存在しないはずの部屋
長い廊下を歩き、いくつもの部屋を通り過ぎる。背信者とされる者たちが鎖で繋がれ、色のない目で僕たちを見ていた。彼らの中にも無実な者がいるのかもしれない。もしそうなら、今すぐに解放してやらなければと思うが、今の僕にはその時間が惜しい。だから、彼らの目から逃れるように速足で進むしかなかった。しかし、ある部屋の前で、つい立ち止まってしまう。ジュノーを審問した部屋だ。
「どうした」と、ウィンストンは怪訝な顔で振り返った。
「お前は何故目撃されるような真似をした? わざわざ審問官の恰好までして……」
ウィンストンは一瞬、虚を突かれたようだった。しかし、すぐに「ああ……」と、言った。
「もちろん正体を隠すためだが……それだけではない。可視化した審問官とは同一化した存在だ。であれば、今の世代の者たちを見て同一化した者がいなければ、元審問官を探ると思った。そうなれば、いずれは私にまで辿り着くことができたはずだ」
「それがお前の言っていた種か? ジュノーの装束が保管庫に置かれたことを知っていた者は多い。お前の言うように、この装束は姿を隠すにはピッタリだ。審問官でなくとも着用する理由はあるぞ」
「だとしても、審問官の装束を着用したことに意味があると考えるのが普通だ。少しは脳があると期待していた」
こいつ……。本当に一言多い女だ。
審問部屋を抜けると、廊下は入り組み始める。方向感覚を狂わせる何かが、この地下にはあるようだ。僕はもう、来た道を辿ることもできないだろう。だが、ウィンストンは迷うことなく進んで行く。迷宮の地図が頭の中にあるのだろう、その歩みには少しも迷いはなかった。
「まだ聞いていなかったな」
突然、ウィンストンが言った。「お前はいつ自分が審問官だと気づいた?」
アテナに訊ねているのだ。
「……聖週間の少し前です」と、アテナが答えた。
「大聖堂でジュノーと会った日よりも前か?」と、僕。
「いいえ、あの日の後よ」
「一人で会話をするな、気味が悪い」と、ウィンストンが言った。
「ジュノー姉様と会ってから数日後のことです。目を覚ましたら、私は大司教様の部屋にいました」
アテナは知らないベッドの上で目を覚ました。朧気に、大司教様からクッキーをもらったことは覚えている。しかし、どうしてここで眠っているのかは分からなかった。部屋は暗かったが、人影が目に入った。誰かが大司教の顔を掴み、机の上に押しつけていた。恐らくその音で目が覚めたのだろう。
すると、急に明かりが差した。何者かの持つ刀が赤い光を発した。その何者かは、刀を大司教の首筋に当てた。抵抗する大司教を押さえつけているのは、仮面をつけた男だった。
「き、君は……審問官か?」
大司教は悲鳴染みた声を上げる。
「ジュノー・オブライエンに何を言った? お前が知っていることを全て話せ」
「わ、私は何も……」
「ジュノーの首を持ってきてやろうか」
「ま、待ってくれ……」
「妹もつけてやろう」
「わ、分かった。は、話す、話すから……。乱暴な真似はやめてくれ……」
大司教は弱弱しい声を上げる。「ジュノーには警告をしただけだ……。聖地の影に潜む者たちについて……」
「何者だ」
「し、知らない。本当に知らないんだ。あ、ある日、私のもとに報石が届いた……。誰が送った物かは分からないが……一方的に文字が刻まれるのだ。刻印は細工されていて、特定することは不可能だった……。彼らは私に計画への協力を持ち掛けてきた……」
「計画だと?」
「聖週間での儀式に関する話だ……。だが、私も詳しい話は聞かされていない……。私はハルマテナとの橋渡しを期待されていただけだ……」
「儀式とは聖儀式のことだな。何を聞いた?」
「私聖児と呼ばれる子を儀式に使うのだ、と。その一人がルージュ・オブライエンだった。他にもいるようだが、私は聞かされていない」
「ジュノーに嗅がせた物はなんだ? どこで手に入れた?」
