湖の目と動く島と私
頭の中を空っぽにして、ただただ深みへと沈んでいく。
色濃さを増す青は、既に闇と見紛うほどになっていた。
頭上から差し込む光も今ではもう微かな明度を残すのみ。
時折上下すら分からなくなる時もある。
心の凪に風が吹けば、たちまちパニックに陥ってしまうだろう。
湖底の闇はゆらゆらと私を取り囲む。
この闇のさらに深くには死者たちの国があるそうだ。この聖地では死者は湖に沈めてしまう。だからこそそのような伝説が生まれたのだろうが、案外本当かもしれない。こうしていると、時折誰かの気配を感じることがあるからだ。暗い闇の中から、何かが私を見つめている。こっちへ来いと言っているように。手を差し伸べれば、即座に引きずり込まれるだろう――。
ゴポ……ゴポ……。
その時だった。
闇の中で、何か大きなものが揺らめいた。水の塊に私の身体が弾かれる。
目の前を、巨大な物が通り過ぎる。
薄らと目のようなものが見えた。
肌や脳、血に至るまで、全てが急速に冷たくなっていく。
全身で感じる。
そして否応なく理解する。
死ぬんだ。
不思議と、怖くはなかった。当たり前のことだから。だって私は、自分からここにやって来て――。
「――大好きだよ」
誰かの声が聞こえた。そんな気がした。
瞬間。
私はカッと目を見開く。
全身に力が漲る。
くるりと回って上を向くと、勢いよく水を掻いた。
体が上手く動かない。冷たい血が巡っているせいだ。いつもより上がるのに時間がかかる。もがくように水を裂き、一直線に天からの光を目指した。意識が途切れかけたその時、頭が何かを突き破るのを感じた。
「ぷー」
目が覚めるような鮮やかな青が私を迎えてくれた。温かな血が全身を巡るのを実感する。そのまま水面に浮かび、ぷかぷか揺れながら空を眺めていた。波の立つままに、風の吹くままに、私は流れる。最高の気分だった。
何か、耳がジーンとすることに気がついた。おや? 鐘の音だった。いつから鳴っていたのだろう? こんなにうるさいのに、今初めて気づくとは。
この鳴らし方は……。
周囲を見回して、舟を探す。少し離れたところに、私の舟は浮かんでいた。急いで近づくと、這い上がる。
やっぱり。
浮島が動いていた。
それはとても雄大な光景だった。
音もなく、ゆっくりと都市が切り離され、湖の方へと移動していく。大きな舟のように。
都市はさらに分かれていき、配置を変えていく。上から見ればどう動いているのかよく分かるのだろうが、横からではさっぱりだ。大きく動かすのは中画という話だから、外画の島々はスペースを開けるだけの小さな移動なのだろうけど、それでもやっぱり巨大な物が動いているのは見ていてとても面白い。私が何人いれば同じことができるかな? 百人? 千人? もっと? そんな数の私をわざわざ用意しなくても大丈夫なわけだから、魔法ってすごい。
浮島の移動なんて別に珍しいことじゃない。都市は頻繁に姿を変える。昨日あった家が今日は無くなっているなんてしょっちゅうだ。それが外から来た人には嬉しいらしい。外の街は、家が移動したりしないそうだから。今、この聖地には王女様が来ているが、彼女もきっと大喜びしているに違いない。
まあ、住んでる人からしたら面倒くさいだけなんだけど。
急がなきゃ。
本当は移動が始まる前に戻るつもりだった。島が動いている間は、都市に帰ることは禁止されているのだ。そのくせ、一度動き出すとしばらくは止まってくれない。文句の一つも言いたいが、事前に通達されている以上誰も取り合ってくれないだろう。幸い、動き始めたのは東側からで、西側は微動だにしていない。今の内に帰らなきゃ。
私は舟を動かし、急いで都市へと向かった。
キラリと水中で何か光った。水の中をうかがうと、アラサの群れが水面近くを仲良く泳いでいた。それを追っていくと、広がっているのは青い平原。どこまでも平和だった。さっきまでいた冷たい世界が嘘のようだ。
でも、確かに見た。私を見つめる大きな目玉を。見間違いなんかじゃない。
「境目があるんだよ。暗闇がまとわりついて来るような、そんな場所があるんだ。そっから下はよぅ、人が入っていい場所じゃねえ」
昔、母が言っていたことを思い出す。
彼女が言うには、その層が人間とシュラメの世界の境目なのだという。
「このままずっと下まで潜ってみようと思った。そうしたらさ、誰かが見てんだ、こっちを。目の前にいたよ。大きな目玉がさ、こっちを見てた……」
シュラメは湖に棲む最大の生物だ。
ギラギラとした獰猛な牙、ぎょろりとした大きな目玉が特徴で、蛇のように長い体を持っている。大きいものでは6ダンテにもなり、子供でも3ダンテを越えるそうだ。しかし水面近くにはめったに姿を見せることはなく、湖底近くの闇の中に蔓延っている。まるで何かを護っているかのように。この聖地では、シュラメは死者の国の護衛であると言い伝えられてきた。あれが本当にシュラメだったのだとすると……私は限りなく死者たちに近づいたのだろう。
この湖の下には、人を食べる化物がいる。そんなことも知らずに、私たちはこの都市で暮らしているんだ。死者を湖に沈めるしきたりは、奴らへの貢物のためなのだろうか? 知らず、櫂を握る腕に力がこもった。
「お前もいつか行っちまうんだろうなぁ。んでもって、やっぱり喰われちまうんだろうなぁ」
耳元で、母の言葉が聞こえた。
彼女は魅せられていた。広大な湖に。獰猛なシュラメに。深い闇の向こう側に。
困ったことに、今は私がそうなのだった。




