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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第五章 少女たちの聖誕祭
141/148

不思議な部屋と少女たち ―モモ—

 

 今にも沈みそうな小さな浮島にある、崩れかけた頼りない建物。そこでは毎日誰かが死んだ。食べるものもろくになく、病気が蔓延し、生きている者もそうでない者も平等に骸骨のようにやせ細っていた。そういう孤児院で僕は育った。


 僕にとって他人の死は、朝が来るとか雨が降るとかと同じくらいに当然のものだった。元気だった子があまり一緒に遊ばなくなり、寝たきりが多くなると死ぬ。咳が激しくなり、その中に血が混じり始めたら死ぬ。体のどこかに大きなコブができたら死ぬ。歯がボロボロと抜け落ち始めたら死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 僕は幼い頃からあまりにも死を見過ぎて来た。だから、隣にいた誰かが死んだところで、悲しいともいやだとも思うことができなくなった。「あいつ死んだんだな」と、胸の内で一言呟いてそれで終わりだ。人はある日突然死ぬし、それは順番で決まっていると思っていた。たまたま別の奴だっただけで、次は僕の番かもしれない。たまたま、また別の奴だった。今度こそ、僕の番だ——。

 そんな現実がいやだったから、僕はいつも影の中で膝を抱え、うつむいていた。誰とも話さなかったし、遊ぶこともなかった。多くの死体の中に紛れることで、死神なり運命なりから逃れようとしていたんだと思う。誰かの死は別に怖くはなかったが、自分が死ぬのは恐ろしくて仕方が無かった。


 そんな風に一人で震えていると。目の前で、淡紅色の髪が揺れた。

 彼女は僕の前でかがみ込み、顔を覗き込んで来た。屈託のない笑みを浮かべ、手を差し伸べて来た。魔が差したとでも言うのだろうか、僕はつい手を伸ばしてしまった。そして、僕は日の光の下に連れ出されてしまった。


 それが、彼女との出会いだった。


 


 目を開ける。

 ……誰の記憶だろう。淡紅色の髪……まるで僕——いや、アテナのようだった。僕が知らない僕の記憶だ。そういうものが、僕の中にはいっぱいある。先代——コーデリア様の記憶か、もっと前のモモの記憶か……。僕にとっての、あの人との思い出みたいだ。それも誰の記憶なのかは定かではないけれど……。


 ふと、顔を横に向ける。部屋の隅に誰かが立っていた。


「……誰だ」


 白金の髪の女だった。虚ろな赤い目ははたして僕が見えているのだろうか。生気の無い青白い顔といい、亡者のようだ。やがて、女は壁の向こうに溶けるように消えて行った。そのままぼんやりと壁を見つめていたが、二度と女が出て来ることは無かった。それは僕に今見たものは夢の名残であると納得させるには十分過ぎる時間だった。僕は大きく頭を振る。そしてようやく、現実と向き合った。


 そこは不思議な場所だった。何もない部屋は、床も壁も硬く、そしてひやりと冷たかった。部屋の隅に柱の一部が露出していた。恐らく、壁の向こうにも部屋があり、残りの部分はそこに面しているのだろう。だとすると部屋は四つに区切られており、それぞれの部屋には僕を除いて三人の人間がいるはずだ。推察するに、シュナとルージュ……と、誰か。聖女の心とされる私聖児たちだ。


 狭い部屋の内部は実に簡素だが、こちらの意思に反応し、形状を変えることが分かった。明らかに現代魔術のレベルを超越しているから、聖絶技法によるものだ。そして聖絶技法は大聖堂により管理されており、これほどの大きさのものなら聖遺物として利用されている可能性が高い。大聖堂の地下には様々な聖遺物があると聞く。長老たちのいた場所も、人を魔石に変えるあの魔法陣も、そうなのだろう。この部屋もまたその一つだとすれば、ここは大聖堂の地下で、僕は聖儀式のために聖遺物の中に入れられていると考えられる。その理由は、僕もまた聖女の心だからに他ならない。


