ボルドー大長老の最後
「聖別とはどういう手順で行われる?」と、ルビーが訊ねた。「発動するのは使徒なのだろう? 貴様らの役割は何だ」
「我々の仕事は改変された現実を描く魔法陣の作成だ。世界のルールを書き換え、人の役割を書き換え、社会構造を書き変える」
「ちょっと信じられないなあ」
クーバートは眼鏡を外し、くいくいと動かす。細い目をさらに細めて大長老を見た。「そんな規模の魔法となりゃ、陣はこの都市よりもずっと大きなものになるんじゃないのか?」
「それほどでもない」と、大長老は言った。
「嘘だあ。そんな緻密で複雑な魔法陣をアンタらが描けるっての? 俺が仲間たちと知恵を振り絞っても難しいと思うぜ」
「知識の継承こそが人間の最も素晴らしいところでね」
大長老は口角を上げた。
「代々残された技能があるということか」、ルビーの目に好奇の光が輝いた。
「すごいじゃないか! それだ! それをもらう!」
クーバートは見たこともないくらい興奮していた。この気持ち悪さはルカに似ている。
「その魔法陣を使い、使徒が魔法を発動するというわけか」
「そうだ」
「だが、聖別の結果を知るのは使徒のみ。貴様らにもこの世界の変化は分からない……」
「先ほども言ったように、聖別が行われたという事実は記録に残る。それはハルマテナでも同様だ」
「聖別を行うことができるのはこの聖地だけなのか? それとも、他の場所でも同様のことが行われているのか?」
「聖別とは聖人ゲブラーの聖絶魔法。聖人が二人と存在しない以上、その力は一つだけ」
「聖人とは人なのか?」
ルビーの問いに、大長老は笑みを浮かべる。「自分の眼で確かめるといい。利発な若者よ」
私は一歩前に出る。
「分からないことがある。私聖児たちは十二年前に生み出されたそうね。しかしその器である私は十一歳。私が生まれる前から、どうして計画が始まっていたの? 王家と聖地は繋がっていたわけではないのでしょう?」
「王家の血を引くものなら、誰でもよかった。それがあなたと言うだけです」
「何が言いたい?」と、ルビーは私に訊いた。
「この国には、聖別に遭った王女の話が残っているの。私のお姉様……」
私はぎゅっとスカートを掴む。「本当の器はお姉様だったのではないの? あなたたちはお姉様を知っている?」
「先も言ったように、我々に聖別の記憶は残りません。我々が姉君様を別の人間に変えてしまった可能性はありますが……そもそも最初から実在などしないのかもしれない」
私は唇を噛んだ。
お姉様の影はずっと昔から私の前にちらついている。でも、手を伸ばしたら霞のように消えてしまう。聖別の話を聞いていた時から、地下に来れば彼女のことが少しは分かると期待していたのに。結局、皆の言う通り、私にお姉様なんて最初からいなかったのだろうか。
「そろそろ時間のようです……」
顔にひびが生える。
「ルチル殿下……あなたは聖なる御血の流れる者……。あなたなら、聖剣を抜くことも可能でしょう。聖人ゲブラーの剣を手に入れ、悪しき者に裁きを……」
「何を言っているの? 聖剣はコーデリアが抜いたの。だからあなたたちは殺されたのよ」
「聖剣がどうしてコーデリアごときに抜くことができましょうか」
「……レプリカか」と、ルビーが言った。
「本物は地下にあるのか!」と、クーバートが身を乗り出した。
「聖剣ヴァーミリオンは聖地の核。都市を支える力の源……。引き抜くことができるのは、剣を封じた聖人、あるいは聖女をおいて他にいない……」
大長老の顎の部分が風化するみたいにパラパラと崩れ始める。「いや……あるいは君なら……若きアステル……」
大長老はルビーを見ていた。
「フン」と、彼は鼻を鳴らした。
「さっさと先に進もうよ。あの階段から下に行けるんだろ?」
クーバートが指差す方を見ると、確かに隅の方に地底へと続く階段があった。壁にある傷を見るに、コーデリアはあそこから下りて行ったのだ。
「私の中を通りなさい。君たちが望むのなら、さらなる深淵へと臨むことができる。コーデリア女史よりも先に到達することもできるだろう」
そう言うと、大長老は大きく口を開いた。「さあ、聖女様から」
彼の口の奥には狭い通路が見える。通路を通り、主塔を下れば使徒の元へ行けるのだろう。行けるのだろう……が。
「よし、行け聖女様」と、ルビーが私の背中を押した。
「え……いやよ」
私はその場に踏ん張り、抵抗した。
「早く行けって聖女様! 全部あの女に奪われちゃうぞ!」と、クーバートも肩からぶつかって来る。
「いや!!」
「何故だ!」
