地下の暗闇
私は暗闇が嫌いだ。
昔も今も未来もきっと、嫌いであり続けることをここに誓う。実際、聖地を訪れた初日、ゼムフィーラによって暗い路地に飛ばされてしまった時、私は半狂乱になってしまった。怖くて怖くて、頭がおかしくなりそうだった。もう二度とあんな目には遭いたくない。
どうしてこんなに闇が怖いのだろう――なんて、気にしたって仕方がない。私ぐらいの女の子は、だいたい暗闇が怖いものなのだ。私は最近それを知った。ダリアもルージュも暗闇は嫌いだったから。好きなのはモモくらいだろう。
こんな記憶がある。今よりもずっと幼い頃の話だ。真夜中に目を覚ました私は、自分がとてもお手洗いに行きたいことに気がついた。でも、ベッドの外は真っ暗で、とてもじゃないが出て行く勇気はない。だから、布団の中で丸まって震えていた。漏らしてもやむなし――私が覚悟を決めた時、「彼女」が私の部屋にやって来た。私よりも、少し年上の女性だった。彼女は習慣的に、毎晩自分が眠る前に私の様子を見に来てくれていたのだ。これ幸いと、私は彼女にお手洗いについて来てもらえるように頼んだ。
この記憶が、誰のものかは分からない。今、私の中にはそんな不確かな記憶が溢れている。恐らく、ルージュのものだとは思う。彼女の正体はきっとジュノーなのだろう。でも、できれば私のものであってほしいと思う。
真夜中の廊下は深い湖の底のように暗く、そして静かだった。私は彼女の手を強く握り、この世にただ二人だけになってしまったような気分で歩いていた。怯える私に、彼女は微笑む。それから、身をかがめ、私の肩に手を置いて、暗闇を指した。
「何が見える?」
窓から差し込む月明りに照らされた一角の、その奥には深い闇が続いている。何が見える? もちろん、何も見えない。でも、じっと見つめていると、何かが見えるような気がして来た。
「大きな……怪物が手招きしています……。私が来るのを待ち構えてているんです……」
そう言うと、私は身震いした。全身毛むくじゃらの、角の生えた怪物――恐らく絵物語か何かで見たのであろうそれが、本当に闇の中に立っているみたいに見えた。我慢できず、私は彼女に抱き着いた。よくぞお漏らししなかったと、心から褒めてあげたいと思う。そんな私を見て、彼女は笑った。
彼女によれば私が暗闇に怯えるのは、私の想像力が豊かだからだそうだ。目に見えない何かを、自分の頭の中で想像し、膨らませてしまうから。人間関係においても、勉学や魔法、果ては政治に至るまで、この世で生きるためには想像力とはとても大切な要素であって、絶対に持っていなければいけないものだという。今思えば、ただ闇に怯える情けない私を慰めてくれていただけなのかもしれないが、それでも彼女に肯定してもらえるのはとても勇気づけられた。頭を撫でてくれた彼女に、私は確かにこう言ったと思う。「ありがとうございます、お姉様――」
そんなことを思い出したのは、大聖堂の地下が真っ暗だったからだ。煌々と光を放っていた壁は、大聖堂が魔力を失ったことで眠ってしまったみたい。大声で叫んでも叩いても起きてはくれないだろうから、私たちはルビーに頼った。こんな時の黄色魔法。ルビーの放つ光によって、何とか周囲を見渡すことができた。しかし魔石の消耗を防ぐため、光は足元を照らす限定的なものだった。
ここに広がっているのは、ただの闇ではなかった。幾年も積み上げられた怨恨、怒り、憎悪、悲鳴……あらん限りの負の感情が滞留している。吸うと、体が内から壊されてしまいそうだ。このような場所を、私はこれまで知らなかった。そして、こんな場所が私の王国にあるという事実が許せなかった。この巡礼の旅において、私は自分が見ることのできない世界を見ることを望んでいた。でも、こんな闇は望んでいなかった。覚悟が足りないんじゃない。足りなかったのは――想像力だ。