 胸に手を当てる。

 ……なるほどな。あまり愉快なものではない。今すぐにここから出よう。


 柱に触れてみる。部屋の中において、この柱だけは変形させることができない。出入り口に当たる部分なのだろう。しばらく調べてみたが、成果は得られなかった。外に出るには何らかの条件が必要なのだ。

 壁に手を当てると、覆いが剥がれるようにして取り去られていく。思った通り、奥にも同じような部屋があり、誰かが眠っていた。僕がそうであるように、そいつも隆起した床の寝台の上に寝かせられている。近づくまでもなく、日に焼けた肌の色ですぐに分かった。シュナだ。


 さて。

 このまま放置すれば、こいつはずっと眠ったままなのだろうか。彼女の胸に手を当て、確認してみる。その可能性は高い。

 それならそれもいいかもしれない。こいつはアテナと共に頽廃に浸っていた背信者。あるいは、こいつがあの子を唆したのかもしれない。だとしたら、こいつにはそれなりの報いが必要だろう。


 ……なんてな。今の僕にはどうでもいい話だ。僕もまた、背信者なのだから。同じ者どうしでいがみ合うのは滑稽に他ならない。


 僕は寝台の端に腰を下ろし、しばらくの間シュナの顔を眺めていた。

 高い鼻梁に長いまつげ、形の良い唇と、顔立ちは意外にも整っていた。日焼けした肌と力のある眼光にまず目が行くため、瞳を閉じていなければ気づかなかった。化粧をして身なりを整えれば、アテナのように人目を惹く存在になるのかもしれない。いや、ないな。

 起こそうと思った。そうしなければ、僕は彼女のことを何も知らないままだ。アテナがどうしてこの子に惹かれたのか、どうしても知りたくなった。


「シュナ」

 僕は彼女に話しかける。「起きろ、シュナ」


 しかし、シュナが目を覚ますことはなかった。

 やがて、彼女の瞼が動き出す。何が楽しいのか、満面の笑みを浮かべた。いい夢を見ているのだろう。僕は間隔を開け、何度か呼びかけてみる。シュナの眉間が険しくなる。怒っているみたいに。駄目だ、こいつは。やっぱり放っておこうか。だが、その時、アテナならどう呼びかけるだろうかとふと思った。考えても分かるようなことではなかったが、試しに呟いてみた。


「お願い……起きて、シュナ」


「はっ」


 シュナはぱっちりと目を開けた。ぼんやりと僕を見つめ、ガバッと半身を起こした。


「アテナ……?」


 僕がアテナではないことに気づいていないようだ。

 こいつは馬鹿だ。同じ顔をしているというだけで、大切な人間の区別もつかないのだ。あんなにも純で優しい人間と、醜悪で穢れに満ちた人間が同一に見えるのだ。人を外見でしか見ていないのか。だとすると、こいつも結局はアテナの美しい容姿と、誰からも一目置かれる人望に惹かれているだけだ。アテナに群がる男たちと一体何の違いがあるというのだ? こんな馬鹿はあの子にふさわしくない。

 それ以上は話す気にもならず、僕は口を閉じた。シュナはウロウロと目障りに動き、出口を探し始める。ようやく、部屋の仕様にも気がついたらしい。愚鈍が。その後も彼女は遊び回り、嬉しそうに僕に報告してくれる。孤児院の子供たちもこんなじゃなかったかと、ふと思う。


 そうか……孤児なんだ、こいつは。あの子たちと同じだ。親の愛を知らず、未来に期待なんてしておらず、死に怯えている。孤児たちはジュリアを慕っていた。彼女を母のように、自分たちの庇護者だと信じていた。こいつにとっては、アテナがそうだったのだろう。だからこそ、僕がアテナではないことに気がつかない。気がついていても、認めない。絶対の庇護者を失いたくないからだ。

 思わず、笑みがこぼれる。自分に懐いてくれる犬は、それは愛しいだろうな。たとえ駄犬であったとしても。


 アテナの思考は理解できた。これ以上こいつとここにいる理由はない。

 この部屋に魔法がかかっていると仮定する。であれば、どこかに力を生み出す魔法陣があるはずだ。床を探ってみる。微かに反応を感じる……気がする。どこに魔法陣があるにしろ、これほど奇怪な部屋を機能させるものだ。僕に扱える類のものではないだろう。

