不思議な都市と少女たち ―シュナ―
今日は面白いことばかり起こるなあ。死んだ魚を売るだけの、退屈な人生が嘘みたいだ。今日が終わった後、私はどうなっているのだろう? 明日の私は、また死んだ魚を売っているのだろうか?
そこはこれまで見たことないほど不思議な場所だった。一つの区画が、めちゃくちゃに入り組んだ巨大な建造物の群れみたいだった。こんなもの、本当に人間に造れるのだろうか。造れるからこそ今私がいるのだというつまんない正論は置いておき、誰かの手によるのなら、そいつの頭をかち割って中を見てみたいね。きっと、ヤバすぎる脳みそが挨拶してくれるだろうな。
時々、人のいる部屋に行き当たった。中では顔を布で覆った人たちが何らかの作業に没頭していた。物凄い集中力なのか、彼らは私たちに気づいていないようだった。声をかけても小突いても何の反応もない。覆いをはぎ取ると、現れるのは顔を白く塗ったおじいちゃん。最初こそちょっかいをかけていたが、何も話してくれないのでその内に部屋を覗くだけで無視するようになった。
じーちゃんどもの作業は、みんな違って面白かった。魔石でできた球をひたすらに削っていたり、お人形さんの胸を開いていじいじしていたり、たくさんの四角い石の欠片を黙々と動かしていたり。要するに、ガキみたいなことしてる。いずれにしても最初に出会った宙吊りジジイが衝撃的過ぎて、あれを超えるのはなかなかに至難であると思われた。はたしてもっと面白いじーちゃんはいるのか!? 胸を躍らせながら、私たちは先に進んだ。
区画はどんどん複雑に、滅茶苦茶になって行った。多分、造ってる途中で面倒臭くなったのだろう。どこをどう歩いているのかすら分からなくなっていると、気がつけば高い所に立っていた。塔みたいな建物がずっと奥まで続いていて、その間を渡り廊下が繋いでいる。都市間に大きな谷ができていて、身を乗り出して底を見ても、地面を確認することはできなかった。ふと、視界の端で何か動く気配があった。またあの現れたり消えたりする二人組かとそちらを向くと、確かに二人組だけれど、もっと見知った顔だった。ルージュとアテナだった。
「ありゃ?」
いつの間にか私たちははぐれていた。ダリアもびっくりしたようで、後ろを振り返って二人がいないことを確認していた。
「おーい!」
呼びかけると、ルージュは目を丸くして、「どこ歩いてるのよ!」と声を上げた。お前がな。
「そっち行くから待ってて!」
私の隣でダリアが叫んだ。
戻ろうとしたが、しかしすぐにおかしなことに気がついた。そもそも向こう側への道なんてない。渡り廊下どうしは繋がっていなかった。あの二人は一体どうやってあっち側にいったんだろう?
すると、ダリアが床へと目を向ける。この辺りの床だけ、お洒落な模様があった。改めて見ると、なるほど奇妙だ。手当たり次第に模様の上に乗ると、身体が浮いた感覚に襲われた。
「何か……変な感じがした……」
私の腕をがっしりと掴み、ダリアが言った。
「うん。今、変だった」
私はキョロキョロと辺りを見回す。同じような景色だから一見分かり辛いが、私たちは先ほどまでとは別の場所にいた。
「転移する床なんだ!」と、ダリアが驚嘆の声を上げる。
「なぁるほど、あの二人はこれを踏んで違う廊下に飛ばされちゃったってことかぁ」
「でも、あの二人いないよ。あの二人が踏んだのとは違う床を踏んじゃったのかも」
私は一度模様から下り、再度踏んでみる。しかし、何も起きなかった。
「戻れないね」
「ねーえ!」
すると、遠くの方からルージュの声がした。声の方を見ると、視界の先の、はるか上の方でルージュが手を振っているのが見えた。
「何してるのよ! どうしてそんなところにいるの!? 今どうやったの!?」
「参ったなぁ」
私は頭を掻く。
「転移床は踏まないでおこうよ。どうせどこに飛ばされちゃうか分からないし……。このまま進んだ方が安全な気がする」
「そうだね」
私は大声でルージュに現状を説明した。ルージュは腕で大きな丸を作り、理解したことを示した。アテナと一緒にいるようだったが、しかし彼女は廊下のずっと先に進んでおり、ルージュのことを待つつもりは一切ないらしかった。ルージュは慌てて駆け出し、アテナを全力で追いかけていた。
「合流できるかなぁ」
私はポリポリと髪を掻いた。
「うーん……」
