ワーミー侵入
その時。ワッと、声が上がった。慌てて眼下に目をやる。聖域外の人波をかき分け、誰かが姿を見せた。遠くからではよく見えないが、赤いゲブラーの仮面を被っているようだった。声は彼の周囲の人たちのものらしい。ざわめき声が波のように広がっていく。
「聖域外の人たちの声が聞こえる……」、ぽつりとユウナが呟いた。
ハッとする。それが意味することは一つ。結界の効力が切れたのだ。つまり、大聖堂の魔力が効果を失ってしまった。しかし、どうして?
「ステラ、あなたは下に……」
私の手を引くユウナだったが、突然、がくんと首を垂れた。
「ユウナ?」
彼女は顔を上げると、ぼんやりとした目で私を見た。
「ど、どうしたの、ユウナ……?」
「何をしているの、ステラ!」
その時、外の足場からジョアンナさんが現れた。「早く大広間に戻りなさい! この大聖堂はもはや安全とは言えません!」
「一体どうしたのですか?」
「分かりません。突然に大聖堂が魔力を失ってしまったのです。でも、心配しないで。あなたは私が命に代えても守ります」
「でも、ユウナが……」
「ユウナ? どこに?」
私たちは鐘楼を見回す。いつの間にか、彼女は姿を消していた。唯一の出入り口にはジョアンナさんがいたのに……一体どこに行ったのだろう?
もしや下に落ちてしまったのではと、私たちは眼下に目をやった。ユウナの姿はどこにもなく、とりあえずは胸を撫でおろす。しかし、信じられない光景が私の目に飛び込んできた。いつの間にか、都市と聖域の間に橋が架けられていた。元来ある橋はまだ上がっている。こんなに急に新しい橋を架けられるはずがないのに……。新たな橋に人々が殺到し、渡っていた。あれによって魔力の許容量を超えてしまったのだろうか?
私たちが見ている間にも、どんどん新しい橋が架けられていく。向こう岸に、眼鏡をかけた人の姿が見えた。あの人の魔法なのだ。新たな橋が完成すると、ゲブラーの仮面を被った男の人が渡り始めた。
人々の目は彼に集中していた。陽光を浴び、金色の髪がキラキラと輝いている。まさしく聖人ゲブラーの再誕を思わせる姿だった。
ワーミーに違いない。ついに聖域にワーミーが侵入した。
「おのれ……」
ジョアンナさんは怒りで身を震わせる。
橋を渡り終えたワーミーは、顔を上げ、大聖堂を見据えた。ふと、その顔がこちらを向いたような気がした。それに、なんだか彼の体が発光しているような気も……。素早く、ジョアンナさんは私を鐘楼の中に押し入れると、剣の柄に手をかけた。
「ジョアンナ!」
吠えるような声と共に、ルーペルトさんが鐘楼に飛び込んできた。彼は走りながら腰の剣を抜いた。「奴らを迎撃するぞ! 絶対に大聖堂の中には入れるな!」
「しかし、中の警護はどうするのです?」
「駆士たちや教戒師を集めて護らせている。審問官も使うそうだ」
「なるほど、分かりました」
ジョアンナさんは剣を抜く。「ステラは大司教様たちのところに!」
「は、はい……」
ルーペルトさんが剣を一振りすると、空中から水の塊が現れて私を覆った。そのまま、ルーペルトさんは私を塔から突き落とした。
「ぶばぁああああッ!」
私は水の中で誰にも聞こえない悲鳴を上げた。ヒューってんでバシーン……。終わりだ……。しかし、地面にぶつかると水が弾け、私は少し転がっただけで済んだ。助かった……。私はそのまま回廊を駆け、大聖堂を目指した。
「ユウナぁ、どこぉ?」
私は叫んだ。「一緒にいようよぉ! 私、とっても怖いの!」
しかし、彼女は姿を見せてはくれなかった。
最後に見せたユウナの顔が気になっていた。あの目は駄目だ。あんな目をユウナは浮かべちゃいけない。絶望に支配され、全てを否定する悲しい目。私たちはあの目から逃れるために修道院に入ったというのに……!
あれは、孤児院の子どもたちと同じ目だった!