 僕たちは生贄のようなもの。眠らされていたことを考えると、ここに肉体があることが重要なのだ。僕らは既にこの聖遺物と同化させられている。その証拠に、僕たちの心臓の鼓動は停止していた。だからこそ、部屋を自由に操ることができる。

 となれば。僕たちが力を合わせれば、より強大な結果をもたらすことができるのではないだろうか。この聖遺物の力を最大限に発揮できるような——。


「何やってんの、キミ?」

 シュナが隣に来て、訊ねた。掻い摘んで説明をする。


「すごいじゃん!」

 シュナは手を叩いた。「働かなくても生きていけるんだ!」


 単純な女だ。事の重大性をまるで理解していない。馬鹿でももう少し物を考える。


「一生二人きりってこと?」


「望めば」


「嬉しい?」


 こいつは何を言っている。誰がお前みたいな凡俗と時間を共有したいと思うのか。もう既に限界は過ぎていた。


「喜ぶかと思った」と、シュナは言った。


 それは一瞬に過ぎなかった。だが、確かに。シュナの目に微かな黒い影が浮かんだ。それを見て、僕は理解した。


 ああ、そうか。

 こいつはアテナのことが好きではないのだ。アテナに対して抱いているのは友情だけで、そこに恋愛感情が入り込む余地はない。

 では……どういうことだ? アテナが一方的に好意を向けていたのか? しかし、こいつが異性にしか好意を持てない人間なのだとすると……。


「どう思っているの?」と、僕は訊いた。


「何が?」


「あなたを好きだと言ったことに対して」


「んん……」


 一瞬、シュナの目が確かに揺らいだ。だが、すぐに腕を組み、首をひねる。おどけるように。


「そりゃ驚いたよ。正直言ってさ、ちょっと……ショックだった。ほら、関係性が変わっちゃうじゃん? だから、やだなーって。私たちはお互いに大好きなんだけど、その重さっていうか……意味が……違うから。前みたいに喋れないかもって心配だったんだ。どうしても気まずさっていうかさ、壁みたいなのができちゃうんじゃないかって」


「そう」


「ひひっ。でも大丈夫だった。いつもみたいに喋れるもん!」

 シュナは気持ちのいい笑みを浮かべる。


「そう」


 それは僕がお前に対して何も感じるものがないからだ。アテナが相手だとそうはいかないはずだ。


 それだけではないんだろう?

 お前の目に浮かんだその影……。


「いつから……気づいていたの?」


「え」


 シュナは虚を突かれたような顔をする。


「私の気持ちに、あなたは気づいていたはずよ」


「うん……。本当は気づいてた……と思う」

 伏し目になり、シュナは言う。「抱きついたりしたときの感じとか、時々私のこと見る目とか……おかしい時あったもん。でも、そんなの変だから……違うって思ってた。アテナは貴族だから、平民の私を馬鹿にしてて……そういう態度が出てるんだって思おうとしてたんだ。だって女が女を好きになるなんておかしいし……それはいけないことだってみんな言ってたし……」

 段々と声は小さくなり、最後は消え入りそうな声になる。「私も……そう思ってたし……」


 目が泳いでいる。先ほどまでの軽薄な態度はそこにはなかった。僕に自分の考えが伝わるのが怖いと、微かに震えるその肩が物語っていた。


「同性愛に嫌悪を感じるのね」


「そんなこと言ってない!!」


 途端、火が着いたようにシュナは大声を上げる。分かりやすい奴だ。


「アテナが誰を好きになったって、私は気にしない! 相手が男だって女だって、関係ない! でも……それが私だったから……」


 やはり虚勢、すぐに鎮火してしまう。シュナは今にも泣きそうな顔で僕を見る。「どうして私なの……?」


 以前と変わらない、友達のままでいてくれたらよかったのに。関係性は壊れてしまった。アテナが同性愛者で、そして自分に対して恋愛感情を持っていることをシュナは知ってしまった。今までのようにはできない。アテナの想いをないがしろにすることになる。だって、シュナは女が好きではないから。彼女が恋愛感情を持つ相手は異性だけ、それは生涯変わらない。アテナの想いが実を結ぶことは絶対にない。それが分かっているから、シュナは泣きそうな顔になっている。