ダリアはキョロキョロと辺りを見回す。「また転移床を踏まなければ……大丈夫なんじゃないかな。ここは見通し悪くないし、あの二人の場所は把握できているし。向こうを注意さえしてれば、どこかで合流できるよ」
「そうだね。じゃあとにかく移動しよっか」
私たちは床に注意しながら、渡り廊下を進んだ。でも、言ったそばから転移床を踏んで、それも三回も踏んで、あっという間に二人を見失ってしまった。参ったね。
とりあえず合流は諦め、早くこの塔地帯を抜けて、見晴らしのいい場所を探すことにした。私たちまで離れ離れになっては困るため、しっかりと互いに手を握り合った。
「大丈夫かな、あの二人……」
ダリアは目を凝らして遠くを眺めながら言った。
「平気じゃないの? 仲直りしたんだし」
「仲直り……したのかな?」
私たちはお互い、さっき起きた出来事を思い返していた。
「アテナは気に入らなかったらちゃんと言う奴だよ。何も言わなかったんだから大丈夫だって」
「というか、もしも誰かに襲われたりしたら……あの二人じゃ……」
「まあ何とかなるって」
ダリアほど、私は心配してはいなかった。ここは変な場所だけれど、特に私たちに危害を加える奴はいないみたいだ。何より、アテナは賢い子だから、彼女と一緒なら大抵のことは大丈夫だろう。それでもダリアは心配で仕方が無いらしい。彼女の痩せた体では、これ以上の不安を耐えることができないかもしれない。
私はダリアの髪をわしゃわしゃとかき乱す。
「こんなわけわからない場所さまよってるのに人の心配なんてさぁ、ずいぶん余裕じゃ~ん?」、ダリアの肩に腕を回し、引き寄せた。「怖くないの~キミぃ?」
「それは怖いけど……」
「けど?」
「シュナがいるから。ちょっと……安心してる」
「おお? 嬉しいこと言ってくれるじゃん!」
ダリアは顔を背けてしまった。でも、真っ赤な耳から彼女の表情は分かっちゃう。
「――ねえ、教えてよ。誰に言えばよかったの?」
ダリアにそう言われたとき、返す言葉を思いつかなかった。
私とアテナも、コーデリアとその使用人の話を聞いた時、コーデリアは悪くないと思っていたから。
ダリアは誰も味方のいない中で、本当に死んだ方が楽だと思えるような苦痛の日々を送っていたんだ。それがどんなに辛いのかはよく知っている。誰かに同情の言葉をもらったところで、大して心には響かないということも。私もまた、暴力と一緒に育って来たから。
物心つく前から、母やギルドのおっさんたちは何かあると私を殴った。何もなくても殴った。本当に殺されそうになったことも一度や二度のことではない。いつも顔が腫れていたり、痣だらけだったりしたものだから、私が自分の顔をちゃんと見ることができたのは大きくなってからだった。
多分、最初は怖かったんだと思う。だって子供だもん。泣き喚いたかもしれないし、やめてと頼んだかもしれない。今じゃ、憶えてすらいないけど。慣れちゃったから。慣れるしかなかったから。ある程度のことは諦めてしまわないと生きていけない。私が育った外区画では、そういうのが当たり前だったから。怖いなんて言っている暇はないんだ。
でも、ダリアはそうじゃない。愛されて育った子なんだ。人から殴られたことだってなかっただろう。そんな子が、どうしてこんな酷い目に遭わないといけないのだろう。耐えられるわけがないのに。コーデリアはどうしてダリアを虐待した? 弱そうだから? 逆らえない子だと分かっていたから? 卑怯な奴だ。やるなら私にやってみればよかったのに。
聖地が美しいのは日に当たっている面だけだ。暗い影の中には、暴力にまみれた醜い世界が広がっている。私も、ダリアも、日の光から外れた場所にいた。何とか明るい場所に出られても、影は一度入った者を逃がさない。何度だって連れ戻される。そのたびに絶望する。心がすり減るのを感じる。それが辛いから、死を選ぶことも選択の一つには違いない。
それでも、ダリアはこうして私と向き合っている。生きることを諦めなかったんだ。それがとにかく嬉しかった。
「そのぐりぐりするのやめてよ」
横腹に当てた私の拳をとって、ダリアは言った。「お肉が無いから骨に当たって痛いの」
「そっか、ごめん」
代わりに、頬をちょいちょいと突いてみる。
「人に触れてなきゃ死んじゃう人なの?」
「そうなのかも~」
耳たぶをいじっていると、ペチンと手を叩かれた。
「悪い手ね」
「ひひっ」
とりあえず笑っておき、彼女から離れた。