「あ、あの香料も送られてきたものだ。つ、つい昨日のことだ。布に染み込ませ、ジュノーに嗅がせるように、と。そうすれば彼女を従順にすることができると書いてあった。だが……結果はどうなったのか……。覚えていない……」
「奴らの数は?」
「分からない。ほ、本当に分からないんだ。接触は全て報石を通してのものだった」
大司教は机の引き出しを開ける。男は何かを掴むと、顔に近づけて確認した。報石だった。
「そ、その刻印だ……」
男はしばらく石を凝視していた。刻印を目に焼き付けているのだろう。それから引き出しに石を戻した。
「見返りは何だ?」
「か、彼らの企みが成功すれば……聖地は彼らの思いのままとなる……。そうなったら……こ、子供たちを私にくれると……」
男はふーっと息を吐いた。間髪入れず、机の上に置かれていた分厚い聖書に刀を突きたてた。
「貴様は大聖堂の教義を外れた……。許されるものではない……」
聖書は煙を上げる。
「覚えておけ、俺は貴様を見ている。この聖地にいる限り、どこに行き、何をしようとも、貴様から目を離さない」
大司教は喉の奥で悲鳴を上げた。そして、気を失った。
男は大司教の机を漁っていたが、ふと振り返った。そして、アテナと目が合った。男は微かに体を揺らした。それは動揺かもしれなかった。だが、それを感じさせるには、彼のまとった雰囲気はあまりにも殺伐とし過ぎていた。今にも握ったその刀で切り刻まれそうで、普通の子ならばそこで気絶していただろう。男もそれを期待していたはずだ。だが、アテナは不思議と恐怖を感じなかった。
「ジュノー姉様……?」
アテナはポツリと呟いた。
なぜ、そう思ったのかは分からない。しかし、冷酷に見える男のどこかに、ジュノーを感じた。どこに――それは、男が発した言葉かもしれない。二人だけで話す時、ジュノーがよく口にする言葉を、男が発したから――それだけのことかも知れなかった。
男はすぐに刀の光を消した。部屋は真っ暗になる。アテナはベッドから降り、部屋の灯石をつけた。男の姿は既になかった。
大司教は男のことを審問官と呼んでいた。異端審問官なる者たちが存在することは、当然ながらアテナも知っていた。本来なら彼女に見ることはできないが、ジュノーは同一化していた。だから、アテナにも視認することができた。
アテナは最近見た悪夢を思い出す。ジュノーにも相談した夢……内容なんて起きた傍から忘れていたが、それがとても不快で、恐ろしいものだったことは覚えている。力無き弱者を徹底的に蹂躙するような、そんな酷い夢だった。でも、何よりも恐ろしかったのは……夢の中の自分が愉悦に浸っていたことだった。
男が被っていた仮面……ゲブラー派の印の入った仮面。初めて見たはずなのに、知っている気がした。どこかで見たことがあるような――。赤く光る小刀。戦うことに特化したような装束……。ただの勘違い。記憶のすり替えで初めて見た物を既視の物だと思ってしまった、それだけのこと。普通ならそう考える。だが、アテナは違った。その意味を考えてしまった。知らないはずの知識が、自分の頭の中にあるその意味を――。
彼女は苦しむことになった。毎夜見る夢が悪夢に変わり、肉体的にも精神的にも追い詰められた。見るのはいつも同じ悪夢だった。知らない自分がそこにいた。暴力を生きがいとするような、無慈悲な少女。悲鳴を上げさせることに快感を覚える異常者。それが自分の中にある凶暴性であることを、アテナはもう疑わなかった。
もう一人の自分が存在し、知らない内に行動している。自分の身体に残る、わずかな痕跡――例えば爪が微かに割れていたり、覚えのない痣を見つけたりした時に、アテナはそれを強く自覚した。二人の入れ替わりはとても巧妙に行われているらしかった。大聖堂が関わっていることは間違いない。それが何を意味するか。大聖堂が関わる公然の秘密で、夢に見たような恐怖の存在と言えば――答えに辿り着くまでに、大して時間はかからなかった。そして、アテナは自分が審問官であることに気づいた。