「私はアテナと……友達でいたかった。でも、そのせいでアテナは死のうとしたじゃん。もう嫌だよ、あんなの。私はどうすればいいの? アテナのこと、好きになれるかなって思ったりしたよ。でも、ダメなんだよやっぱり……。アテナを好きにはなれないよ……」


 僕は何も答えず、シュナの目が涙でいっぱいになるのを黙って見ていた。


「前にも言ったよね……。たまに想像するんだ、大人になった自分。結婚して、幸せに暮らしてるの。でも、その相手は女の人じゃない。いつだって男の人なんだよ。私を絶対殴ったりしない、優しい男の人なの……」


 あふれる涙を、手の甲で拭った。


「アテナと離れたくない……本当に大好きだから……」、シュナは顔を手で覆う。「でも……アテナの想いを受け入れられない……。そんな自分が嫌いだけど、仕方ないとも思っちゃう……。だから、本当はもう友達でもいちゃいけないんだと思う……。でも嫌だよ、そんなの……嫌だ……」


 この子はアテナのことを本当に大切に思っているのだろう。だからこそ、こんなに苦しんでいる。すぐに泣くような人間でもないだろうに、涙を流している。僕の中で、シュナに対する嫌悪はなくなっていた。


 アテナはもうこの世にいない。それを言うべきだということは分かる。お前はもう苦しむ必要はない。全ては終わったことだ、と。でも、言えなかった。どうして? 何を躊躇しているのか。


 泣きじゃくるシュナを見て、分かった。 

 僕は怯えているのだ。全てを知ったシュナがどういう反応をするのか。彼女が嘆き悲しむ姿を想像し、臆しているのだ。

 おかしなことだ。こいつなんてどうでもいいと思っているのに。まるで、僕の中にアテナがいるみたいじゃないか。彼女は何もくれなかったと思っていたが、思考まで同一化してしまったのだろうか?


 アテナならこういう時、どう答えるだろうかと考える。


「ありがとう、シュナ」


 考えるまでもなかった。自然と口から言葉がこぼれる。


「シュナがそんなに悩んでくれることが、私はとても嬉しい。シュナには自分の思うままに生きてほしい。私に合わせて自分を変える必要なんてない。いつか本当に好きな人ができたら、その人と結婚してほしい。幸せに暮らしてほしい。私も私の思うままに生きる。シュナを想い続けるかもしれないし、この想いは一過性のもので、別の誰かを好きになるかもしれない。もしかしたら男の人を好きになることもあるかもしれない。大切なのは、私たちはお互いに心の底から繋がっているということ。それは友情とか、恋愛とかを超えたものだと思う。私たちはそれでいい」


 シュナはジッと僕を見つめている。それから、フッと笑った。


「私もそう思ってた」


「そう」


「アテナと出会えてよかった」


 そう言って、シュナは僕に抱き着いた。僕も彼女の背中に手を回す。もしかしたら……この子は頭のいい子なのかもしれないと、ふと思った。


 しばらくして、どちらからともなく離れる。


「もういいでしょう」

 彼女から顔を背け、僕は言う。「私は外に出たい」

 シュナは「うん」と言った。チラリと見ると、無邪気に笑っていた。


 僕たちは壁の前に二人で並び立つと、手を置いた。シュナは僕の左手をしっかりと握りしめる。すると、壁に亀裂が走り、大きな穴が開いた。その先にはまた部屋があった。そこで、二人の少女が抱き合っていた。

