不思議な都市と少女たち ― ダリア ―
突然のことでよく分からないけれど、私たちは亡者になったそうだ。
だからこそ、今こうして死者の国を歩いているんだ。鼓動もない胸の中を占めるのは、恐怖と不安そしてほんのちょっとの期待だった。ここが本当に死者の国なら、お母様もどこかにいるのかもしれない。
アテナ・ウィンストンを筆頭に私たちは都市を進んだ。彼女は私たちのことなんて忘れてしまったかのように、一人で黙々と進んで行く。その歩みには少しの迷いも恐れも感じられなかった。ここを知っているかのように。どこか超然としたところのある人だったけれど、死者の国の住人か何かじゃないだろうか。
もはや豆粒みたいになってしまったウィンストンだったが、唐突に立ち止まった。目を凝らしてみると、何やら人の姿らしきものが見えた。「誰かいる!」、私はルージュと顔を見合わせ、全力疾走で駆け寄った。
ウィンストンとシュナが見つめる先――通りの真ん中を、一人の少女が歩いていた。確固とした歩みには死の気配なんてどこにもない。白金の髪をした少女だった。
「あっ!」
隣で、ルージュが声を上げた。「シルヴィアさん! どうしてここに!?」
すると、シルヴィアと呼ばれた少女は踵を返し、歩き去ってしまった。
「待って――」
私たちの見ている前で、みるみるその姿が薄くなり——消えた。
「え? どこ行ったの!?」
「いなくなった! 突然!」
「忽然と! 私見てた!」
「亡者だぁあああッ!」
「いやぁああああッ!」
騒ぐ私たちの声のトーンが少し下がった隙を見計らい、「あの人をシルヴィアと呼んだ。どうして知っているの?」と、ウィンストンがルージュに訊ねた。
「ずっと昔に、都市で会ったの。シルヴィア・ゴールドスタイン……。一緒にあなたのお母様のお見舞いに島に行ったのよ」
私を見て、ルージュが言った。
ルージュが離れ島に? 信じられない。
「でも……前に見た時より、若かったみたい……」
「実体ではないのかもしれない」と、ウィンストンが言った。
「何でそんなことが分かるの?」と、ルージュは眉をひそめた。
「そう思っただけ」と、さらりとウィンストンは答えた。
突然、私の脇を誰かが走り抜けた。びっくりしたので、思わず隣のルージュに飛びついてしまった。二人組の、私たちと同じ歳くらいの少女だった。一人は白金の髪をしていた。手を取り合い、楽しそうに笑いながら駆けている。
「ほら、もっと急いで!」
「待ってよ、シルヴィア!」
「ちょい待ち!」
シュナが二人の前に立ち塞がった。しかし、二人はそのままシュナの体を通過する。そのまま、消えてしまった。目を丸くしたシュナは胸をペタペタと触り続けるしかなかった。
「やっぱり幻影なんだ……」
「片方はシルヴィアだった。もう一人は?」
「知らなーい。友達じゃない?」
「首から上が見えなかった……みんなは?」
「私も」
「私もぉ!」
シルヴィアの友達らしき少女、彼女の顔を見ることができなかった。不思議ではあったが、考えても仕方がないので先に進むことにした。その後も、シルヴィアの幻影は現れた。彼女は一人の時もあれば、友達と一緒の時もあった。でも、どうしても相手の顔を見ることができなかった。
それにしても本当に不思議な場所だ。人を安心させるような光ではない。冷徹な物を感じる。誰も言わないが、私たちはもう分かっていた。ここは都市なんかではない。こんなところ、人が住めるはずがないんだ。
黙々と歩くウィンストン、その後ろで、シュナが私とルージュを気にかけながら歩いていた。
「サーベンスの屋敷にいたんだって?」
不意に、シュナが訊ねて来た。
「ええ」
「ちゃんと飯食わせてもらってたの? ガリガリじゃん」
「そうだね」
「コーデリア様に虐められてたって本当?」
「本当」
「最低だな。子供虐める大人は最低だよ。私も昔からよく母ちゃんに殴られてさぁ。一緒にすんなって思われるかもしんないけど……」
「一緒にしないで」
その後も、シュナはしつこく話しかけて来た。不愛想な返事は話しかけてきてほしくないという意思表示のつもりだったのだけれど……。気づいていないのかな。それとも、気づいていて無視しているのかな?
