聖地動乱
大広間には徹夜祭のままに信徒たちが集っていた。彼らの作る道を歩くと、大司教様が迎えてくださった。
「美しいよ、ステラ」
私の手を取り、大司教様は言った。「朱華色がよく似合っているね」
「この衣に見合う巫女になれるよう、日々精進致します」
私は内陣を仰ぐ台座の上に乗った。台座の底には魔法陣が描かれている。ふと周囲を見回すと、床にも文字が刻まれていた。辿ってみると、地下から伸びる塔まで続いているようだ。広間の床全体に巨大な魔法陣が描かれており、信徒たちはその上に規則正しく立っているようだった。今朝まではなかったものだ。最後の聖儀式のためのものだろうが、不思議と禍々しいものを感じてしまった。
やがて、大司教様が祝文を唱え始めた。私は後に続き、その後から信徒たちも復唱した。声は天井に跳ね返り、巨大な反響となる。
不思議な空間だった。宗教魔術師たちの施す演出のためか、辺りにうっすらとした靄が現れる。次第に心地よくなって、意識がぼんやりし始める。気づいた時には、床が光っていた。魔法陣が輝きを放っている。驚いたが、不思議と声を上げることができなかった。祝文は続く。大司教様にも、信徒たちにも動揺は見られない。慌てるようなことではないのだ。もっと集中しなければ……。
聖なる哉
聖なる哉
聖なる哉
彼の者は闇を裂き凡ての悪を討ちたり
聖なる哉
救いを求める民たちに安らぎを与えたり
聖なる哉
我等赤き火の子彼に祈り彼を讃えん
聖なる哉
聖なる哉
聖なる哉
太虚に光る赤い鳥
救いの丘に落ちたれば
そこに聖堂を献り
事業を行い
之に労し
之に歌い
豊かなる恵を与え
救いと憐みを与え
怒りと憂いを与え
正義と秩序を与えたし
聖なる哉
至聖至潔にして峻厳たる聖人ゲブラー
我等赤き火の子彼に祈り彼を讃えん
今も何時も世世に
聖なる哉
聖なる哉
聖なる哉
こうして聞いていると、聖書の言葉とはまるで呪文のようだ。私たちは呪文を唱えているのではないか? 魔法陣が反応しているのがその証拠だ。自分で自分に魔法をかけている……。
だからと言って、どうしようもないのだけれど。儀式は続く。私にはどうすることもできない。とうにドロドロに溶け、それらを構成する一つになっているから。
ぼんやりする頭で、祝文の内容を追っていた。
聖人ゲブラーは戦火を逃れた難民たちを率いて、この土地にやって来た。大きな赤い鳥が彼らを導いたという。鳥は丘の上に舞い降り、そこにゲブラーは大聖堂を建てた。有名なヴェルメリオの丘だけれど、実際は聖地の外の丘陵地帯を指すらしい。だって、ここはどう見ても島で、丘ではないもの。長い歴史の中で、伝説が間違って伝わったのだろう……。
震動を感じたのはその時だった。最初は微かな揺れだったが、すぐに立っていられないほどの震えとなった。穏やかな空気の中に突如として冷たい風が吹き込んだようだった。信徒たちは一人、また一人と目を覚ましていく。囁く声が段々大きくなり、やがては悲鳴と変わった。床の光は消え去り、儀式は中断を余儀なくされる。
「何事でしょう?」
私は台座の上から、近くにいるヴィクトリア様に訊ねた。
「お前は気にしなくともいい」と、彼女は言葉短く言った。
「報告します」
ヴィクトリア様のお付きの人が現れる。栗色の髪の女性で、レト・パーソンズさんだ。名門パーソンズ家の次女で、とても優秀な人だ。誰かからもらったのだろう、レトさんは頭に花冠を被っていた。ハネズヒソウで作られた、少し形の崩れた冠だった。きっと、多くの人の手に渡ったものなのだろう。
「ウィンストン家のものを含む、複数の浮島が動き出しました。何者かが魔導石に細工を施し操っているようです」