 ダークブロンドの長い髪の奴と、赤い髪のみすぼらしい奴。ルージュ・オブライエンとダリア・バーガンディだ。


「わっ、仲いいんだ」

 二人の痴態を目の当たりにして、シュナが声を上げる。


「頽廃がここにも」と、僕は言った。


 やれやれ。昨日までの僕なら、即座に審問していたところだぞ。


「そんなんじゃありません!」と、ルージュは否定の声を上げた。


 部屋の内部は、僕らのいた場所と大して違いはなかった。一部を壊した壁は、既に跡形もなくなっていた。四つの部屋が一つになり、広い空間となった。ここが聖遺物の中だとすると、かなり巨大には違いない。試しに、シュナと二人で外壁を壊そうとしたが、不可能だった。

 シュナが二人に現状の説明をしている間、僕は部屋を調べて回った。壁を叩いてみても、鈍い音しかしない。厚さも何も分からない。この向こうにも、まだ部屋はあるのだろうか。聖女の心が四人であることを考えると、捕まっているのは僕たちだけには違いないが……。

 

 僕はチラリとルージュの隣にいる少女を見た。ダリア・バーガンディ。奴が最後の一人だったのか。アザレア・バーガンディの娘……。特に容姿に優れているわけでも、人並み外れた能力を持っているわけではないから、私聖児だとは思ってもみなかった。だが、アザレアの娘というのが気にかかる。


 ——あなたはアザレアですか?


 あの時、僕はコーデリア様にそう訊ねた。この聖週間の中で、アザレアという女の存在がいたるところで見え隠れしている。コーデリア様はアザレアでなければならない——そんな気がした。アザレアの娘、ダリア。こいつは何か知っているのだろうか?


 まあ、それはここを出てから考える。

 一人では壊せない壁も、二人でなら壊せた。僕たちが聖遺物と同化しているのなら、一人だけでは力を完全に扱うことはできないのかもしれない。では、四人なら。きっと、もっと色々なことができるんじゃないか?

 そんなことを考えていると。


「何か分かったんでしょ?」

 シュナが僕の腕を掴んだ。ご明察。


「四人いれば、ここから出られると思う」


 僕たちは四人で手を繋ぐ。それから、頭の中の雑念を捨て、外に出ることだけを願った。

 しかし、何も変化はない。誰かが言う通りにしていないのだ。他の奴らを見ると、オブライエンだけが笑みを浮かべていた。こいつだな。注意すると、顔を赤くして睨んできた。ある程度の人間が集まれば、必ずこういうのは出て来る。協調性がなく無為に場を乱す愚か者。可及的速やかに間引くべきだが、この場においては難しい。シュナが仲裁し、場は収まった。


 僕たちはもう一度同じことを繰り返す。だが、やはり何も起きない。意味が分からない。意図を確かめようとオブライエンに訊ねるが、馬鹿は否定した。「ぶち殺すぞ小娘」と、思わず呟いた。


 すると、シュナが申し訳なさそうに手を挙げた。「ごめん、私かも……」

 おかしな話だ。つい先ほど、外に出るとあんなに声を荒げていたのに。


「出たくないって……心のどこかで思ってたかも……。だってさ……ここにいればもう嫌なこともないだろうし……」

 そう言うと、シュナは唇を噛んで僕を見る。「本当に楽しかったから……。アテナの家での暮らしがさ……。あんな風に一生暮らせるならって……ちょっと思っちゃったんだ……」