「ユウナぁ!」
回廊を走っていると、突如何かが外から飛来した。その何かは目の前の床に叩きつけられ、勢いのまま壁に激突した。
「ひぁあああっ!」
私はその場で頭を抱えてうずくまり、恐々と飛来物を見てみる。ジョアンナさんだった。
「見つけたぞ」
私のすぐ傍に、ワーミーが着地した。赤い仮面を被った男だった。「さあ、オレと一緒に来い」
「や、やめて……!」
私は後ずさりながら、男と対面する。「これ以上聖地を荒らさないで! 今すぐ出てってよ!」
「やれやれ、毎度面倒な奴だ」
そう言うと、ワーミーは仮面を外した。仮面の下から現れたのは、あまりにも美しい彼の素顔だった。私は思わず言葉を失くし、ただ見つめることしかできなかった。腕を掴まれたことにもまるで気づかなかった。こんなにも麗しき人間がいるなんて――心を奪われてしまった私は、ただふらふらと彼について行くしかなかった。
その時だった。私の肩を、背後から誰かが掴んだ。強引に後ろに引っ張られ、私は尻もちをついてしまう。ジョアンナさんだった。
「走り続けなさい、ステラ!」
彼女はそう叫ぶと、そのままワーミーに打ちかかった。
爆発が起きる。
不意の突風に、私の体は浮いた。衝撃で周囲が大きく揺れる。私は床を転がりながらも、何とか立ち上がる。後ろから間断なく爆音が続いていた。ジョアンナさんの魔法だろう。私はとにかく必死で走った。
空に無数の剣が浮かんでいるのが見えた。尖塔の一つに誰かが立ち、まるで指揮者のように腕を振り、剣を操っている。眼鏡をかけたワーミーだ。周囲には水が漂い、彼を包囲しているようだった。ルーペルトさんだ。すると、剣が一斉に発射された。その内の一本がこちらに飛んできて、私の背中すれすれを通過した。
「のわぁああああっ!」
私の悲鳴が大聖堂にこだまする。剣は壁に当たって跳ね返り、私の目の前を通過した。「ひえええええっ!」
戦場と化した回廊を命からがらに走り抜けた。しかし、何ということだろう。まあ当然なのだが――大広間に入る扉は閉ざされていた。
「開けてください! 開けてぇ! 私です! ステラです!」
私はもう必死に扉を叩いた。物騒な音がすぐ背後にまで迫って来ているような気がして、とてもじゃないがまともではいられなかった。
すぐに、内側から扉が開けられる。まだ大して開いていない内から強引に身を入れ、何とか大広間に戻ることができた。息を絶え絶えに倒れ込んだ私に、一斉に視線が向けられる。
「おお、ステラ! 無事だったか!」
大司教様がやって来ると、他の信徒たちも続いた。私は抱えられ、輪の中へと入れてもらえた。
「一体どうしたんだね。外から凄い音が聞こえるが……」
「ワーミーが……侵入した……のです……」
私の声を受け、悲鳴が上がった。
私は深呼吸をして、何とか息を整える。「この大広間は聖絶技法で造られているのですよね? 安全ですよね?」
大司教様は困惑気味に眉を下げ、聖堂を見回す。「お前が通って来た回廊は増設されたものだよ。まあ、しっかり塞がれているから大丈夫だろうがね」
まるで狙ったかのように――全ての視線が集中したその直後、扉が吹き飛ばされた。巨大な人間の手が聖堂の中に侵入する。
「ギャァアアアアッ!!!」
私たちは一斉に絶叫した。手は真っ直ぐに私の方へと向かって来る。蜘蛛の子を散らすように、私の周辺から信徒たちが逃げ出した。ただ一人残ったのは大司教様。見事に腰を抜かし、まるで子供のように私に抱き着いてきた。いや、動けないんですけど!
しかし、手が私を捕まえようとした瞬間、目の前に円形の壁が発生した。水の壁だ。水は形を変えて球形に戻ると、一気に放出される。巨大な手はそのまま押し返され、消失してしまった。
「無事か、ステラ!」
別の扉から、誰かが大広間に入って来た。ルーペルトさんだった。宙に浮かぶ平面の水を駆けて信徒たちの頭を飛び越え、私の元へとやって来た。
「うわぁああん!」
私は大司教様を力いっぱいに突き飛ばし、ルーペルトさんに抱き着いた。
「落ち着け、ステラ。もう大丈夫だ」
彼は私の頭を撫でながら、「広間に穴が開いた! 守りを集中しろ!」、鼓膜が震えるほどの大声でそう叫んだ。
正面の扉から、ぞろぞろと赤い顔が入って来る。教戒師だ。味方であろうとやっぱり彼らは恐ろしい。
「戻らなければ」と、ルーペルトさんは言った。
「いやっ! ここにいて、ルーペルトさん!」
「ここにいてくれ、ルーペルト!」
私と大司教様は同時に叫んだ。
「外でジョアンナが一人で戦っています。加勢してやらねば。今に大聖堂の魔法が戻るはず、それまでの辛抱です――」
「ルーペルト」
信徒たちをかき分け、ヴィクトリア様が現れた。「ステラは私が地下へと連れて行こう。あそこならここよりは安全だ」
「地下に――?」
ヴィクトリア様はルーペルトさんが言葉を返す前に、ひったくるようにして私を奪った。それから教戒師を二人呼んで護衛に付けると、私の腕を引いて強引に外へと連れ出した。私の歩幅も考慮してくれない早足のため、必然駆け足になった。