ダリアにある種のシンパシーを感じる自分がいることに、驚いた。大人たちからの理不尽な暴力を、誰かと共有したいと思っていたのだろうか? アテナは私を別の世界に導いてくれたけれど、彼女と私とではやっぱり住む世界が違い過ぎて分かり合えない部分がある。その部分はあまりにも醜いものだから、私は絶対にアテナに見られないように隠していた。どんなに怪我をしても頭から血を流しても、アテナの前ではいつもニコニコ笑っているようにしていた。そういうのに、もう疲れていたのかもしれない。
いずれにしても、こんなことでもなければダリアと仲良くなる機会なんてなかったはずだ。湖の上には三十万もの人間がいるけれど、ほとんどの人たちとは交わることなく一生を終える。本来なら、私たちもお互いに知らないままだったのだろう。一体誰が私たちをここに連れて来たのかは知らないが、それだけは感謝しておこう。ぶん殴るけど。
そんなことを考えている内に、塔ゾーンから出てしまった。またもや複雑な迷宮をさまようことになったけど、足元に注意を払わないで済む分、気が楽だった。でも、すぐに違和感に気づいた。今までの道とは少し毛色が違う。何というか……全体的に冷たい空気が流れている感じがする。イヤなことが起きる前にはいつもこんな空気が漂っている。心なしか周囲を警戒しながら進んでいると、左右に鉄格子のある通路に出た。
「何だろ、これ?」
私とダリアは隣り合って鉄格子を握り、その向こう側を眺めた。すると、ずっと奥の方から、何かが全力でこっちに走って来るのが見えた。
「犬……?」
それは獰猛な唸り声を上げていた。一匹や二匹ではない。もっとたくさん。
「……じゃない。犬じゃないッ!」
そう、犬じゃない。魚みたいだった。牙のびっしりと生えた口を大きく開けて、私たちめがけて突進してくる。
ガシャン!
獣の大群は全力で鉄格子にぶつかった。第一陣の後は第二陣。そして第三陣……。後から後から格子にぶつかって来る。こいつら馬鹿?
大きな口にギラギラした牙、そして長い胴体は一見するとシュラメのようだった。でも、ヒレの代わりに大きな前足が生えていた。
「うわっ、何だこいつら! 手があるぞ! 陸シュラメだ! 面白ぇ!」
私は興奮してしまった。鉄格子の隙間から手を入れてみると、陸シュラメたちは噛みついて来た。あわやのところで引き抜き、残念でした。ケラケラ笑う私を、血相を変えたダリアが引っ張った。
「は、早く行こう! 食べられちゃうよ!」
「アハハ! 待ってよもう少しだけ!」
もう一度腕を突っ込もうとしたけど、「やめてッ!」とダリアが叫び声を上げたので、引っ込めた。
「ほら、行こ!」
ダリアに腕を引かれ、私たちは足早にそこから離れた。
後ろから、何重にも重なった陸シュラメの唸り声が追いかけて来る。あまりにもうるさかったものだから、それはいつまでも耳に残った。耳の中に小さな魚どもが居座っているみたいだった。
「アハハ、あんなの初めて見たよ! 陸にもシュラメがいたんだねぇ!」
「シュラメって、湖の魚だよね? 見たことあるの?」
「うん、見たよ! すっごいでっかいの! 私とアテナさ、食われかけちゃったんだから!」
「食われって――え、そうなの!?」
ダリアは目を丸くした。
そして、私たちは嫌な空気の元凶に辿り着いた。
目の前に、半円形の巨大な建物があった。これまで見たどの建物よりも大きい。まるで劇場みたいだ。周囲は崖のようになっていて、建物の側面にくっついた巨大な管が崖を伝って下まで続いている。明らかに、他の建物とは違っていた。
「何だと思う? 劇場かな?」
「何か……よくない場所みたい……」
そう言って、ダリアは私の腕を両手でギュッと握り締める。雑巾じゃないぞ。「誰かがいるんじゃない? この都市の偉い人とか……」
「親玉か!」
ならば殴るべし。
ダリアを半ば引きずるように、私は進む。その建物には、ドアも窓もなかった。壁を突き破ってやろうと殴りつけてみると、壁はとても硬く、壊れたのは私の拳の方だった。
「痛ぁッ! ふざけんな、何だこの壁! 痛ったああああッ! 大聖堂と同じくらい硬いッ!」
「大聖堂を殴ったことあるんだ……」
ダリアはドン引きしていた。
「くそー、壁からはダメか。入り口探そっか」
「順序が逆だよ……」
キョロキョロと辺りを探してみるが、しかしやはり入り口なんてどこにもなかった。
「多分、魔法を使うんじゃないかな。どこかに魔法陣があるんだよ」と、ダリアは目を凝らして壁を見る。