 ウィンストン家の屋敷に泊まったことでもあるのだろうか。だとすれば、平民にとって、それは楽しい思い出に違いない。二度と外に出なくてもいいと思ってしまうほどに。


 でも、ダメなんだよ。ここは母胎の中のようなもの。閉じこもっていれば、何もしないでも生きていける。でも、それではダメなんだよ。


「永遠に楽しいことなんてない。それは想像の中だけよ。苦痛の無い世界なんてものもない。それは夢の中だけ。辛いことや痛みがなければ生きているとは言えない」


 突き放すように、僕は言った。


「うん……分かってる」と、少し寂しそうにシュナは言った。そんな顔をするな。


「ごめんなさい」と、僕は言った。


 シュナは、「えっ?」と虚を突かれた顔をした。


「貴族の私にはシュナの苦痛は分からない。それなのに想像だけで知った風なことを言うのは愚かなことだった。だから、ごめんなさい」、そう言って頭を下げた。


「いや、そんなこと……」


「シュナの意思を尊重したい」

 僕は彼女の手を握る。「ここが母体の中だと仮定する。あなたは胎児。同じ人生を歩むとしても、もう一度生まれたいと思う? あの人の娘に生まれたいと思う?」


「……当たり前だよ」

 しばしの沈黙の後、シュナは言った。

 それから、自分で自分の頬を叩いた。「ごめん、もう大丈夫だから。みんなで一緒に外に出よう」


 僕が頷くと、オブライエンたちも倣った。僕たちは再び手を握る。

 シュナが本当にここに留まることを選んだら……僕はどうしただろうか。全員をこの手で眠らせ、肉体も部屋と同化させる——そういうこともできた。実際、目を覚まさなければ、僕たちはみんなそうなっていた可能性が高い。外に出ることは、僕たちにとって本当に正しいことなのだろうか?


 もちろん正しいに決まっている。だって、僕たちは世界に生まれたのだから。こんな狭い場所に留まっていていいわけがない。出るんだ、外に。


 僕たちは願った。今度こそ、全員同じ気持ちで。


 すると、部屋の光が消えた。魔法が解けたのだ。部屋一面が透明となり、魔法陣が剥き出しになった。それらが仄かな光を発しているから、先ほどまでとはいかないが、十分に周囲を見回せるほどには明るさを保っていた。

 床下は、無数の球体が詰まったおぞましい空間だった。球体にはびっしりと紋様が描かれてある。魔法珠まほうじゅだ。ワーミーたちによりカルムに伝えらえたものとされる、立体化された魔法陣だ。平面のそれよりも強大な力を扱うことができるが、その複雑性からカルムではまだ実用不可能の超魔術として研究段階にある。おびただしい珠は全て魔石でできており、隣り合う珠と連鎖的に魔力を発動させるらしい。

 こんな超魔術を扱えるほどの高い魔法知識がこの聖地にあったとは知らなかった。これも聖絶技法なのだろうが……だとすると、かつてのカルムは魔法郷マギアトピアにも引けを取らない高い魔術を有していたことになる。魔術の継承を断ったのはアギオス教だろうか? 少なくとも、この聖地では大聖堂が魔術を独占している。市民たちは魔法を取り上げられ、与えられる力に満足している。魔法があれば、彼らを支配することは実に容易いから……。


 この不思議な部屋にも納得がいった。何のことはない、この部屋全体が紫色魔法の魔法陣となっているのだ。そのため、中にいる者たちが思った通りに部屋を改変することができる。僕らのような魔法に明るくない者でも、ワーミーに劣らない力を使うことができた。魔法珠ってすごい。


「うわあ、何これ」

 オブライエンが僕の隣に立ち、興味津々に眺めていた。「一個一個に無数の魔法陣が……。そっか、こういう風にすれば巨大な陣なんて必要ないんだ……。一体どれほどの力を……。うわあ、うわあ……!」


 魔法の知識なんてない小娘が、知ったようなことを言っている。しかし、その目は明るく光り、全身が総毛だっている。まるで感動しているみたいだ。理解できているとでもいうのだろうか。そもそも脳みそがあったのか。僕が見ていることに気づくと、オブライエンは頬を染め、背中を向けた。


 柱に触れると、穴が開いた。すぐに中に入ると、他の三人も続いた。オブライエンが壁の内側の魔法陣に触れると、穴が閉まった。そして、床が下降を始める。柱の中を足場が上下する魔法が施されているのだろう。

 それなのに、三人は騒ぎ出した。僕らがここに入れられている以上、第三者の手が加わっていることは確実。だとすれば、その者たちが安全にここから出るための出口はあるはずで、決して死ぬなんてことがあるはずがない。少し考えれば分かることじゃないか。しかし、三人は騒げる時には騒げとばかりに喚き散らす。頭が痛くなってくる。


