地下へ
ヴィクトリアは壁に手を突きながら、いかにも苦し気に息をしていた。一時とはいえ彼女の娘であった縁だ。私はヴィクトリアに同情していた。
「ヴィクトリア、お腹は大丈夫なの?」と、私は訊ねる。
「……問題ない。庇護魔法により、既に回復は始まっている」
「嘘ね。大聖堂は魔力を供給していないもの」
「……問題ない」
モモもこんな風にやせ我慢をしていたっけ。やはり親子だ。そう言えば、あの後あの子はどうなったのだろう。もうこの地上にはいないのだろうか。だとするなら……。
「あなたはモモを貢物にしたのね」と、詰るように私は言った。
「聖女の心は聖女に還る……。それだけのことだ」
「悪いけれど、私はそれを阻止するの。聖女様は復活させない。私は私でいたいもの。今日まであなたが必死で護って来た聖地は私が壊します」
「だとするなら……それが聖人様の望みだったということだ……」
「そういう風に考えるのね」
意外だった。長老の計画を確実に遂行するだけの人形というわけではないのだ。結局この人も、自分に役割を与えてくれた彼らに依存していただけなのかもしれない。だけど、もうその役割を果たせそうにないから……聖女となるはずだった私に聖地を委ねようというのだろう。
不意に、ヴィクトリアは膝をついた。額からは玉のような汗が吹き出している。すると、ババが現れ、彼女の肩に腕を回して支えた。
「何のつもりだ……」と、ヴィクトリアは呻くように言った。
「別に。俺の勝手だろうが」
二人はそのまま並んで歩く。ヴィクトリアはババに身を任せていた。やっぱりもうとっくに限界は過ぎていたのだ。
「思えばよ、アンタと話したことなんてなかったな。まあ、ギルドの頂点のアンタと一番下の俺だもんな。話すことなんてねえか。でもよ、ガキどもは仲良くやってんだろ?」
「そうらしい……」
「アンタにとってはうちの馬鹿は迷惑でしかねえんだろうけどな」
「……今となってはどうでもいいことだ」
「どうでもいい? 何でだ?」
「聖女の心どうしの接触による互いへの影響を危惧し、遠ざけていただけのこと……。もはやその意味はなくなった」
「何言ってっか全然分かんねえけど、うちのがおたくのと仲良くやってもいいってのか?」
「……好きにすればいい」
「ははーん。アンタ、さてはガキのことほとんど分かってねえクチだな? 上手くいってねえんだろ!」
「だったらどうした……」
「へへっ、俺もなんだよ」
「笑いながら言うことか……」
意外なことに、ヴィクトリアとババは普通に話をしていた。身分が違い過ぎて、これまで都市ですれ違うことさえ無かっただろうに。まあでも、当然の結果なのかもしれない。だって、娘二人があんなに気が合うんだもん。この二人だって、きっと――なんてね。
大聖堂の地下には聖職者たちの聖櫃が納められた墓所がある。ここまでは大司教や一般の聖職者でも入ることができる。しかしこの先の隠し通路は、限られた人間しか知られていない。私は知っていた。モモの記憶があるからだ。
地下通路の最奥には広間があり、五つの聖櫃が安置されているが、それぞれが迷宮の別ルートへと繋がっている。ヴィクトリアは使徒クラスヌイの聖櫃を探り、細かなディティールの一つを押し込む。ゴトリという何かが動く音がした。蓋を開けると、底へと続く階段が現れた。
「さあ……行け」
ヴィクトリアはそう言うと、その場に崩れ落ちた。
ルビーは階段をジッと見つめ、試すような目で私を見た。
「光が差すのはどうやらここまでのようだ。これより下に待つのは深い闇……どうする?」
私はキッと彼を見据えた。
「もちろん私も行きます! この国の王女として、全てを見届ける義務が私にはあるわ!」
「ご立派だな」
「聖地の地下にこんなところがあったとはなぁ」
ババは興奮気味に拳を合わせた。「俺の娘はこの先にいんのか?」
「え? ええ……」と、私は答える。この人は審問の記憶を失くしているのだろうか?