「だって、このおじいちゃんさっきからずっと気持ち悪いし……口の中入るなんて絶対いやッ!」
「それは同感だが!」と、ルビーは即答する。「こいつの中を通らなければコーデリアを出し抜くことはできん!」
「見ろよ、あの悲しそうな顔」と、クーバートがおじいちゃんを指す。
確かに、顔に増えて行くヒビの具合か、陰影の関係か、おじいちゃんは今にも泣きだしそうだ。最初からあんな顔だった気もするが。それに、死にゆく老人の想いを無下にするのは、いずれ良き女王になるはずの私がすることではないだろう。やれやれと、私は頭を振った。
「それじゃ、失礼します」
私が言うと、おじいちゃんの眉が上がった。首がさらに伸びてきて、大きく開いた口の端に手が届いた。ルビーが後ろから担ぎ上げてくれ、私はおじいちゃんの口の中に入った。
口の中はずっと暗闇が続いている。ルビーが後ろから光で照らしてくれたが、それでも奥を見通すことはできなかった。
「さっさと進め。後がつかえてる」と、背後からルビーが頭で私の背中を突いた。
「聖地をよろしくお願いします、聖女様……」
おじいちゃんの声は内で反響し、長く残った。それが消えた時、後にはもう何も聞こえなくなった。
「聖地の怪物、ボルドー大長老の最後だ」
ルビーがボソリと呟いた。
私たちは暗闇の中を四つん這いで進む。
「それにしても……コーデリアがまさかあんな虐殺をしでかすなんて……」
私が言うと、
「怖いのか?」とルビーが訊ねた。
「怖くない――と言いたいけれど……怖い」、私は素直に吐露した。
「オレもだよ」
意外にも、ルビーはそう言った。
「面倒なことになったよなぁ」
後ろから、クーバートの声が聞こえた。
「ああ、実に面倒臭い」と、ルビー。
「何のこと?」
「コーデリア・サーベンスの生み出した死体の山……普通、魔法であんな真似はできない。理性による抑制がかかるからだ。貴様の仲間の、あの爆発女がいい例だ。岩を砕くことのできるあの爆発魔法が、人体を吹っ飛ばすことはできない。オレの光だって本来なら人間の体なんて簡単に突き刺すことができるが……殴るくらいの衝撃しか与えられない。それは、オレが無意識でセーブをかけているからだ。人殺しなんてまっぴらだからな」
「つまり、普通の人の魔法では人を殺すことはできないということ?」
「そう。もしも魔法で人を殺すことができたとしたら、そいつの精神に異常が見られるという証拠だ」
コーデリアは殺人を厭わない。思えば、審問官の魔法や、彼女に操られていたワーミーたちの魔法も人体を破壊する威力だった。
「マギアトピアではさ、魔法がやばい方に変化すると監獄にぶち込まれるんだ。百年獄って言ってさ。時間の流れが違う監獄に百年間もだぜ! 俺はそんなの絶対ごめんだね。だから人は殺さないんだ」
と、相変わらず本心の分からない軽い調子でクーバートは言う。
「とにかく、あの女は危険だということだ。人を殺せる魔法使いと相対したら、こちらも相手を殺す覚悟がなければ生き残るのは難しい」
「やだなー。マギアトピアにバレなきゃいいけど」
だから面倒臭い、と。二人は殺人なんてしたくないから。でもコーデリアがそのつもりなら……きっとこの二人は禁忌を犯してでも生き残る方を選ぶのだろう。
でも、私がそんなことはさせない。王国の罪は王国の血で。彼らではなく、私……あるいは王国騎士のディオニカの手によって処されるべきだ。よそ者である彼らにそんな真似をさせるわけにはいかない。振り返ろうとしたとき、私の手が床ではなく空に触れた。ギョッとして目を凝らす。その先には巨大な吹き抜けがあった。主塔の内部に違いない。
主塔内部には様々な光が明滅していた。そして、たまに一部が動いている。生命活動をしているみたいだった。
「飛び降りろ」と、耳のすぐ後ろからルビーの声がした。
「い、嫌っ! どこかに別の道があるはず……」
「そんなものはない。飛び降りろ」
「死んじゃうでしょ!」
「聖女候補の貴様をみすみす殺すような真似をするわけがない。見たところ、歩ける場所もなさそうだ。だとすれば、飛び降りても大丈夫――なはずだ」
「何それ! 何の確証もないじゃない!」
「では試してみよう」
そう言うや、ルビーは私を突き落とした。
「ギャァアアアアアアアアアッ!!」
ひ、人殺しぃ!
私はなすすべもなく落下する。頭上で、ルビーとクーバートが飛び降りて来るのが見えた。
彼ら二人はしっかりと人を殺せる魔法使いだ!!
聖人でも聖女でもどっちでもいいから私を助けて! そしてあの二人に聖なる仕置きを! 鉄槌を!!