「何だと?」
ヴィクトリア様は低く呻った。
「浮島は他の浮島を強力な力で押し、一直線に隔離――いえ、離れ島へと向かっているようです」
「離れ島……?」
しばしの思案の末、ヴィクトリア様はハッと何かに気づいたようだった。「すぐに魔力供給を切れ!」
彼女の発令を受け、直ちに大聖堂から都市の浮島への魔力供給が断たれた。しかし魔導石から発せられる信号には偽装されたものも混じっており、どの石が操られているのかを特定するのは困難を極めた。魔力供給の全面停止を行うにも、あまりにも甚大な被害が出過ぎていた。浮島同士の衝突により家々は壊れ、押し出された浮島が折り重なり、水路は潰され、区画はぐちゃぐちゃになった。多くの市民が建物の下敷きとなった。彼らは都市の庇護魔法によって護られているため、命に別状のある者はいないだろう。だが、もしも魔力の供給を切ってしまえば、彼らを護る力もなくなってしまう。停魔は不可能だった。湖に押し出された島々は並びを変え、現在は提道にぶつかって動きを止めたそうだ。
間違いなく異教徒たちの仕業だ。聖誕祭の妨害のため、彼らはついに手段を選ばなくなった。都市を破壊するつもりなのだ。やはり、ワーミーを放置していてはいけなかった。彼らの一人も逃さぬよう、徹底的に捕まえるべきだったのだ。
孤児院の子供たちは大丈夫だろうか。庇護魔法を受けているとはいえ、衰弱した子供たちは倒壊した建物から逃げることができないのでは……。崩壊した孤児院の下敷きになったとしても、誰も助けに来る者はいない。もしも水没してしまったら……。背筋を冷たいものが駆け抜ける。
ワッと、大気が震えた。幾重にも重なった人々の声だ。大聖堂の外から聞こえる。私は台座を下り、外に飛び出した。
橋を渡り、聖域に避難してくる市民たちの姿が見えた。つい先ほどまで、あんなに笑顔を浮かべていた人たちの顔が恐怖に引きつり、心の底から怯えていた。都市から大聖堂に繋がる橋は三つあるが、全てが人々で埋まっていた。
「ステラ、あなたは中にお戻りなさい」
背後から肩を掴まれる。大聖堂付き駆士のジョアンナさんだ。
「ジョアンナさん、あなたのお力で皆様をお助けください。ワーミーたちを捕まえて……」
彼女の手を握り、私は言った。
ジョアンナさんは元々、ヴィクトリア様の――ウィンストン家の駆士だった。しかし、その一介の駆士をはるかに超越した強さに、大聖堂に引き抜かれたほどの実力者だ。ワーミーたちなんて簡単に捕まえてくれるに決まっている。私の目を見つめていたジョアンナさんは、つと背後を指した。私は振り返り、彼女の指の先を見る。橋の向こう、都市を駆けている人たちの姿がそこにあった。
「教戒師から報告がありました。浮島は離れ島と提道を繋げてしまったそうです。現在、島民たちが提道を渡り、大聖堂に向かっています。彼らは暴徒化しているそうです。都市の魔法は人命救助に費やしているため、彼らの進行を止めることはできない……。今は動ける教戒師や警邏たちが鎮圧に当たっているそうですが、着実にここまで近づいているそうです」
「そんな……」
私は唇を噛む。
シュアンの人間は、離れ島を隔離島と呼び、その住人たちをいない者、あるいは不快な者たちとして扱っていた。彼らの多くが背信者で、戒めを受けた者たちだから。ほとんどの者は教戒を受け、現在は信仰心を取り戻してはいるそうだが、しかし洗礼の更新を許されていない。再び洗礼を受けられるその日まで、彼らは日々の礼拝と労働に勤しんでいた。
おかしいとは思っていた。