 すぐに下降は止まり、再び穴が現れた。三人は我先にと外に飛び出す。

 外は夜なのか、暗かった。眼下には都市が広がっている。湖上都市ではない。時祷書で見たものと同じだ。では、ここは……湖の下の都市——本当の聖地シュアンだ。

 僕は身を乗り出し、下を確認する。「ちょっ、何やってんの!」、シュナが慌てたように、背後から僕の腰を抱えた。僕たちがいたのは巨大な塔で、その中をあの柱が通っているらしい。途中で出てきてしまったが、あの下降する装置に乗っていれば下まで行けたのだろう。僕は振り返って柱を確認するが、穴は既に塞がっており、中に入ることはできなかった。


「どこなんだろう……ここ……」と、ダリアが不安そうに言った。


「あんな空見たことない。おかしな雲だね」と、空を指してシュナが言った。


 彼女の言う通り、空は雲一つないのに、まるで分厚い雲が垂れこめているかのようだった。よく見れば膜のようなものが張ってあるのが分かる。


「あれは湖よ」と、僕は言った。


「え?」


「魔法で水が入ってこないようになっているようだけれど……ここは湖の底で間違いない」


「それじゃ、ここが……死者の国?」


 僕を除く三人は顔を見合わせた。


「私たち、死んじゃったの?」


「心臓に手を当ててみて」


 僕がそう言うと、三人は同時に胸に手を当て、


「動いてないッ!」

「私たち、死んでる!」

「亡者だぁあああッ!」


 と、一斉に叫んだ。


 僕はスッと頭上の球体を指す。騒音がピタリとやんだ。


「私たちは恐らく、あの聖遺物と同化しているのでしょう。つまり、今はあの聖遺物が私たちの心臓の役割を果たしている……」


「そんなことができるの?」と、ダリアが信じられないといった顔で言った。


「じゃなければ私たちが生きていることの説明ができない。あの聖遺物は人間の心臓、つまりは生体活力を元にして動くものなのかもしれない……あくまでも仮定の話だけれど」


「心臓が重要なのだとすると……湖葬で心臓だけを切り取って燃やすのも……」

 思案するダリアの背中を、

「怖いこと言わないでよ!」と、ルージュが叩いた。


「この塔を中心にして管のようなものが都市に張り巡らされている。見たところ、この塔は都市にエネルギーを供給しているみたい」


「だから何なの?」と、オブライエンは生まれてこの方、物を考えたことが無いという顔で言った。


「心臓……」

 ポツリとシュナが呟く。「つまり、この塔が都市の心臓ってこと? 心臓が血を全身に供給するみたいに……」


「そう。そして、エネルギーが供給されている以上、この都市では何かが行われていると考えてもいいと思う。人間が活動するように、都市もまた活動している……」


「だから何なの?」と、オブライエンは思考を完全に棄ててしまった路傍に転がる生きた屍のような顔で訊ねた。


「都市に下りて調べる必要があるということ」


 僕はそう言うと、ある点を指す。大聖堂の鐘楼塔のように、塔の外壁には足場があった。

 一人で足場の方へと向かうと、シュナもついて来た。そのまま、壁に沿って足場を下りる。鐘楼塔とは違って手摺はなかったが、僕とシュナには関係なかった。顔を上げると、上の方にバーガンディが下りているのが見えた。しかし、オブライエンだけはいつまでも下りて来なかった。


「ねえ、待ってよ! 私、下りられない! 怖いの!」

 彼女の悲鳴が遥か上から聞こえて来た。


「置いて行きましょう」と、僕は言った。


「だね」と、シュナは肩をすくめた。


 本気で言っているんだが。僕は後ろを気にするシュナを無視して黙々と下りて行った。


「待ってよ、アテナ!」

 呼びかけて来るシュナの声も無視する。すると、背後から肩を掴まれた。「一人で先に行っちゃダメだ。あそこで待っててよ」


 シュナが指さす少し下のところに、踊り場のような場所があった。彼女は僕を放すと、階段を上がっていった。やれやれ。二人でならとっくに下りているはずなのにな。

 僕は都市の方へと目をやる。

 大きさはどのくらいなのだろう。見る限り、上の都市と同じくらいあるように見える。湖上都市で言うなら、ここはちょうど劇場がある場所くらいじゃないだろうか。そして、大聖堂がある方——ではなく、その反対。下区画辺りに、一際眩しい光を放つ大きな建造物があった。