「もう一人の自分との接触以外に気づくこともあるのか」、言葉だけは驚いているようにウィンストンは言った。
「昔から……自分の中に何かを感じていました。聖人信仰のいうところの二面性だと信じていましたが……私は以前から自分を疑っていたのかもしれません」
「悪かった。お前を苦しめていたなんて知らなかった」と、僕は言った。
「いいえ、あなたはただ生きていただけ。謝る必要なんてないわ」
「そう言ってもらえると救われるよ――」
「だから一人で会話するな」と、ウィンストンが言った。
アテナは一方的に僕の存在に気づいた。それが、彼女の言う意識の壁に生じた穴だったのだろう。彼女は僕の意識を侵し、ついには一時的な乗っ取りまで可能とした。それはこのウィンストンでも、ジュノーでもできなかったことだ。
何という凄い子なのだろうか。アテナに対する僕の敬愛の情は深まるばかりだ。同じ人間なのに変な話だが、やはり表の自分が凄い子というのは嬉しいものだ。
やがて、ウィンストンの姿が壁の中に消えた。何だ? 僕は立ち止まる。すると、壁の中から現れ、「早く来い」と言った。僕は位置を変え、ウィンストンが立っていた場所へと移る。なるほど。ある角度からでないと分からない、細い通路がそこにはあった。壁の模様などから巧妙に偽装され、実際に手で触れてみないと道だと分からないくらいだ。知らなければ絶対に気づけないだろう。
そのまま隘路を進んで行くと、やがて幅は広くなり、その果てに大きな扉が現れた。これが、公然の秘密となっていた存在しないはずの部屋。長老たちに見守られ、多くの者たちがここに入り、二度と戻って来なかった。
「この先に長老様たちがいるんだな?」、僕はそう言うとウィンストンを見る。
「くれぐれも失礼の無いようにしろ」
「分かっている」
扉を開け、中に入った。
長い通路が続いていた。足元に灯石の光が続いている。
人影が現れる。通路の端に、ずらりと人が並んでいた。魔石の彫像だった。大聖堂にあるものと同じ類のものだ。それぞれが今にも動き出しそうな生々しい造形をしている。助けを求め、手を伸ばしているもの。顔を覆い、絶望に浸っているもの。怯えているもの。鬼気迫るような、凄い傑作群だ。
「この像は誰が造ったんだ?」
「ここを進めば分かる」
女のすすり泣く声が聞こえて来た。やがて開けた場所に出る。天井からいくつもの柱が伸びており、そのまま地を貫いてさらなる地下へと続いていた。
「あれは大聖堂の尖塔か?」
ウィンストンはコクリと肯いた。
であれば、僕たちはずいぶんと歩いた気がしていたが、ぐるぐると回って大聖堂の真下に戻って来たということか。
床には巨大な魔法陣が敷かれていた。いくつもの柱に貫かれ、大きな陣と、それに隣接した小さな陣が並んでいる。その大きな陣の中心に、誰かがいた。泣き声の正体はあいつか。全裸の女で、哀れなほどに怯えている。女には頭から獣の耳が生えていた。恐らく、ワーミーの仲間だろう。獣人族の混血が混ざっていたのか。
「みんな、みんな……どこぉ?」
半獣人の女は叫ぶ。「暗いよぉ……やだぁ……。みんなぁ、どこにいるのぉ?」
「暗い?」
「視力を失くしているのだろう。あいつは暗闇が好きなようだ」
少女を見るウィンストンの目は、まるで氷のように冷たかった。
「なるほど」
審問して心象風景を覗いたのか。
「見ていろ」
ウィンストンがそう言うのと同時に、柱たちに光が走った。それから、床の魔法陣が発光する。異変を察したのか、半獣人は走ろうとする。だが、もはや足は動かない。石化はみるみる上半身にまで広がっていく。
「うわぁああッ! ぃやだぁ、いやだぁああっ! ルビー! ルビィイイイッ!」
断末魔と共に、少女は魔石になってしまった。
そうだったのか。
大聖堂の魔石彫刻たち……。その原材料は大聖堂の地下に眠る豊富な魔鉱石だと言われていた。違うのだ。魔鉱石は採掘されたものではない。地下で見た、通路を運ばれて行く者たち……。あれが薄色魔石の材料だったのか? 一体どういう者たちだろう――なんて、決まっているか。
