朱華色の聖女様
声が魔法であったなら、歓声はきっと明るい黄色だろうな。怒った声はもちろん赤色、泣き声は青色で、悲鳴は怖い紫色魔法。笑い声はなんだろう。橙色かな? 極彩色の魔法が辺りを飛び交っている。そんな中で冷静でいられる方がむしろおかしい。思わず下を向いてしまう私の肩を、ヴィクトリア様が叩いた。慌てて顔を上げる。
「ステラー!」
「聖女様ぁ!」
人々の声に、手を振って私は応えた。
こんなにも大勢の人たちから祝福を受けたのは初めてだ。彼らの喜びに満ち溢れた明るい声は、湖面で反射し、都市を色づけていく。こんなに美しかったっけ。ずっと修道院にいたから、忘れていたのかな。あるいは……もう二度と目にすることができないからかもしれない。とにかく全ての光景を目に焼き付けておきたかった。いつでも思い出すことができるように。寂しさを紛らわせることができるように。
舟は大水路を真っすぐに下る。市民の列は途切れない。私は手を振り、精一杯人々の声に応える。水路には無数の花冠が浮かんでいた。花冠は舟の周囲に溜まり、巻き込んでいく。まるで花畑にいるような、実に素敵な光景だった。私は振り返ってヴィクトリア様の顔をうかがう。彼女は前方だけをジッと見つめていた。感動するという能力をどこかに落っことしちゃったのかしら? 目玉だけがポテンと下に落ち、私の視線とぶつかった。瞬間、私は弾かれるように前方へと顔を戻した。頭で意識してのことではなく、筋肉が勝手に反応した。
水路の果てに、舟は湖に出た。そこには編み細工でできた巨大な聖人像がある。上半身だけを湖面から出し、勇ましく聖剣を振り上げていた。見えざる脅威を見据えているのか、あるいは都市を両断しようとしているのか……。
もしも人々が肩まで浸かったなら……堕落という快楽の湯にどっぷりと……正義の顕現であるゲブラーの剣は全てを灰燼に帰すだろう。人を燃やし、家を燃やし、都市を燃やし、世界を燃やし尽くす。峻厳のゲブラーは秩序の破壊者を許さない。それがどんな小さなヒビでさえ、決して見逃しはしない。聖人様はいつも見ている。だからこそ、私たちは信仰心を失うことなく安寧の中で暮らしていけるし、それを維持しなければならない。
聖人様に近づく舟を、市民たちは都市から見守っていた。ヴィクトリア様はカンテラを差し出した。私はトーチに火を移すと、聖人様へと近づける。可燃性の塗料が塗られているのだろう、聖人様は勢いよく燃え始める。瞬く間に大火となった。一年の平和を祝い、次の一年を祝う炎。都市が歓声に沸いた。聖誕祭の始まりだ。
この五日間と言うもの、シュアンはたくさんの禍に見舞われた。
聖地に混乱をもたらさんとする異教徒たち……儀式を妨害する異端者たち……何より、外画浮島の崩壊。経年劣化だそうだが、事前の避難を行っていたおかげで負傷者はいなかったそうだ。もしも怪我人が出ていれば、聖儀式は中断されていただろう。
それでも幾多の困難を乗り越え、今日を迎えることができたのは、人々の篤い信仰心のおかげに他ならない。中でも、二大貴族のウィンストン家とパーソンズ家の迅速な対応は多くの市民たちを頽廃の危機から救った。人々は共に手を取り合い、互いに支え合った。そのおかげで、私たちは無事に今日の日を迎えることができた。市民たちに心から感謝を抱くと共に、この宗教都市で生まれたことを誇りに思う。
大聖堂の渡し場に着いた。ヴィクトリア様が手を差し出し、下舟を手助けしてくださった。
