大人の役割
私たちは都市に戻って来た。
「元気出た?」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
私は深々と頭を下げる。「私、もう大丈夫です。たとえどんなに辛くても、母のことを、そしてジャンヌ様のことを思い出して頑張ります!」
「そんなキミが好きだよ」
ジャンヌ様は優しく微笑み、私の頭を撫でてくれた。
絶対に忘れない。
ジャンヌ様のこの笑顔。
あの花畑。
帰りに湖面に浮かべた私の花冠……死者の国のお母様へと届くようにと、そんな稚拙な願いさえもが何だかとても素晴らしいことのように思えた。
今までだったらきっと、こんな風には思えなかったはずだ。私はもう、私じゃなくなった。ジャンヌ様が私を変えてくれたんだ。
「さ、それじゃこれを一緒に殿下に届けよう!」
腕に下げたバスケットを見て、ジャンヌ様は言った。
「私も一緒でいいんですか……?」
「いいのいいの、キミのおかげなんだから! まったく、キミは何といい子だろうかダリアちゃん!」
ジャンヌ様は私を抱きかかえると、わしゃわしゃと髪を撫でた。この人、私のこと大型の犬か何かと思ってるんじゃ……でも、えへへ。
教戒師の横を素通りし、私たちは大聖堂へと通ずる橋を渡る。未だ市民の立ち入りは禁じられていたから、変な気分だった。特別な聖行事を見ることができるとしたら、これ以上光栄なことはない。
しかし期待に膨らんだ私の胸は、すぐにしぼむことになった。
大聖堂の入り口には、コーデリア様が立っていた。
「ダリア」
胃の中にドスンと重いものが落ちたような気がした。
ブルブルと体がどうしようもなく震え始める。
条件反射のようなものだ。この人を見ると、もう止まらない。思わず、ジャンヌ様の腕にしがみついてしまった。
ジャンヌ様は私の肩を抱き、自分に引き寄せると、コーデリア様を真っすぐに見据えた。
「これはこれは巫女さん。こんなところにいていいの? まだ儀式の真っ最中じゃないのかな?」
「心配には及びません。聖行事は滞りなく行われています」と、コーデリア様は言った。
「ハッ、そう。でもこっちは滞ってたんだけど。アンタが用意したベニタエクサのせいで本当、いい迷惑よ」
そう言うと、ジャンヌ様はバスケットの中を見せる。「これが本物のハネズヒソウよ。覚えておいた方がいいわよ。殿下、本当に怒ってたから。この子がアンタの尻ぬぐいに協力してくれたのよ。感謝しなさい」
ジャンヌ様は私の肩に手を置いた。
そんな怒らせるような言い方しなくても……。コーデリア様の一瞥を受け、私は慌てて足元へと目を向ける。
「ええ、存じておりますわ。ダリア、ご苦労でしたね」
え?
驚いて顔を上げる。
コーデリア様は口を大きく捻じ曲げ、目じりにしわを寄せ、顔を歪めるという邪悪としか言いようのない表情を浮かべていた。笑っているのだと気づくのに時間がかかった。
「屋敷での話は聞きましたよ、ダリア。暴行は問題ですが、マダム・ヘブラはお前だけに責があるわけではないと言っています。私は彼女を信じているから、お前のことも信じましょう。何より、殿下のために働くなんてとても立派ね。お前を誇らしく思います」
一定の歩幅を保ちながら近づいて来ると、私の頭を撫でた。そこに愛しみなんてものはなかった。感情のない冷めた掌に触れられ、体中の血の気が失せてしまう。
「褒めて上げなくてはね。さあ、屋敷に戻りましょう」
そう言うと、コーデリア様は私の腕を取り、ジャンヌ様から引きはがした。
「ちょい待ち、巫女さん」
コーデリア様の前に立ち塞がると、ジャンヌ様は言った。
「何か?」、口の端を捻じ曲げつつ、コーデリア様は言う。
「コーデリア・サーベンス。アタシはこの子を王都に連れて帰ることにした。その手を離してもらえるかな?」
「えっ」
私は思わず頓狂な声を上げ、ジャンヌ様を見る。彼女はウィンクをしてみせた。
「仰っている意味が良く分かりません」と、コーデリア様。
「そのまんまの意味だけど。この子はアタシが引き取る。王都で従士として育てるの」
「それはできない相談です。私はこの子の母親と約束しました。きっと立派に育ててみせると」
「アタシもアンタに約束するわ。ダリアはアタシが立派に育ててみせる。あとさ、勘違いしてるみたいだから言うけど、これは相談じゃないわ。もう決まったの。さあ、分かったらその子から離れなさい。借金があるってんなら払うわよ。マスターが」
「おかしな方ですね」
やれやれと、コーデリア様は首を振る。「何と言われましてもダリアは私の使用人です。手放すつもりはありません。この子の人生を考えても私の屋敷で働くのが最善だと思います」
「この子はそうは思っていないみたいだけど」
ジャンヌ様は私に視線を送り、またコーデリア様へと戻す。赤い瞳がキラリと光った。
「今日、この子はアタシの前で号泣したの。一体どれだけ辛い目に遭わせてきたの? 子供を庇護して愛しむのが大人の役割でしょ? アンタはその役割を放棄したのよ。使用人とかご主人とか関係ないから。アンタじゃダリアを庇護することも愛することもできない。だからアタシが代わりにする。まだ何か文句ある? あるなら殴るけど」
コーデリア様はゆっくりと視線を下ろし、私を見る。
「ダリア、お前は私と一緒に屋敷に戻る。そうだな?」
その濁った瞳には欠片の温もりもなかった。
「わ、私……私は……」
大きく息を吸う。「私は、この人と……ジャンヌ様と――」
その時、ゴツンと鈍い音が周囲に響いた。
驚いて見ると、いつの間にか背後にひげもじゃの大男が立っていた。そして、ジャンヌ様が頭を押さえてうずくまっているではないか。
「本当にお前は……目を離すと問題ばかり起こしやがって……」
怒気を滲ませた低い声でシューレイヒム卿は言った。
「痛ったぁ……ちょっと、今そんな説教受けてる場合じゃないの!」と、焦った様子のジャンヌ様。
「従騎士が弟子をとるだぁ? 何考えてんだお前は」
「アタシはすぐに騎士になるわよ!」
「なってから言え。人様の問題に首を突っ込むな。お前が勝手に連れ去っちまうから、コーデリア殿がどんなにこの子を案じていたか」
「騙されてんのよ! アタシの方が案じてるって!」
「それでは我々は失礼いたします」
私の腕を掴み、コーデリア様は言った。
「弟子が迷惑をおかけした。申し訳ない」
シューレイヒム卿は深々と頭を下げた。「お前も謝れ、馬鹿野郎」と、力づくでジャンヌ様の頭を下げさせる。
「アタシは悪くないっての! この単純馬鹿! ヒゲ親父、人の話聞け!」
「来い。今日という今日は勘弁ならん」
「ちょ、ちょっと待ってってばぁ――」
ジャンヌ様はそのまま引きずられ、連れて行かれてしまった。
二人を見送ると、コーデリア様はくるりと振り返る。私の頭の花冠を引きちぎると、放り捨てた。
「来い」
従うしかなかった。




