不思議な部屋と少女たち ― ダリア —
その日の朝、目を覚ますと天井の飾りが目に入った。埃にまみれた剥き出しの梁はどこにもない。すぐに自分が大聖堂にいることを思い出した。
さすがは聖地の中枢たる大聖堂、その迎賓のために作られたお部屋だ。サーベンスの屋敷の、使用人の寝室なんて比べ物にならない。長椅子をベッドの代わりにしていたが、このふかふか具合は尋常ではない。こんなに充実した眠りはいつ以来だろう――考えるまでもなかった。貴族でいられた時以来だ。昨夜は遅くまでお喋りしていたから、殿下はまだ夢の中にいた。早起きが習慣づいている私は、素早く身支度を整え、殿下が目をお覚ましになるのをベッドの傍で待った。
窓の桟に小鳥が止まり、またどこかに飛んでいく。のどやかな朝の時間を私は楽しんだ。屋敷ではすぐに労働だったから、こんなに穏やかな気持ちにはなれなかった。やがて、殿下の瞼が小刻みに動き出した。うっすらと目を開ける。
「おはようございます、殿下」
私は深く頭を下げた。
「おはよう、ダリア。今日もいい朝ね」
殿下がそう言ってくださるのを待った。でも。ハッと息を吸う音がした。顔を上げると、殿下はベッドの端に移動し、目を丸くして私を見ていた。
「だ、誰なの?」
「え……?」
「ここで何をしているの!?」
「えっと……」
予想外の反応に、私は困惑してしまう。
「誰か!」
殿下が声を上げると、すぐにドアが開いた。
「いかがしました――」
ディオニカさんは殿下を見て、そして私を見た。「何者だ!」
あっという間に私は腕を後ろに曲げられ、床に膝を突かされていた。
「どこから入った?」
「な、何を仰って……え? わ、分かりません……」
何が起きているのか、理解できなかった。
「朝っぱらから何の騒ぎよ」
眠い目をこすりながら、ジャンヌさんが現れた。
「ジャンヌさん!」
助けを求めて、私は声を上げた。
「ん?」
ジャンヌさんはまじまじと私を見た。「キミ、誰? 何でここにいんの?」
殿下の侍従になって三日目。大聖堂に私の居場所はなかった。殿下も、ジャンヌさんも、ディオニカさんも、私のことを覚えてさえいなかった。私は殿下の侍従ではなくなっていた。全てが夢だったかのように。私は殿下に心酔するあまり、侍従になったと思い込んでしまっている頭のおかしな子という扱いになり、部屋から連れ出されてしまった。
分かっていた。
あんな奇跡のような出来事が現実のわけがなかった。私を救ってくれる人なんているはずがなかったんだ。
分かっていた……のに。期待してしまった分、とても堪える。もう、二度と笑えなんじゃないかと思うほどに。どうせ嘘なら、初めから期待なんてさせないでほしかった。幸せになれると信じてしまったじゃないか。
私はコーデリアのもとへ連れて行かれた。憎しみを込めた目で彼女を睨みつけてやる。精一杯の反抗のつもりだった。どんな目に遭っても、お前だけには屈してやるもんかと決意を込めた。
しかし、予想に反し、コーデリアは私に暴行を加えたりはしなかった。ただ、「連れて行け」と一言だけ。影の中から何者かが現れた。その直後、私の意識は闇にのまれた。
――い。
――なさい。
誰かの……声?
――起きなさい、ダリア。
誰? 私を起こすのは……。
――起きなさい!
ああ、そうか。マダムだ……。ここはサーベンスの屋敷なんだ。目を開ければ、またあの汚い使用人部屋に私はいるんだ……。
――ちょっと、本当に起きなさいよ!
やだ。
起きたくない。ずっと寝てる。もう働きたくない。起きたって楽しいことなんて何もないんだ。もう嫌だ。ずっと寝てるもん。クビになったって構うもんか。絶対寝るんだ。あっち行って。
――起きてってば!