しかし、無遠慮にこちらの領域に踏み込んで来る彼女の言葉は、不思議と私の不安を和らげてくれた。屋敷にもこういう子がいたっけ。ジャンヌさんもそうだったかもしれない。粗野な振舞いをしているのに、やけに他者から好かれる人。本当は誰よりも気遣いができることを隠している、ずるい人。私とは正反対の人たちだ。
ウィンストンが平民と仲良くしているという話は聞いたことがあったが、この人のことだったのか。大聖堂の死体運びの人の娘さんで、すぐに暴力をふるう品性下劣な女の子だと最奥区画でも有名だった。ウィンストンと平民の交友関係を知り、ルージュはとても喜んでいたっけ。あの子を貴族社会から追放するのだとよく息巻いていたから。本当、思い出すたびにビンタしたくなるほどルージュはクズ野郎だった。そしてその隣にいつも張り付いていた私も、彼女に負けず劣らずの馬鹿野郎だ。
「あの……痛いんだけど、ずっと……ダリア……?」
気づいたら、握っていたルージュの手に爪を食い込ませてしまっていた。
「ご、ごめん」
私は慌てて手を放す。
すると、シュナが私の肩に肘を乗せ、明るく言った。「でもさ、王女様の家来になったんでしょ? お城で暮らせるってことじゃん! 羨ましいなぁ~!」
「へ?」
思わず、私は立ち止まった。
「どしたの?」と、シュナは小首を傾げた。
「私がルチル殿下の侍従となったこと……知ってるの?」
「話題になってたもん。島送りにされた元貴族の子が王女様のけら――ジジューになれたって」
「何、何? 何の話?」と、ルージュは私とシュナを交互に見る。
夢じゃなかった……!
私は胸に手を当てた。「ああ……」、温かい感情がいっぱいに広がり、思わずその場に膝をついてしまった。
「ちょっと、大丈夫!?」
夢じゃなかった。洗脳をされたわけでもない。私は本当に殿下の侍従になれたんだ。おかしくなったのは私じゃない。彼女たちの方だったんだ。
「どうしたの、ダリア! お腹痛くなっちゃったの?」
ルージュが屈み込んで、私の頬に手を当てた。
「嬉しいの……」
私は立ち上がると、二人に事情を説明した。ルージュは目を丸くして私を見た。
「殿下の侍従! あなたが!? 信じられない!」
「私もよ。だから、全部嘘だったって方が現実的だと思う」と、私は肩をすくめる。
「うーん、そりゃ確かに変な話だな~」
シュナは首をひねった。
「きっと、殿下たちは誰かに洗脳されているのよ」と、私は言った。
「殿下の侍従って……王城で暮らすってこと? あなたが?」
「私をこの地下都市に入れたのは、コーデリア。彼女は赤の巫女……。大聖堂が何か良くないことを企んでいるのは間違いないみたい。殿下にまで手を出すなんて、度が過ぎてるわ」
「下手すりゃ戦争になっちゃうもんね」
「戦争どころの話じゃないわッ!」
憤怒を爆発させるルージュに、私とシュナは驚いて顔を向けた。「お城で優雅な暮らしをするの? あなたが? 殿下や騎士様たちと仲良しこよしで幸せに暮らしましためでたしめでたし!? あなたが? 私は?」
「ワーミーになったんでしょ?」
「ワーミー……お城……お城……」
ルージュはブツブツと呟き始めた。心底羨ましいようで、妬み嫉み僻みの三み一体で私を睨みつけていた。無視しよ。
まだブツブツ言ってるルージュの手を引っ張って、私たちは先に進む。心なしか、彼女は牛歩戦術を取り始めたようだった。ふてくされた子供みたいに踏ん張り、のろのろとしか歩いてくれない。シュナの耳元への舌打ちにより、ようやく普通に歩き始めた。
そのまま通りを歩いていると、やがて開けた場所に出た。
「何だここ」
シュナは目を丸くする。
