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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第一章 ダリアの花冠
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巡り合い聖地

 どこをどう歩いているのかも分からぬまま、私は歩を進める。


 やってしまった。


 もう終わりだ。私はついに屋敷を追い出されてしまうだろう。噂はすぐに人々の耳に届き、この聖地からも追い出される。待っているのは野垂れ死にだ。あんなことするべきではなかった。何のために今まで耐えてきたのだ。母を侮辱されたくらい、我慢するべきだった。


 母が最低な人間だったなんて、とっくに知っているはずなのに。



 顔を上げると、目の前に大聖堂があった。私の足は大聖堂に向かっていたのだ。


 母が死んでからというもの、私は大聖堂を避けていた。

 得もないのに自分を捧げることができる人間は少ない。

 私は毎日毎日、聖人様に祈った。

 しかし、聖人様は私の願いを聞き入れてはくれなかった。それが悔しく、また、空しくなった。


 結局、聖人など人が創った絵空事。この世で頼るべきものはそんな創作物ではなく、実在するもの――実際に私を助けてくれるものだ。コーデリア様がそうなのだと思っていた。でも、違った。私にはもう誰もいなかった。


 辛かった。


 苦しかった。


 ある日、洗礼の更新のために久しぶりに大聖堂を訪れた時、その抱き締められるような安心感に涙が出そうになったことを覚えている。


 聖人様は私を拒まず、受け入れてくれた。


 これこそが無償の愛で、私の全てを捧げるに値するものなのだ。聖人様が実在しようが、想像の産物だろうが、そんなことはもうどうでもよかった。この世で頼れるものがあるということが何よりも大切なことなのだ。その日から、私はまた毎日大聖堂でお祈りをするようになった。



 大聖堂は都市の中心にある島の上に立っており、都市とは橋で繋がっている。聖地の中枢だけあって、外から見ても人界と隔絶したような不思議な雰囲気がある。人々はシュアン全体を称して聖地と呼んでいるが、本当に聖なる土地はこの島だけだと私は思う。


 橋の前に赤い顔の男が立っていた。


 全身に赤の塗料を塗りたくり、漆黒の聖職衣を身にまとっている。教戒師だ。彼らはいつも聖書の文言をブツブツと呟き、男女ともに剃髪した禿頭とくとうで、虚ろな目で市民を睨みつけている。もちろん市民からは忌避されている。彼らの周囲もまた人界と隔絶していた。


 教戒師は信仰薄弱なる市民の矯正を許可されている。聖人様を侮辱した者、教義に反する者を捕らえ、どこかに連れて行ってしまう。噂では、彼らに連れて行かれた人たちは無神論者でも狂信者へと変貌してしまうそうだ。あくまでも噂だけれど。異端審問官と並び、人々にとても恐れられている聖職者だ。


 いつもは決して近づいたりはしないのだが、どうせ私はもうこの聖地を出て行くことになる身。彼らと話すのも怖くはない。


「あの」


 私の声が聞こえなかったのか、教戒師はブツブツと呟き続ける。構わず、私は続ける。


「今の時間は大聖堂に入ることはできないのですよね? それとも通ってもいいのでしょうか?」


 ブツブツ……ブツブツ……。


 本当に聖書の文言だろうか? 早口のために何と言っているのか分からない。とにかく私と会話をしてくれる気はないのだということだけはよく分かった。焦点の合わない目を私ではなく、背後の人々に向けていた。私には気づいてすらいないようだった。


 橋の前で逡巡していたが、諦めて欄干に寄りかかる。通っても彼らはブツブツ言っているだけかもしれない。いや、やはり怒られてしまうかな。「こらー!」とか。


 大聖堂は殿下一行が滞在しており、現在市民の立ち入りを制限している。一般の人間が入れるのは午後からのはずだ。

 私は大聖堂に目を向ける。

 こんなに近くにいるのに、これ以上近づけない。

 私の唯一のよりどころなのに、一番苦しい今、頼ることができない。


 私の居場所を王女様に奪われた。


 あの人は何だって持っているのに。

 何だってできる人なのに。

 返してと声を上げても、孤独が増すだけだった。


 本当に一人になったような気がした。不安で胸が苦しくなるが、涙は出て来ない。泣いてしまえば楽になれるだろうに。可愛げがないとよく言われた。何を言われてもぶたれても、私は決して泣いたりしない。ある日から、私は泣くことができなくなった。


「よどむひかりはどんよりどんよりあかくそまったくものうえからくるおしくないているおおきなとりがないている」


 ブツブツがやけに近くで聞こえることに気がつき、顔を上げる。教戒師が目の前に立っていた。私に顔を寄せ、高速で何かを呟いている。


「それがたくさんあればこそわたしだわたしだとたがいにいうとあれはくもでこれはつちほかにもあらゆるものがわたしだわたしだわたしだわたしだ」


 私は体の内から凍り付いてしまった。一歩も動けない。教戒師の赤い手が伸びて来る。間近でよく見れば、顔に塗り残しがあった。毎朝自分で塗っているのだろうか? 私はぎゅっと目をつむる。


