母と喧嘩をして舟から叩き落とされたのだ。まだ昼前だったので、思いがけず自由な時間を得ることができた。これ幸いと私は最奥区画に向かった。


 以前と同じ場所でぼんやりと待っていると、生垣がごそごそ動き、誰かが姿を現した。アテナだった。


 彼女は私に気づくと、アッと驚いた顔をした。そのまま茂みの奥に引っ込んでしまう。


「よう、この間は悪かったな。大丈夫だったかよ?」


 声をかけると、アテナはおずおずと再び茂みから顔を出した。

 小橋を渡り、いかにも恐る恐る私の傍にやって来る。


「あ、あの時は……助けてくれてありがとう」


「よせよ、もともと俺が悪いんだ。ごめんな」


「もう気にしていません」


 彼女は微笑む。「私はアテナ・ウィンストンと申します」、軽くお辞儀をした。「あなたのお名前は?」


「俺はシュナ。ただのシュナだ」


 私も真似をしてお辞儀をしてみた。アテナはフッと笑った。それから周囲を見回し、私の腕を掴むと、


「ただのシュナ、こっちに来て」



 アテナは鉄の柵に囲まれた場所まで私を連れて行くと、柵の一つを外す。それから私の手を引いて、中に案内した。


「ここは私の秘密の場所なの」


 木々に囲まれた溜まりがあった。一人になりたいとき、彼女はよくここを訪れるのだと言う。木に寄りかかって魔導石を眺めていると、不思議と心が落ち着くのだそうだ。


 しかし私にはそんな上流の楽しみ方は理解できなかった。


「へえ、泳ぐのにぴったりじゃねぇか」


 私はパッと服を脱ぎ、アテナが何か言う前に水に飛び込んだ。慌ててアテナは身を乗り出す。


「な、何してるのよ! すぐに出てきて! 魔導石があるのよ!」


「平気だって」


 私は深く潜った。水中で魔導石は妖しい光を発してはいたが、魚は普通に泳いでいたし、死骸があるわけでもないから体に影響があるとは思わなかった。私は水面から顔を出す。


「お前も来いよ。気持ちいいぜぇ」


 アテナは青い顔をする。「い、嫌……怖い……」


「そうか、お前泳げないんだったな。泳げない人間なんているんだな。アハハ、おっかしーの。ひっひっひっひっ」


「ば、馬鹿にしないで……」


 か細いアテナの抗議の声は、私が水を弾くバシャッという音でかき消された。


「俺が教えてやろっか?」


「え?」


「せっかく湖の上に住んでんだぜ? 泳がなきゃ損じゃねーか。ほら、早く来いよ。気持ちいから」


 アテナは明らかな葛藤を顔に滲ませていたが、やがてするりと服を脱いだ。震えながら足のつま先を水につける。少しずつ浸水範囲を広げていった。じれったくなった私は、彼女の手を取り、水の中に引きずり込んだ。


「やだ、やだぁ!」


 アテナはしばらくバタバタもがいていたが、私が支えていることに気づくと、次第に体を預けてくれた。肩を小刻みに震わせて、頬を朱に染め、恥ずかしそうにうつむく。私は彼女の手をとり、バタ足の練習をさせる。あまり運動をしていないのか、アテナは自分の体の動かし方を知らないようだった。いちいちぎこちない。これでは泳げないはずだ。


「私、疲れました。上がります……」


 アテナはすぐにへとへとになってしまい、水から上がった。しばらく下着のままで木々に覆われた空を見上げていた。気持ちいいのだろう。



「あなたのお母様のこと、知ってる。乱暴な人なんでしょう」


 ふいに、アテナは言った。


「うん。ひっでえよ」


 私は痣を指す。「いつかぶち殺してやんだ」


「あなたの喋り方や振る舞いも、きっとお母様の影響ね」


「あ? 俺、何か変か?」


「ええ。とても変わってる。怖い」


「そうかぁ?」


「そもそもね、女の子は自分を俺なんて言わないわ」


「嘘つけよ。母ちゃんは言うぜ? 母ちゃんは女の子だぞ」


「あなたのお母様は少し独特な女……の子だから……。あ、これ内緒にしてね」


 アテナは頬に手を当て、困ったように思案する。「訂正するわ。貴族の女の子は自分のことを俺なんて言わないの。私って言うのよ」


「ワタシ……」


 その時私には、アテナがとても可愛く思えた。それと同時に、自分が物を知らない、下劣極まる人間のように思えた。


「俺……お前みてえになれるかな」


 自分でも意識せずに言葉が口から漏れた。


「私みたいって?」


「その……なんつーか……雑魚――じゃねえな。可愛いっていうかさ……」


 その瞬間、アテナの顔がパッと明るくなった。


「なれるわ! そうだ、シュナが泳ぎを教えてくれるお礼に、私はあなたをもっと可愛くしてあげる!」


「俺が可愛く?」 


 思わず私は潜った。とっても馬鹿みたいって思ったから。

 しかしすぐに顔を出す。


「ひひっ。そりゃいいや」


 それ以来、私たちはこの場所で会うようになった。

 アテナは凄い子だから、すぐに上手に泳げるようになった。


 そして私は、多分ほんの少しだけ可愛くなれた。


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