「じゃあ魔石が無いと無理かぁ」
私がガックリと肩を落としていると、
「あ、待って! あそこ!」と、ダリアが壁を指差した。
彼女の指の先で、壁の一部が浮き上がっていた。すると、壁が動き出し、外に向かってせり出して来た。一ヵ所だけじゃない。周囲を見回すと、半円の他の部分でも同じように壁の一部が飛び出していた。やがて動きを止めると、上の方から煙が放出された。力仕事の後にふーっと息を吐くみたいな感じで。しばらくすると、突き出た壁はまた元に戻り始めた。
「閉まっちゃう! 急げ!」
私は傍で呆けているダリアを担ぎ上げると、そのまま駆け出した。壁が完全に閉まり切る前に、中に入ることができた。
さーて。今度はどんなふざけたジジイがいるんだ? と、内心期待していたのに、予想に反してそこにいたのはジジイじゃなかった。というか、誰もいなかった。
そこは、かなり広い空間だった。天井から光が差していたが、遠くを限定的に照らしているのが確認できるだけで、私たちの周りは暗かった。灯石のついた装置で、一定の時間が経つと、円運動で動くみたいだった。足元にはたくさんの管が走っていて、躓かなくては前に進むことはできなかった。暗闇の中でも、丘がたくさんあって、たくさんの突起が生えているのが確認できる。突起はそれぞれ天井から垂れる管と繋がっていた。
私は丘の一つへと近づく。触感的には、さっき殴った壁と同じ素材のようだった。硬く、冷たい。私は天井から垂れる管を避けながら、てっぺんを目指した。突起を掴みながら進めるので、簡単だった。
「ちょっと、危ないよ……! キャッ!」
ダリアは私を追いかけながら、床の管ですっ転ぶ。無事登頂を果たすと、突起の一つに手を触れた。
「んー?」
近くで見ると、どうやら容器であるらしかった。でも暗すぎて中に何があるのかは分からない。
「灯石持ってない?」、床の管につまづきながら進むダリアに声をかけると、「持ってなーい」と、つまずきながら答えてくれた。
「だよねぇ」
その時、ちょうど天井から差していた光が動いて、私の周辺を照らした。
ぎょろりとした目玉とご対面。
「おおっ!」
容器の中にいたのは、頭が異様に大きな細い魚だった。液体の中にぷかぷか浮かび、ジッと私のことを見ていた。手をひらひらと振ってみると、しっかりと追いかけている。周囲の容器にも、似たような生き物が浮かんでいた。そのほとんどが出来損ないみたいだった。尾が二股に分かれていたり、顔が二つあったり……。まるで意図的にそういう風にされたみたいに。進化の過程のような彼らは、容器の向こうからジッと私を睨んでいた。
「何だろ、ここ? 研究所か何かなのかな」
丘の下のダリアを見ると、口をパクパクとさせて丘を指さしていた。
「どしたの?」
私は彼女の隣へと飛び降り、指さす方を見た。
部屋にいくつかある丘の正体は、水槽だった。内部を覗けるポイントがあり、そこで巨大な生物が身をくゆらせていた。
「シュラメだ!」
「え、これが?」
湖で見たものよりははるかに小さいが、それでも私たちよりはうんと大きかった。
「シュラメを造ってる……?」
「ここ怖いよ……。早く行こ!」
天井の光はまた違うポイントへと移行し、私たちの周囲は真っ暗になった。でも、丘の上に登った時に進むべき方向は確認していた。
「こっち」
私はダリアの腕を引っ張る。「向こうに通路があったんだ」
足元に気をつけながら、私たちは部屋の奥へと向かう。すぐにアーチ状の通路に行き着いた。通路は足元に筋のように光が走っていたから、迷うことなく進むことができた。でも、まるで誘導されているような、そんな嫌な感じもあった。
「何だったの、さっきの。何か、凄いのを見ちゃったような……」と、ダリア。「シュラメは人の造った生き物なの?」
「湖に元々いた生き物じゃなかったってことなのかなぁ」
「人が生物を造るなんて、そんなの聞いたことないよ……」
「ちょっと怖いよね~」
「とっても怖いよ!」
通路は色々な部屋に通じていた。部屋の中には待ちに待ったじいちゃんがいた。やっぱり何らかの作業に没頭していたけれど、さっきまでの子供の遊びとは違い、実験的なことをしているみたいだった。楽しみにできないくらい、キモい。キモい奴らはあっち行け。
中でもダリアが一番ショックを受けていたのは、巨大なシュラメを解体している部屋だった。じいちゃんたちは黙々とシュラメの内臓を切り分けていた。食うのかな?