 しばらくして、シュナたちが下りて来た。シュナはオブライエンを背負っていた。そのオブライエンはと言えば、両手でしっかりと目を覆っている。おかしいな。馬鹿は高いところが好きなはずなんだが。


 踊り場に来ると、「一旦下ろすぞー」とシュナは言った。オブライエンは恐る恐る手の覆いを外した。僕が見ていることに気づくと、キュッと唇を噛み、「下ろして!」と暴れた。そこから放り投げ、望み通り地面まで下ろしてしまえ。


「あの光ってるところ何だと思う?」

 オブライエンを下ろして、シュナは僕の隣に来て訊ねた。彼女も、遠くの建造物に気づいたらしい。


「分からない。でも、行ってみる価値はあると思う」


「同感だ」


「私が泣いてたって誰にも言わないでよ」


 オブライエンは小声でダリアにそう言うと、ほうっと息を吐き、塔に寄り掛かった。すると。壁がガバッと後ろに開き、オブライエンは飲み込まれてしまった。すぐに壁は閉まり、元通りになった。


「キャァアアアアッ!」

 壁の向こうから聞こえていたオブライエンの悲鳴は、段々と小さくなった。


「死んだ」と、僕は言った。


「違う、遠ざかってる! ルージュ!」


 ダリアはそう言うと、壁に手を当て、押し込んだ。壁が開き、スロープになっているのが見えた。ダリアは躊躇なく飛び込んだ。


「なぁるほど、滑り降りれるようになってたんだ!」


 シュナは嬉々として滑り降りた。

 途中にあった踊り場はスロープの入り口だったのか。

 だが。誰もいないなら、こんなところを通る必要はない。僕は階段から飛び降りる。塔の壁面を一気に駆け下り、地面に降り立った。


 塔の真下は、聖堂のようになっていた。アーチに四方を囲まれ、中央から塔が生えている。聖堂の内壁一面に、人間が並んでいた。真っ白な塗装をした人々だ。それぞれ小部屋に収納され、肩から上を露出させている。この塔の生贄なのだろうか。この都市が人間の生体活力をエネルギーに動くのだとしたら……彼らが動力源なのかもしれない。


 確認しようとしたところ、


「ギィヤァアアアアアア!!」


 断末魔を上げながら、オブライエンが塔から飛び出してきた。そのままゴロゴロと床を転がり、這いつくばった。目を回しながら何とか起き上がろうとしているところに、バーガンディが飛び出してきて、ぶつかった。「ギャッ!」、さらにその後にシュナが飛び出してきて、二人を吹き飛ばした。

 三人は聖堂の外まで転がって行ってしまった。いち早く起きたシュナは、慌てて虫の息の二人を助け起こしていたが、僕に気づくと驚いた顔をした。


「あれ、アテナ? どうやって下りたの? 滑ってないよね?」


「いいえ、滑った」


「嘘だぁ。あそこから出てきてないじゃん。他にも下りる方法があったの?」


 意外と視野が広い。僕はコクリと肯くと、聖堂を出る。彼女たちは聖堂内の人間たちには気づいていないようだ。気づけばまたギャーギャーと騒ぐことは火を見るよりも明らかなので、教えないことにする。本当に手が出そうになるから。


「私はあの建造物を目指す」

 僕は遠くの光源を指した。「みんなは好きにしたらいい」


 そして、一人で歩き出した。

 シュナは心配して僕を追って来るはず。そうすると、残った無力の二人も僕らに続くしかない。いちいち理由を説明し、納得させるよりもずっと早い。


「待ってよアテナ!」


 思った通り、シュナが追いかけて来た。そして後の二人も。

 構わず、僕はどんどん進んで行く。だが、すぐに立ち止まることになった。「それ」を見つけたから。間もなく、シュナとその他も追いついて来る。


「どうしたの?」と、シュナは怪訝に僕の顔を見て、僕が見ている方へと目をやった。


「あっ!」


 そこには人の姿があった。

 都市の住人らしい。湖の下にも人が住んでいたのだ。願わくば、亡者じゃなければいいな。

 

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