 その時だった。


「おやおやおやおや?」


 橋の向こうから、声が聞こえた。

 ハッとして見ると、一人の女性がやって来るのが見えた。ジャンヌ様だ。玩具を見つけた子供のような嬉しそうな笑みを浮かべている。ブツブツが聞こえなくなった。いつの間にか教戒師は元の位置に戻っていた。


「また会ったねえ。こんなところで何しているのかな? 昨日の可愛いお嬢ちゃん。ええと、確か名前は……」


 私は慌てて髪を撫でつけ、衣服を整える。


「ダリア・バーガンディと申します」


 そう言うと、深くお辞儀をした。


「そう、ダリアちゃん!」

 ジャンヌ様は胸に手を当てると、「アタシはジャンヌ=マリア・ヴェアダルク。よろしくね」、そう言ってとても丁寧なお辞儀をした。


 私はすっかり恐縮してしまう。


「それで、何やってんの?」


「は、はい。時間が空いたので、お散歩をしていました。大聖堂には入ってはいけないのですよね?」


「そうだねぇ。今の時間は殿下の貸し切りだねぇ」


 今日から聖誕祭の五日間は聖週間と呼ばれている。大聖堂では種々の儀式が行われ、その全てに殿下はご参加されることになっている。今日はこの後、洗身式が行われる。「聖徒」となるために体を清める、聖週間の初日を飾る大切な儀式だ。


「キミぃ、とっても可愛いねえ。お姉さんビックリしちゃったよ」


 そう言うとジャンヌ様は私の髪を指で梳いた。「綺麗な銀髪……星空みたい。それに不思議な火眼かがん。薄紅色だね。そんな色してる人見たことないよ。変わってるって言われない?」


「いえ……」


 ジャンヌ様も私と同じ火眼だ。しかし色の濃い真っ赤な瞳。光の加減で炎のようにきらめいて見える。


 赤の国と呼ばれるだけあって、このカルバンクルス王国には火眼や赤毛をしている人間がとても多い。しかしその多くはジャンヌ様のような普通の赤で、私のような色をしている者はなかなかいない。あまり意識したことはなかったが、王国中の人の集まる王都にもいないのなら相当に珍しいのだろう。


「キミさあ、アタシたちと一緒に王都に来ない? キミくらい可愛かったら王都でもきっと人気者になれると思うんだけど」


 驚いた。そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。お世辞でもとっても嬉しい。ニコニコが止まらない。


「アタシが巫女さんに掛け合ってもいいよ。お金が必要なら払うし。マスターが」


 とても嬉しいお言葉だが、冗談を本気にしても辛いだけだ。私は一介の使用人。この人たちとは住む世界の違う人間だ。きっとお婆さんになるまで誰かの屋敷で働くことになるのだ。それも今日のせいで難しいかもしれないけれど。嫌なことを思い出し、憂鬱な気分が戻って来る。


「ありがとうございます。私、仕事に戻りますのでこれで……」


 頭を下げると、頬を両手でがっしり掴まれる。「ちょい待ち」

 顔を持ち上げられた。「ねえダリアちゃん、この辺りでハネズヒソウが生えてる場所知らない? 実はね、聖冠作りの材料を探してるんだ」


「都市の外の……島にありますけど……」


「よかった。そこに連れて行ってくれる?」


「でも、ジャンヌ様が行かれるような場所ではございません」


「どして?」


「ええと……貧民たちが住むところなので……。貴族の方々は決して足を踏み入れません」


 この聖地には三種類の人間しかいない。聖地の奥に住む聖職者や貴族たち、外区画に住む平民たち、そして湖の島に住む貧民――追放者たち。


「ふうん。聖地にもそんな場所があるんだね。キミは行ったことあるの?」


 私はスカートをギュッと握る。「少し前まで、住んでいました……」


 ジャンヌ様はきっと私を軽蔑しただろう。でも、事実だから仕方ない。私だってあんなところに住みたくなかった。私が悪いんじゃない。母が悪いのだ。母が悪いのに――。


 恐る恐る顔を上げる。冷たい目があるに違いないと思っていたが、予想に反してジャンヌ様はにんまりと笑っていた。火眼がきらきらと輝いている。


「じゃあよく知ってるってことだね! よかったぁ、それなら話は早いよ。一緒に行きましょ!」


 私の手をとり、大股で歩き出す。


「わ、私は……そう、屋敷に、屋敷に帰らないと……」


「平気平気、殿下直々のご命令なんだから。他の何よりも優先されることなのよ。何よりアタシがついてあげるから安心しなさい!」


 ジャンヌ様は近くの渡し場から舟に乗ると、渡し守を下舟させた。「ちょっと借りるね」、有無を言わせずにそう言うや、ご自身の手で櫂を漕ぎだした。


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