市民たちが口にする野菜のほとんどは、島の周辺に広がる干拓地で彼らが作ったものだ。私たちは赦しを求める彼らの信仰心に浸けこみ、労働を強制していた。奴隷のように。いつかはこのような事態になることに、みんな薄々気がついていたはずだ。でも、そこから目を背けていた。足元に走る亀裂を見ないようにしていた。奴隷たちのいない都市なんて、想像したこともなかったから……。
この聖地にいるのは貴族や平民だけではない。私たちはもっと大きな陣営に分かれている。都市は分断され、人々は互いに陣地を奪い合う。巨大な戦争ゲームが始まったのだ。
「島民たちはワーミーに操られているのだ」
人を掻き分け、橋の方からやって来たのはひげもじゃの巨漢。ジョアンナさんと同じ、大聖堂お抱えの駆士、ルーペルトさんだ。「でなければ、彼らが反乱を起こすなどありえない」
「どうしてそう言えるのですか? これまでの私たちが彼らにしてきた行いが――」
「彼らは信仰心以外の感情を持たないからだ。そういう風に作り変えられた」
「作り変えた……? 大聖堂が?」
「背信者を再び聖人様の子に戻すためにはそうするしかなかったのだ。ワーミーどもはそこに浸けこんだ。島民たちを洗脳し、信仰心を怒りにでも転化させたのだろう。今の彼らは負の感情に支配された荒ぶる背信者だ」
「ワーミーたちの目的は何でしょう?」と、ジョアンナさん。
「無論、聖儀式の妨害に決まっている。異教徒どもの考えることだ」
ルーペルトさんは眉間にしわを寄せる。「思い返してみれば、奴らの動きは全て今日の聖誕祭のためにあった。都市で興行を繰り返していた理由は? 娯楽を与えるふりをして、市民たちを頽廃に誘っていたのだ。あれは洗脳だったのだ。同じことを島でも行っていた。一昨日の聖週間三日目にはかなり大規模な興行らしき騒ぎが確認されている。島民たちはまんまと洗脳にかかってしまった」
しかし、いくら聖地を荒らそうと、ワーミーたちも島民たちもこの大聖堂に入ることはできない。ここが無事である以上、大聖堂は必ず儀式を完遂する。ワーミーたちがやっていることはただの嫌がらせに過ぎない。本当にそんなことが目的なのだろうか?
橋に群がっている人々を見ていると、ふとある考えが脳裏に過った。
「大聖堂の結界は盤石なのですよね?」と、私はジョアンナさんに訊ねた。
彼女はコクリと肯く。「ええ。洗礼を受けていない者はいかなる者であっても侵入することはできません」
「……許容量は?」
「え?」
ジョアンナさんとルーペルトさんは同時に声を上げた。
「大聖堂の中にも、様々な魔法はあります。何より、聖儀式には相当の魔力を集中させていると聞きました。市民が次々に流入してしまえば、その分を個別の魔法に割かなければならなくなる。いつかは耐えられなくなるはずです」
「聖儀式を中断するか、大聖堂の護りを解くか――。そうか……ワーミーの狙いはそれだ。島民たちを使って市民を大聖堂に逃げ込ませ、ここの魔法を不能に追い込むつもりなのだ」
ルーペルトさんはジョアンナさんに目配せすると、大聖堂の中に入って行った。ヴィクトリア様に報告するのだろう。間もなく、橋の向こうに赤い顔の人たちが集まり始め、市民たちの橋への立ち入りを禁じた。橋を上げ、これ以上の流入を防ぐつもりなのだ。
「馬鹿なことを……」
思わず、声に出してしまう。
市民たちは庇護を求めてこの大聖堂に来ているのだ。それを断ち切るなんて……聖人様に対する冒涜ではないのか。そんな私の葛藤を読んだのだろう、ジョアンナさんは肩を抱いてくれた。
「ステラ、あなたは中に入っていなさい。聖人様に祈って。市民の無事を、島民たちへの赦しを……」
「でも……」
「それがあなたの役目よ、赤の聖女」
「……はい」
最後にもう一度都市を見て、私は大聖堂の中に戻った。
祈り?