それが悔しかったから、私は先頭に立ち、皆を先導するように進んだ。もっとも、私以外には道が分からないため、それは当然のことではあったけれど。私にはモモの記憶があるため、目をつむっても迷わずに進むことができた。
長い廊下を歩いていると、闇が一層深くなったような気がした。私は立ち止まり、振り返った。
「ここは審問部屋。審問はここで行われているの」
私の言葉を受け、ルビーは周囲を強い光で照らした。鉄の格子の奥に見えるのは、床に敷かれた聖絶技法の魔法陣。壁にかかった無数の拷問の道具……。
「ほー」
ルビーとクーバートは興味津々に眺めていた。
「思い出してもムカムカしてくるぜ」
ババが吐き捨てるように言った。「無力な人間を痛めつけやがってよ。あの小せえ奴は絶対許さん」
ひえ……覚えてたんだ……。
この人を審問した生々しい記憶は、私の中にあった。動悸が止まらない。こんなもの、早く忘れてしまいたいのに……とても不快な感覚だけがいつまでも消えてくれない。一生忘れることはできないかもしれない。
ババを痛めつけたこと。それに、ジュノーに対するあまりにも酷い仕打ち。ルビーに話すべきだとは分かっていたが、どうしてもできなかった。彼の方でも私に聞いて来ることはなかった。ジュノーのことが心配で仕方がないはずなのに、どうしてそんなに涼しい顔ができるのだろう。クーバートにしてもそうだ。こんな拷問部屋を見て、仲間たちが心配じゃないのだろうか。
ある部屋の中を通ると、見覚えがあることに気がついた。ルビーに光を当ててもらうと、壁に鎖で繋がれた、太った女性の姿があった。粗末な服を着せられ、うつむいていた。マダム・へブラだ。治癒魔法により体の傷は癒えてはいたが、はっきりと憔悴していた。
私は扉を開け、中に入る。
「大丈夫、マダム?」
声をかけると、彼女は力なく顔を上げた。
「あなた様は……」
マダムの目が見開かれる。「ルチル殿下……?」
「もう大丈夫よ。辛かったでしょう」
私は彼女を抱き締めた。マダムが何を思ったのかは分からない。安心を感じてくれたのか、張り詰めていた気が緩んだのか……。彼女は私の胸に顔を埋め、ワッと泣き出した。端から見たら奇妙な光景かも知れない。でも、私にとっては自然な行いに思えた。
「大丈夫……もう大丈夫だから」
私はそう言って、彼女の髪を撫で続けた。
ルビーへと顔を向けると、彼はコクリと肯き、他の部屋を見て回る。監禁されている人間が他にもいるかもしれない。この人たちを放ってはおけない――。
そんな私の心を読み取ったのか、「お前らは先行けよ」と、ババは言った。ずんずんと部屋の中に入って来て、マダムの鎖を拷問道具で叩き切った。「同じ酷い目に遭った同士だ。こいつら全員逃がしておくよ」
「お願いします」
私は頭を下げる。彼女は私の額に手を当て、強引に頭を上げさせた。
「よせやい。アンタが俺なんかに下げる頭はねえよ」
「でも……」
「いいから行った行った。俺の娘を頼んだぜ」
強い力で押され、私は部屋から出された。
マダムを背負い、ババも廊下に出て来る。それからルビーを見ると、「おい、優男。俺の分も下にいる奴らをボコボコにしてくれや」と言った。
「任せておけ」
ルビーがそう言うと、ババは満足げにニヤリと笑い、私たちに背を向けた。最後に思い出したようにこちらを振り返った。「そうだ。それからよ、礼言っておいてくれ。確か、グレンつったかな。俺を拷問した二人組の一人なんだが……そいつが逃がしてくれたんだ」
私はハッとして、ルビーを見る。彼は「分かった」と肯いただけだった。
「さあ、もっと地下に行くぞ。道は分かるな?」
ルビーは私の肩に手を置き、言った。
「ええ」
私はコクリと肯いた。「この先よ。長老たちの部屋に案内するわ」