バチン。
「はっ」
目を開ける。
「ようやく起きたのね、寝坊助さん」
目の前に、女の子がいた。ウェーブがかったダークブロンドの髪をした子で、垂れ目の火眼を吊り上げていた。怒っているとでもいうかのように。
「……ルージュ?」
私は眉をひそめた。
何やら頬が痛い気がする。ぶったな。
「久しぶりね、ダリア」
彼女はふふんと笑い、私の眠っていたベッドに腰を下ろした。正確にはベッドではなく、台座みたいなものだ。
私はキョロキョロと周囲を見回した。ベッドの周囲には何もなく、とても簡素な空間だったが、奥の方は不自然に物がいっぱい置かれていた。誰かの部屋を切り取って運んできたみたいだ。カーペットもタペストリーも長椅子も、派手過ぎて趣味が悪いように思えるが、殺風景よりはましだろう。
正面にある壁の中心には円形の柱が通っていて、その半分だけがこちら側に露出していた。あの壁の向こう側にもここと同じような部屋があるのかもしれない。
私たちは同じ服を着ていた。赤い色の衣で、それは死者が着せられる装束に似ていた。棺の中の母も、同じものを着させられていたような気がする。縁起が悪いことこの上ない。
「ここはどこ?」と、私はルージュに訊ねる。
「私が知るわけないでしょう。あなたなら知ってるかもって期待したのに」
やれやれと、ルージュは頭を振った。
大聖堂の地下なのだろうが……こんな場所があるとは思わなかった。
「見てなさい」
ルージュはすっと手を伸ばした。「上がれ!」、すると床の一部が動き出した。
「部屋の形が変わるのよ。私たちが望む通りに」
彼女の言う通り、盛り上がった床が椅子を形成した。
「すごい……」
思わず目を丸くする私を、何故だか満足気にルージュは見ていた。彼女はベッドから下り、床椅子に腰を下ろした。
「ここは望むこと何だってできる部屋なのよ!」と、胸を張ってルージュは言った。
私もベッドから下り、壁の方へと向かう。触れてみると、感触は大聖堂と同じ石造りのようだった。穴が開くように念じてみると、ベコンと握りこぶしくらいにへこんだ。
「私は隣の部屋から来たの。本当はここに壁があって二つに区切られていたのよ」
ルージュはカーペットで区切られた部屋の境目を指した。
なるほど、この家具類はルージュが作ったものだったのか。納得。
私はもう一度壁ができるように念じてみた。でも、元の状態を知らないからか、何も起きなかった。
「あなた、何でそんなに痩せてるの? サーベンスの屋敷では召使いにご飯も与えないわけ?」
背後から、ルージュの無遠慮な声が聞こえて来た。
出口はないかと確認する。一刻も早く外の空気が吸いたかった。
「まあ、酷かったものね。想像以上よ。晩餐会であなたを見たわ。転がされていたでしょ? 私の目はごまかせないわ。いつもあんな目に遭っているの?」
そうだ、こういう時は鳥になるんだ。鳥になって自分を見下ろせば――しかし、顔を上げても、低い天井があるばかり。閉ざされた空間には日光にも入らないのに、どうして明るいんだろう。壁が光を放っているのかな?