この現実を前にして、祈りが一体なんの足しになると言うの?
こうしている間にも、市民たちは傷ついて、悲鳴を上げている。暴徒たちは罪を重ね、魂を傷つけている。祈りが通じるとは思えなかった。でもこの事態を前に私に何かできるとは思えなかった。私にできるのは祈ることだけ……。
台座へと戻ると、大司教様は信徒たちを囲んで説教をしていた。こんな時でも、彼のゆったりとした喋り方は健在だった。聞いていると彼の空間に閉じ込められたようで、周囲が気にならなくなる。なるほど、あの喋り方も大司教様の技なのかもしれない。
「……市民にどれほどの被害が出ることになるのか、見当もつきません」
「今はそんなことを言っている場合ではない。この大聖堂こそがシュアンの中核、ここだけは絶対に守らなければならないのだ」
少し離れたところで、ヴィクトリア様とルーペルトさんが何やら言い合っていた。
「ハルマテナにはどう説明するおつもりですか」
「非常事態ゆえの判断だ」
ハッとする。
「ヴィクトリア様……」
震える声でそう言うと、二人はこちらを向いた。「都市を停魔なさるおつもりですか?」
「お前は黙っていろ」
「停魔するのですね!?」
声を張る。大司教の周りにいた人たちも顔を上げ私たちの方を向いた。
「……その通りだ。都市への魔力供給を遮断し、大聖堂に力を集中する。そうでもしなければ流入する市民たちにより結界が解かれてしまう」
信徒たちは不安気な顔で囁き合った。彼らも怯えているのだ。安全地にいる者は、その安全が無くなることを自ら望んだりはしない。
「ですが、市民たちはどうするのです! 魔法がなければ、彼らを護ることはできません! 今こうしている間にも、崩れた家の下敷きになっている人たちがいるのです! 救助が間に合わなくなってしまいます! お願いします、ヴィクトリア様! 停魔だけはおやめください!」
ヴィクトリア様はさっと私の顔の前で手を振り、それ以上の発言を禁じた。
「苦渋の決断だということが分からないか。全面停止するわけではない。水没だけは阻止する。市民たちには我慢を強いることになるが、聖儀式が終わるまでだ。私の命に代えても、聖儀式だけは必ず成し遂げる」
彼女の顔に浮かんだ決意の強さに、私の言葉は喉の奥底に引っ込んでしまった。
「何を呆けている? 今すぐに都市への魔力供給を停止しろ!」
彼女の声は大広間に反響した。
「かしこまりました」
ルーペルトさんは頭を下げ、どこかに行ってしまった。
信徒たちが見守る中、ヴィクトリア様はジロリと私を睨みつける。「お前はそこで祈っていろ」
そう言うと、私を強く押した。尻餅をついてしまう。
「乱暴はいけないよ」
大司教様が抗議するように声を上げるも、彼女の鋭い眼光に射抜かれ、無言で下を向いた。ヴィクトリア様はそのまま大股で外へと出て行った。私は信徒たちに助け起こされ、輪の中に入れてもらう。
「さあ、みんなで祈ろう」と、大司教様は明るく言った。「この未曽有の事態に我々にできることは祈ることだけだ。都市の鎮静を、人々の無事を、みんなで祈ろうじゃないか。聖人様は我々の願いを聞き入れてくださるはずだよ」
大司教様が胸の前で手を合わせると、信徒たちも同じ動作をした。
祈り……。
それが本当に、私がするべきことなのだろうか?
一つに固まり、手を合わせる彼らの姿はとても無防備に見えた。外の世界で起きている酷いことから目を逸らし、自分たちの世界に逃げているように。こうしている間も、助けを求める人はいるのに……。
ジッとなんて、していられるはずがない!
「ステラ!」
気がつけば、輪の中から抜け出していた。背後からの声を無視して、私は走った。