ヴィクトリア様は大貴族ウィンストン家の当主で、都市ギルドの頂点であり、そして大聖堂の中枢たる赤の巫女でもあるという、この聖地で最上の権能を有する方だ。赤い巫女装束に身を包んだ彼女は、威容とも思える迫力があった。その鮮血のような赤は、まさに聖地の心臓。対する私の衣は朱華色だ。国花のハネズヒソウを模しているのかもしれないが、私が着ると赤になれない中途半端な色のようにも思え、すなわち未熟性を浮き彫りにされているようだ。私には巫女装束は明らかに似合ってはいなかった。正直に言えば、着たくもなかった。そもそも、自分がこれを着るにふさわしい人間だとはとても思えない。
私は振り返り、橋の向こう側の市民たちを見る。あの橋は人界と聖界との境界線。私はもう二度とこの空の下に立つことはない……。人々の中に見知った顔を探そうとするが、私の目には誰も映らなかった。深く息を吸い込み、大きく頭を下げる。声は聞こえないが、市民たちは拍手喝采で見送ってくれた。彼らに見守られながら、私とヴィクトリア様は大聖堂に入った。
私は赤の聖女に選ばれた。
巫女が表の主役なら、聖女は影の主役。聖地の奥でひっそりと聖人様に祈りを捧げる存在だ。表に出て来ることはないから、存在はあまり知られていない。先代の聖女が選ばれたのは何十年も昔の事だそうで、市民たちは彼女がどんな人間だったのか、もはや覚えている人はいない。
私はこれからお婆さんになるまで、大聖堂の奥で祈りを続ける。聖人様のために、人々のために、そして己の信仰のために。聖地に生まれた信徒として、これ以上に誇らしいことがあるだろうか。何より、私のような何の価値もない半分亡者のような人間が大聖堂の一部になれることに、心からの喜びを感じる。生まれて来てよかったと、そう思う。
私が育ったのは中区画。下位の貴族と上位の平民たちが共存している場所で、言うなれば汽水域のようなところだ。矜持だけが手元に残った落ちぶれ貴族と、ハニカム商会との提携で勃興した平民たち。それらは水と油のように決して混ざり合うことはない。
この区画を象徴する話がある。橋の多いシュアンでは、俗に「戦争ゲーム」という遊びが子供たちの間で人気となっている。二つの陣営に分かれ、橋の両端からぶつかり合って相手の陣地を目指す陣取り合戦だ。時に流血を伴う危険な遊びで、誰か一人でも向こう側へと渡るか、もしくは教戒師がやって来たら終了となる。私も一度だけ参加したことがあるが、酷いものだった。数合わせのために呼ばれ、「一緒に向こうまで走るだけでいいから」という平民の子たちの言葉を信じて、叫びながら突撃した途端、誰かに頬を殴られて頭が真っ白になった。気づいた時には体中が傷だらけ、服はボロボロに破れ、鼻血のせいで両手は血まみれ。取っ組み合う子供たちを背景に橋の隅っこで号泣していた。
陣営は常に貴族と平民で分かれていた。彼らは押し合いへし合い殴り噛みつき呪詛を吐き合い、相手への憎悪を深めていく。大人になってもそれは変わらない。澄ました顔で取り繕ってはいるものの、皮を一枚剥いでしまえばたちまち二つの陣営に分かれて取っ組み合うことだろう。ある意味では、そこはシュアンにおいて最も混沌極まる区画だった。
そんな場所の孤児院で私は育った。市内には聖ミラの名を冠した孤児院がいくつか存在し、私のように身寄りのない子を引き取って育てている。何しろ、聖地では毎年五百人以上もの子供が孤児院に入るそうだから、その賑やかさは大変なものだった。一人で立てるようになると、すぐに年少の子の世話を任される始末。私も十一歳ながら、数え切れないくらいの子供たちのお母さんになった。
孤児院での生活はとても過酷なものだった。その原因は、慢性的な資金不足による。子供の数に対して、本来必要とされる何もかもが足りていなかった。食事に栄養を求めるどころか、食事自体が全員に行き渡るほど無かったので、必然的に一人分は極少量になってしまう。私たちはいつもお腹を空かせていた。建物の修繕もしてもらえなかったので、浮島建築の要である「根子」が壊れたら浄水も排水もできなくなり、想像を絶するほど悲惨な状態になった。