それは不思議な建造物だった。いや、正確には建物が集まり、互いに繋がり、一つの複雑な区画を形成しているのだ。さながらに立体的な迷路のようだった。アーチのような通路が無数に走っていたり、いたるところに突起があったりへこんでいたり、通路が互いに重なっていたり結合していたりでもうめちゃくちゃだ。細い路地の先に、区画の入り口らしき穴があった。
「人がいるのかな」
私は路地の様子をうかがう。
「アテナは行っちゃったのかな? さっきからいないけど。ちょっと見て来るよ。お前らはここで待ってて」
そう言うと、シュナは躊躇なく路地を通り、穴の中に入って行った。前から思ったが、あの人は物怖じとかしないのだろうか。むしろ人としての大事な部分が欠落していて、恐怖を感じることができないんじゃないかとさえ疑ってしまう。
……でもきっと、私に必要なのはああいう度胸なのだろうなと思う。咄嗟の場合での行動は人によって異なる。例えば驚いた時、私は思わず後ろにのけ反ってしまう。でも、シュナはきっとグッと前に一歩踏み出すだろう。それは生来の性格によるものなのかもしれないが、意識することで少しは変えられるはずだ。
よし。行ってやる。私もこの変な区画に入ってやる。悪い奴が出てきても怪物が出てきても構うものか。恐る恐る一歩足を踏み出した時、「コホン」と背後から咳払いが聞こえた。振り返ると、ルージュが壁に寄りかかって私を見ていた。
「また隠し通路があるかもよ」
私がそう言うと、ルージュは小さな悲鳴を上げて飛び跳ね、壁から離れた。それからそっと押して安全を確認すると、再び寄りかかった。髪を触って平静を装い、腕を組んで私を睨みつけた。
「どうしたの?」
「別に」
「言いたいことがあるみたいだけど」
「王都に行くなんて聞いてない」
「言う機会がなかったもの」
「あなた、本当に洗脳されているんだと思うわ。だってそうでしょう? あまりにも非現実的過ぎるもの」
「そうだね」と、私はコクリと肯く。
「何かの間違いよ。全部忘れてしまいなさい」と、ルージュはひらひらと手を振る。
私は無言で答えた。
「そうだ!」
ルージュは笑顔で手を叩くと、私のところまで来て手を握った。「あなたもワーミーになれば? 彼らはきっと歓迎してくれるわ! 一緒に魔法を習いましょう!」
きっと最高の思い付きだと思っているのだろう。垂れ目がいつもよりも垂れている。
「ルージュ……あなたもこの聖地から出て行くつもりなの?」
「へ?」
彼女はキョトンとした。
「だって、ワーミーになるってことは放浪するってことでしょう?」
「ああ……うん、そうね……」
ルージュは口に手を当て、目を泳がせる。そのことについて何も考えていなかったらしい。「この聖地から……ええ、出て……うん……え? うん……」
私はフッと微笑み、彼女の手を握る。
「私は出て行くつもり。たとえ全てが間違いだったとしても。もうこの都市にはいられないし、いたくないから」
「そんな……」
ルージュは明らかにうろたえ、私の肩に手を置いた。
「私ね、本当はジャンヌさんって人の従士になったの。ほら、あの晩餐会で私を助けてくれた人。でも彼女はまだ従騎士だから弟子がとれないんだって。だから彼女が騎士になるまで、殿下が侍従として引き取ってくれるって話だったの」
「ちょっと待って、じゃああなた……騎士になるってこと?」
「うん」、私は肯く。「私……騎士になりたいんだと思う。今までそんなこと思ってもみなかったけど……今では思う。ジャンヌさんに鍛えてもらって強くなりたい」
「あなたが……?」
「だからワーミーにはならない。たとえジャンヌさんの弟子になれなくても、他の方法を探して必ず騎士になってやる」