「それで、この地下でオレたちを待っている者……聖別を行っているのは何者だ? 生きているうちに答えろ」
ルビウスは息も絶え絶えのヴィクトリアに訊ねた。
「……シルヴィア・ゴールドスタイン。使徒だ」
「シルヴィア……? どっかで……」
ババが呟いた。彼女は頭の側面をカリカリと掻いた。そうやれば記憶が掘り出せるというかのように。
「孤児院に名前が刻んであったな。シルヴィアとアザレア」
そう言うと、ルビーは私を見る。
「ええ、そうね」
「アザレア? アザレアならよく知ってるぜ。俺も孤児院の出だからな。その孤児院ってどこだ?」と、ババが言った。
「第捌だけれど」
「第捌だぁ? 俺がいたところじゃねえか! でもシルヴィア……? そんな奴知らねえ――いや、知ってる……? いや、やっぱ知らねえ……はずだ。何だこれ、分っかんねえ……」
「洗脳により市民の記憶から彼女の存在は消されている……。ゴールドスタインが何者だったのかを知る者は今の聖地には存在しない……」と、ヴィクトリアは言った。
「私、知ってる。会ったことあるもの」
私がそう言うと、全員の目がこちらを向いた。
「会った……?」
「正確には私じゃないけど。会ったのはルージュよ。私には彼女の記憶があるから。かつてルージュが会った女性が……そう名乗っていたの。白金の髪の女性よ」
「それは……地上での話か……?」
胡散臭そうな顔で、ヴィクトリアは訊ねた。
「ええ、そうよ。そんな顔で見ないでよ。私だって変だと思ってるんだから」
地下にいるはずの使徒が、どうして街の中にいたのかは不明だ。でも、ルージュの記憶がでたらめだとは思えない。ゴールドスタインは間違いなくあの時あの場所に存在した。
「シルヴィアは湖の下の都市にいて……聖別を行い続けて来た……」、私はほうっと息を吐く。「そして今日、ステラという少女が彼女に成り代わるはずだった」
「この後、ゴールドスタインは聖別を行う。あるいはコーデリアが。いずれにしろ、世界的な改変が行われるはずだ」
神妙な顔でルビーは言う。「オレたちはそれに干渉する。その結果、この聖地で何が起きるのか正直に言って分からない。貴様らはもとより、市民たちの安全も保障できない」
「……大聖堂は大掃除をすると言っていた。島民たちをこのまま見逃すとは思えない」
私はポツリと呟くと、ディオニカの手を取った。「ディオニカ、あなたは地上に残って。ジャンヌとルカの洗脳を解いて、みんなを護ってあげて」
「そんなわけにはいきません。私はあなたの近衛ですから」と、ディオニカは首を振った。
「大丈夫よ。今の私には強い仲間がいるから」
そう言って、私はルビーの腕を取った。
「しかし——」
何か言いかけたディオニカだったが、深く目をつむり、頭を振った。「いえ、承知いたしました」
「えっ、いいの?」
意外だった。もっと食い下がって来るかと思ったのに。
「先を考えるとジャンヌやルカの力は不可欠ですからね。彼らを元に戻しておきます。それに、魔法に関してはこの二人の方が私などよりも上手のようですから。そして何より……私は知っていましたよ、殿下。あなたが誰よりも強いお方だということはね」
「な、何よそれ?」
「嬉しく思っているのです。こんな時ですけれど」
彼の目には微かに光るものがあった。
「泣くのは全てが終わってからしてよ」
「もちろんです」
「ふん。上手く体裁を整えたな」と、茶化すようにルビーが言った。「本当はもう限界なだけだろうに」
私はハッとしてディオニカを見る。ディオニカは小さく笑うと、肩を押さえた。先ほどの聖剣でのダメージが想像以上に酷いのだ。まるで気づかなかった。
「腕が痺れているだけです。少し休めばすぐに回復するはずです」
それから、ディオニカはルビーに深く頭を下げた。「殿下をよろしく頼む」
「知らん」と、ルビーは素気なく言った。「光の届く範囲なら護ってやろう」
「感謝する」と、ディオニカは微笑んだ。
「俺もいるけど?」と、クーバート。
「あなたには頼みません」
私はべっと舌を出した。
「シューレイヒム卿!」
突如、二代目が叫んだ。いたんだ。ずいっと一歩前へ出て来ると、ディオニカの前に跪いた。「我々ハニカム商会一同、あなた様の指示に従います! 騎士様の右腕となり、市民たちを守るために全力を尽くす所存でございます!」
商人たちの中には、モモが倒したガントレットの人や長刀の人の姿もあった。戦力としては申し分ない。彼らが味方となれば、市民たちも心強いに違いない。
「そうか、それはありがたい。共にこの聖地の人々を護ろう」
ディオニカがそう言うと、「うおおおおおお!」、商人たちは雄叫びを上げた。変なテンション……。
「コーデリアは間違いなく長老様を殺すだろう……」
ヴィクトリアは小さく呻いた。
確かに、聖剣を手に入れた彼女ならそれも可能だ。
「奴はあまりにも危険すぎる……。さらに地下へと向かい、聖女に成り代わろうとすることも考えられる……。そうなればこの聖地はもとより、カルムもただでは済まないだろう……。聖女の力を悪しき者が手に入れるなど、絶対にあってはならないのだ……」
ヴィクトリアは力の無い手で私の肩を掴んだ。「聖地崩壊の先にあるのは混沌……。聖人ゲブラーの秩序をお守りください、ルチル殿下……」
私は彼女の手に、自分の手を重ねる。「いずれにしろ聖人様はいつも見守っている。彼に恥ずかしくない行動をするだけよ」
ヴィクトリアはフッと笑った。それから、ガクリと首を垂れた。
すぐにディオニカが床に寝かせ、様子を確認した。「気を失っているだけです。この傷で、よくもまあ今まで話せたものです」
「凄い人なのよ。聖地を影からずっと護って来た……大聖堂の人形としてだけどね。今になって、ようやく本当の自分に気がつけたみたいだけど」
「この方は私にお任せください」
ジュリアはそう言うと、商人たちに頼んでヴィクトリアを運ばせた。「殿下、どうぞお気を付けください」
「あなたもね、ジュリア。地下にカルミルがいたら、必ず元に戻してあなたのところに行かせるから」
「お願いします」
ジュリアは深々と頭を下げた。
「おい、もういいか?」
「早く行こうよ。あの女に大事なもの全部奪われちゃいそうだ」
棺に腰掛けたルビーとクーバートが言った。
私は返事の代わりに二人に大きく肯いて見せた。
「さあ、それでは行きましょう!」
そう言って、私は大きく手を鳴らす。「聖地を蝕む愚か者たちを成敗するのです! ルチル・カルバンクルスの名の下に!」
「偉そうにするなら置いて行く」
ルビーは私の頭を叩き、闇の中を下りて行った。
「叩くことないでしょ!」
私は頭を押さえ、涙目で地下へと通ずる階段を下りた。