通路を先まで行くと、大きな吹き抜けのある空間に出た。例によって部屋は暗かったが、部屋の真ん中に何か巨大な物があるのが分かった。「それ」を中心に、周囲に柱が立ち並び、管によって接続されている。
「何かでかいね~! 何だろこれ!」
ワクワクする私に対し、ダリアは明らかにげんなりして、元気がなかった。
「もういいよ……。もうここ出たい……」
「まあ待ってよ。最後にこれだけ見てこうよ!」
先ほどから、壁の一部が定期的に外へと飛び出していたから、いつでも出て行くことは可能なのは分かっていた。外に飛び出る壁は内側には灯石がついていて、それが動き始める前に明滅するのですぐに判別できた。
ちょうど、壁が動き出した。でも、この部屋は床に接した壁ではなく、吹き抜けの壁が開くようだった。頭上からいくつもの光が下りてきて、「それ」を照らした。
一見、巨大な岩みたいだった。でも、違う。岩でも魔石でもないその塊は、生き物の皮膚のようにも思えた。冷たく光って、時々、呼吸をしているみたいに震えた。それの表面には魔法陣が刻まれている。柱にも、そしてこの部屋全体がびっしりと魔法陣で埋め尽くされていた。それは異界とも思える異様な空間だったけれど、私もダリアもそんなことはどうでもよかった。私たちには分かっていた。「それ」は、多分、生きている。
上の方に、人間の目を模したような穴が二つ開いていた。そして中央部分には筋があった。縦に裂けた唇みたいだ。私がそこに向かっても、ダリアは止めることはなかった。彼女は呆然と立ちすくんでいたから。その筋の周辺だけ、ぶよぶよと柔らかい感触がした。そして、生暖かかった。筋を両手で押し広げると、通り抜けられるくらいの隙間が生まれた。体を入れると、まるで沈み込むような感覚があった。肉の塊に包み込まれるみたいな……。でも、すぐに内側に入ることができた。
中には小さな部屋があった。部屋全体が赤く脈動している。もう疑いようもなかった。生き物の一部なんだ。甘い匂いがする。頭がくらくらとした。良くない匂いだ。
「はあ……はあ……」
息が苦しかった。この部屋の空気がそうさせるんじゃない。私には分かっていた。見たくないものがそこにある。見ちゃダメなんだ。でも、見ないわけにはいかなかった。部屋の壁に、いくつもの巨大な繭みたいなものがくっついていた。
「はあ……はあ……」
その一つをのぞき込む。繭ではなく、濁った膜みたいなもので覆われているのが分かった。その中に、裸の女の人がいた。顔がしわだらけだったので、ばあちゃんかと思った。でもよく見ると、たくさんの傷のせいでそう見えるのだということが分かった。
「うう……ああ……」
知らず、呻き声が漏れた。私は他の繭を見る。全ての繭に女の人がいた。そして、そのほとんどの人たちはお腹が大きかった。食べ過ぎとかそんなんじゃない。いるんだ。お腹の中に……。
「何だよ、これ……」
部屋が震えて、立っていられなくなった。いや、違う。震えているのは私だ。耳の中で、何かが聞こえた。産声みたいな――。
「何だよこれぇえええええええッ!!!」
誰かが叫んだ。
その声が自分の口から出ていることに、私は気がつかなかった。