「味方してくれる人はいないの? いないのなら自分から作らなきゃ。孤立していちゃますます立場を悪くするだけよ」
ああ、もうダメだ……。
「私に分かることと言えば……」
私はゆっくりと振り返る。「私にとって、今の状況は屋敷以上に最悪ってこと」
吐き捨てるように、そう言った。ルージュは面食らったようだった。
「はあ? どういうこと?」
「言葉通りの意味だけど」
「私と一緒にいたくないって聞こえるけど?」
「そう言ってるの」
「え……?」
「もう話しかけないでくれる? お願いだから」
ルージュは閉口した。
私の言葉は彼女にとって予想外だったようだ。ルージュはよろよろと隣の部屋に帰って行った。彼女が作っていた家具類は全て消失してしまった。代わりに、小さな部屋を作り出し、そこに膝を抱えて閉じこもった。明らかに動揺しているようだった。オドオドと私を見ては、顔を反らすのを繰り返す。
ちょうどいい。私は床にトゲトゲを作り出した。これでもうルージュはこちらに入っては来られない。私は部屋の探索を続ける。ルージュは壁を壊したと言っていたが、私の力では壊すことはできなかった。何度念じてみても、小さくへこむだけだ。もう一人いればもっと大きな穴も開くだろうけれど……。チラリと振り返ると、ルージュも私を見ていた。
「あの、さっきのことだけど……」と、おずおずとルージュは切り出した。
「話しかけないでって言ったよね」
「何で怒ってるの?」
「別に」
「私たち、友達だったでしょう? 小さな頃から一緒にいたじゃない……」
瞬く間に、怒りの炎が燃え上がった。
「何も覚えていないのね」
「な、何をよ……」
「あなたはそういう人なのよ。自覚なしに人を傷つける。人の気持ちなんて考えたこともないのよ」
「だ、だからどうして怒ってるのよ……」
明らかな困惑を隠さずに、ルージュは言った。
私はキッと睨みつける。
「私がサーベンスの使用人になった頃……偶然あなたと会ったことがあるわね。大聖堂の橋の上よ」
「え? う、うん……」
返事をしたものの、彼女の目は泳いでいた。覚えてすらいないのか。
「あの時……みんなの前で私を侮辱したでしょう。あんなのと仲良くしていたのは人生の汚点だと、そう言ったのはあなたよ」
「私が? そんな――」
否定の言葉を上げかけたけれど、すぐにその顔が青くなる。分かりやすい人。
「私、あなたのそういうところ、昔から大嫌いなの」
「な、何よ……。だったら……どうして言わなかったの?」
私は奥歯を噛みしめる。
「言えるわけないでしょう。私が標的にされたかもしれないのに。みんな、あなたの顔色ばかり窺っていたわね。あなたの機嫌を損ねないように。私もそうだった。あなたに同調して、つまらないことをさせられて……ウィンストンを無視したり、平民を馬鹿にしたり……。いい気分だったでしょうね。でもね、みんなあなたを慕っていたわけじゃないのよ。怯えていたの。あなたにじゃないわ、あなたの後ろにある物にね。みんなが見ていたのはオブライエン家よ。あなたのことなんて誰も見ていなかったんだから」
「な、何よそれ……」
「今の私は……もう怖くない。あなたの虐めなんかよりもよっぽど酷い経験をしたから」
私は自分の肩に手を当てる。ズキンと背中が痛んだ気がした。
「酷い経験……?」
「ルージュ、私はあなたが大嫌い。でも、あなたに同調するしかなかった昔の私も大嫌い。貴族のままだったら、今でも私はあなたの手下だったんでしょうね。それから解放されただけ、平民になれてよかったのかもね」
「手下……」
呆然と、うわ言のようにルージュは呟いた。「手下……?」
「そういうことよ、オブライエン家のお嬢様。平民の私とこれ以上口を利かない方が身のためですよ。あなたの品位が下がってしまいますからね」
そう言うと、私は彼女に背を向けた。
ルージュに対する恨みなんて正直に言えばどうでもよかったから、心の中をぶちまけてみてもあまりすっきりはしなかった。むしろ、不快なもやもやが残った。若干の気まずさもあったので、一刻も早くここから出たいと思う。しかし、そのためにはルージュの力を借りなくてはいけない。冷たく突き放してしまった今、少しばかりの時間が必要だ。
後ろから、すすり泣きが聞こえる。「幼馴染で……ぐす……友達だと……ぐすん」
何をブツブツと。