本当に劣悪な環境だった。大聖堂の洗礼を受けていなければ、きっと病気の温床になり、たくさんの死者が出ていたはずだ。洗礼だけは受けさせてもらえたので、私たちは病気になることはなかったし、飢え死にすることもなかった。大聖堂には感謝しないといけないけれど……正直に言えば、したくないくらい酷い生活だった。
孤児たちはある程度大きくなると、容姿や頭の良さなどで評価され、格付けされる。そこから、格に見合った何らかのギルドに引き取られることになる。養子に出される子も多い。養子縁組の際、養親は居住区画や家柄などから審査され、適した格の子を紹介される。私のいた孤児院は貴族の落とし子と噂される子が多かったことから、縁組を求める声も多かったように思う。でも、本当に優秀な子はギルドにも養子にも出されない。彼らは修道院に入れられるからだ。辛い経験をし、世の無常を知る孤児たちは優秀な聖職者になるのだそうだ。私の世代で修道院に迎えられたのは、私とユウナという少女だけだった。
私とユウナは一日違いで孤児院に入った。彼女の方が二つお姉さんなので、入ったその日から赤子だった私の世話をしてくれたそうだ。私たちは姉妹のように育ち、たくさんの喜び、たくさんの笑い、そしてたくさんのひもじさを共有した。死ぬはずの時に死ねない辛さは、経験したことのない人には一生理解できないことだろうと思う。栄養失調のためにもはや立ち上がることさえできず、意識はとっくに途切れていて、目を開けることもできない。
そんな時、私たちはお互いの髪を口にくわえたりして、空腹を和らげた。頭がおかしくなりそうな私を、ユウナはいつも励まし、正気に戻してくれた。常に私の先を歩き、正しい道を示してくれた。彼女の後ろをついて歩いていたからこそ、私も修道院に入ることができたのだ。彼女はいつだって私の手を引いてくれた。修道院に入ってからもそれは変わらなかった。
才女の集まる修道院の中においても、ユウナの優秀さは際立っていた。彼女が私を傍に置いてくれたおかげで、私も院内において自分の場所を確保することができた。修道院には夜課と呼ばれる夜の礼拝があり、選ばれた一人が朝まで祈り続けることになっている。夜課に選ばれるのは名誉なことで、その頻度は大聖堂の評価と直結すると言われていた。私はめったに任されることはなかったが、ユウナは頻繁に礼拝堂で夜を過ごしていた。みんなが、彼女は特別なのだと知っていた。
でも……違った。
少し前から、修道院はある噂で持ちきりになった。もはや伝説上の存在としか思われていなかった赤の聖女が役目を終え、近々修道院から新たな聖女が選ばれるそうだ……。その話を聞いた時、すぐにユウナに教えようと思ったけど、やめた。私が話さなくとも、周知の事実だったから。誰もがユウナだと思っていたし、ユウナも自分だと思っていたと思う。
でも。
でも。
選ばれたのは私。
ヴィクトリア様からそのことを告げられた時、頭の中に鐘の音が鳴り響いたような気がした。現実のこととは思えず、しばらく思考ができなかった。どうして自分が、なんてことは考えすらしなかった。聖女になれるという夢のような現実にただただ浮かれ、仄かに輝くベールが一切の不安や恐怖を覆い隠した。信徒としてこれ以上名誉なことはないと心から思うし、自分で自分が誇らしい。修道院のみんなも、私を祝福してくれた。ただ一人を除いて。
ユウナだけは私に何も言葉をかけてくれなかった。その日から、私たちは口を利いていない。気づいた時には、彼女は修道院から姿を消していた。