「無理よ、そんなの!」
ルージュは私の頬を両手で挟んだ。「あなた、自分が何を言っているのか分かってる!? ほら!」
と、私の腕を掴む。
「こんな痩せこけた腕でどうやって剣を振るえるって言うの!? それに! 騎士っていうのは本当に選ばれた人しかなれないのよ! あのシュナみたいな強い人が小っちゃな頃から鍛えて鍛えてとっても鍛えて、ようやくなれるものなんだから!」
「知ってる」
「それだけじゃない! いっぱい傷つくことになるのよ! 体だけじゃない! きっと心だって! たくさんの人たちの命を護るっていうのは、命を預かるってことなんだから! とっても辛いに決まってるわ! あなたに耐えられるの!? いいえ、耐えられるはずがないわ! 馬鹿なこと考えないで!」
「辛いことにはもう慣れてる。どんなことだって耐えてやる」
私はルージュの手を掴むと、頬から外した。
「ダリア……」
「私、分かったの。強くならなくちゃダメなんだ。強い人に踏みにじられたら、弱い人たちの声なんて本当に誰にも聞こえなくなるんだ。鐘の音がかき消してしまうの」
「鐘……?」
「私みたいに、小さな声で誰かの助けを求めている人ってたくさんいると思うんだ。そういう人たちを助けてあげたい。大丈夫だよって言ってあげたい。でも、それにはやっぱり強くならなくちゃいけないんだ。力だけじゃない。心も。権力だって必要なの。騎士は王様直属で、貴族たちなんかよりもずっと偉いんだって。だから、誰にも邪魔されずに苦しむ人たちを助けに行くことができる。そういう人になりたい。ならなくちゃいけないんだ」
本当に嬉しかったから。
スープにまみれ、冷たい目に囲まれた私にあの人が差し出してくれた手……。絶望の蔓延した地下牢に穴を開け、あの人が現れたその時。私を助けてくれたジャンヌさんの優しい笑顔は、母のものと同じく心を温もりで満たしてくれる。
あの地下牢から出た時、私は生まれ変わったんだ。もう虐められるだけの弱いダリアじゃない。ジャンヌさんがそうしてくれたように、私もまた怯える誰かに手を差し伸べてあげたい。
「でも、騎士になんてそんな……」
心配そうに私を見るルージュがおかしくて、つい笑ってしまう。
「大丈夫よ、私にはお母様がついているから。私の中のお母様が笑ってくれている限り、私もお腹の底から笑っていられるの」
ルージュは一瞬呆気にとられたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。それから頭を振る。
「やっぱり、私ってどうしようもなくダメな人間ね。ダリアが変わろうとしているのに、否定してばっかり。それに……あなたが王城で暮らすって知ってちょっぴり嫉妬しちゃった。でも、あなたの覚悟をきかされちゃったら……」
彼女は私の手をギュッと握った。「絶対に殿下たちを元に戻さなきゃね! 忘れたって言うなら私がまた思い出させてあげるわ! ダリア、私は応援するからね! この国一番の――いえ、カルムで一番の騎士になりなさい!」
「ありがとう」
「私も決めた――」
ルージュは目を輝かせ、大きな声で叫んだ。
「おい、お前ら! こっち来い!」
シュナの声に、私たちはハッと辺りを見回した。二人だけの世界に入っていて、自分たちがどんなに危険な状態にいるのか忘れてしまっていた。シュナが穴の中から私たちに手招きしていた。
「早く、早く!」
「どうしたの?」
私たちは手を取り合い、恐る恐る路地を通った。
「人がいたんだ。何か分かると思う」
そう言うと、シュナは私の腕を掴み、凄い力で穴の中に引き入れた。