そうやって、また被害者ぶって。自分で自分を慰めることしかできないのよ。世界の主人公は自分だと本気で信じている人だから。だからウィンストンを毛嫌いしていたんでしょ? あなたはせいぜい彼女の嫌味なライバルに過ぎないものね。そして私はその取り巻きA。本当に嫌になる。
「あなたの言う通りよ、ダリア……」
しばらくして、消え入りそうな声が聞こえて来た。「私は最低な人間だった……かもしれない」
「だったのよ」と、私は振り返りもせずに言った。
「だった……。でも……私だって変わったの。もうあの頃の、傲慢なルージュじゃないわ!」
「へえ?」
私は振り返る。ルージュは目を赤く腫らし、小部屋の中から私を睨みつけていた。
「あなたの言う……オブライエンの権威も今では失墜してしまった。誰ももう私を特別に扱ってくれる人はいないでしょう。でも、そんなのもう必要ないの。私は誰の力でもなく、自分の力で生きて行く。あなたに言われるまでもなく、私だって昔のルージュは大嫌いなんだから!」
自分の大声に勇気をもらったのか、ルージュは小部屋から出て来ると、トゲトゲの境界ぎりぎりに立った。小部屋はゆっくりと元の床に戻った。
「私は気づいたの……自分が変えられてしまったことに。大聖堂や大人たちが、私を私でいられなくした。あなたのことや……アザレアを軽蔑するように言われた……。正しい人間になるためには、大聖堂に忠実でなければならないと教えられた……」
ルージュは手を伸ばし、トゲトゲを消そうとした。させるか。私はトゲをさらに伸ばした。絶対不可侵の宣言だ。ルージュは床に道を作ったが、即座に新たなトゲを生やした。こっちに来るな。私に関わるな。もう誰も――私に干渉するな。
ルージュは意を決したように私を見据えた。それから、後ろに下がると、全力で走って来た。トゲトゲを飛び越えるつもりなの? でも、彼女の跳躍ははたして助走の意味があったのかと首をひねるくらいささやかなものだった。このままでは串刺しになってしまう。咄嗟に、私はトゲトゲを解除した。まるでそれを見通していたように――ルージュはそのまま走り続け、勢いのままに私に飛びついてきた。私は床に押し倒されてしまった。
「でもね! 私は呪縛から解放されたの! 私にとって、本当に大切なことに気づかされた! ダリア、私はあなたやアザレアのことが大好きだった! その気持ちだけは嘘じゃない! 私が愚かだったことは否定しない! 心の底から謝罪するわ! だからお願い、私を許して! もう一度私と友達になってよ!」
そして、彼女は私に抱きついた。
「あの……」
「私を好きって言うまで離さないから!」
強引過ぎるでしょ……。そういうところよ。結局変わってないじゃない……。
でも、どうしてだろう。
彼女のこの強引さが、今ではとてもありがたく思えた。
ただの気まぐれかもしれない。先のことなんて考えていなかっただけかもしれない。それでも、この子は危険を覚悟で私のところまで来てくれた。絶対なんてあるはずがないことは分かっているのに。また、裏切られるかもしれないのに。それでも……嬉しいと思う。
ああ、そうか。
寂しかったんだ、私。
「ごめんなさい、ルージュ……。酷いことばかり言って……」
私がそう言うと、ルージュはコツンと額を合わせた。
「いいのよ。全部、本当のことだから。むしろ……ありがとう、私を嫌ってくれて。そういうダリアだから、私は好きなの」
彼女は拘束を解き、私たちは互いを支えに立ち上がった。
「私たちは友達よ。あなたが何と言おうと、幼馴染で、友達なんだから!」
「そうだね」
私はフッと微笑む。
ルージュも満面の笑みを浮かべた。
どちらかともなく、私たちは抱き合った。身を寄せると温かい感情が胸に湧く。凍り付いた体が内から溶けていくようだった。
結局私は……この子のことが好きなんだろうな。認めたくはないけれど。
その時だった。
壁に亀裂が走った。
「何?」
私たちはギョッとする。直後、壁が爆発し、大きな穴が開いた。
その向こうには、二人の少女が立っていた。
淡紅色の髪の美少女と、よく日に焼けた背の高い子……。ウィンストンと……知らない子だ。
「わっ、仲いいんだ」と、日焼けの子が言った。
「頽廃がここにも」と、ウィンストンは呆れたように言った。
ルージュは頬を真っ赤に染める。
「そんなんじゃありません!」
否定したいんだったら、とりあえず早く離れた方がいいんじゃない?