都市で出た死体は、死体運びによって全て大聖堂に運ばれることになっている。そこで心臓を抜かれ、再び棺舟で湖へと運ばれるが、心臓は聖匣に入れられて棺と共に燃やされる。
恐らく、棺は空っぽだったのだろう。大聖堂は遺体を魔石に変えていたのだ。だが、僕が見た台車の者たちはまだ生きていた。島送りにされた者たちや、孤児たちにも仮洗礼を施して運んでいたのだろうが……もしかすると、それ以外にも……。
「……いいのか?」と、僕はウィンストンに訊ねる。
「当然だ」と、間髪入れずにウィンストンは言った。「聖地を運営するためには、どうしても魔石が必要になる。それを聖地の中で補えるのなら、これほど効率のいいことはない。大聖堂の力になれるのは光栄なことだ。聖地に生まれし全ての者はそれを望んでいる。あの半獣人も、あの姿でなら大聖堂に貢献することができる」
「違う。ルビウスたちに仲間を返すと約束していただろう」
「何を……奴らもこちらが約束を守るなどとは考えていないだろう。気づかなかったのか? 奴らはまだ何かを企んでいる。明日の聖誕祭で何かを起こすつもりだ。だからこそ、要塞化した都市の餌食とした。今夜、奴らは討伐される。いかに力を持っていようが、都市の攻撃に耐えられるものではない」
「強かな奴だ」
魔法陣の発光が終わると、部屋の隅に動く物があった。二人の年老いた老人……その内の一人には見覚えがあった。前に子供たちを引率をしていた長老様だ。
長老様たちはゆっくりとした足取りで陣の中に入り、半獣人の像を間近で眺める。
「さすがはワーミー。久方ぶりの良質な石だ」
「これならあの方々にも喜んでもらえるだろう」
二人はそう言うと、人を呼んだ。隅の暗闇の中から赤い布で顔を覆った者が現れ、半獣人の石像を運び出す。
「おや?」
そこで初めて僕たちに気づいたようだった。
「そうか、柱の方々に呼ばれたのだね?」
「はい。ボルドー様に謁見願います」
「よろしい。ついて来給え」
そう言うと、奥の扉へと歩いて行く。
柱の方々?
長老のさらに上が存在するというのだろうか。それとも、一口に長老と言っても、序列があるのか。
扉の先には、通路はなかった。バルコニーのような、突き出た場所があるだけだった。周囲には先も見通せない暗闇があるばかりだ。長老様はバルコニーに彫像を置かせた。それから、周囲から人払いをする。僕たちは壁際まで下がり、様子を見守った。
ぽつ、ぽつと暗闇の中に光が灯る。
闇の中に浮かび上がったのは、大きな塔だった。大聖堂の主塔だ。側面には、かなり緻密なレリーフが掘られていた。中心に巨大な人間の顔があり、その下に小さな顔が並んでいた。全員が老人だった。あれも元は人間だったりするのだろうか。
すると、中心の大きな顔の目が開いた。
「美しい……」
老人が言った。
生きているんだ。彼の言葉と共に、頭上から明かりが差し込み、半獣人の石像を照らした。
「獣の耳が与える、この奇妙な違和感……。人間であって、人間ではない異形……。他の魔石彫刻では出せない魅力だ。怯えた姿には胸が痛んでしまうが、それもまた艶めかしい生として形になっている……。輝きも十分……魔力に優れたワーミーの中でも相当の魔力を有していたのだろう」
ウィンストンが僕に耳打ちをする。
「あの中心のお方。あの方こそがボルドー大長老様だ」
「大長老……!?」
「長老たちの長にして、この聖地に永き安寧をもたらしているお方だ」
そんな人がいたなんて。
ボルドー大長老だけでなく、他の顔たちも話し始める。恐らくは、あれらも高名な長老たちなのだろう。理由は分からないが、彼らは大聖堂の主塔と同化しているらしい。
「ヴィクトリア」と、長老の一人が言った。
ウィンストンは背筋を伸ばし、一歩前に出る。
「まもなく四つ目の日が終わる。儀式は順調だろうね」
「はい。つつがなく進行しております」と、ウィンストンは頭を下げる。「ただ、先も言いましたように、ヴェルメリオ派の計画も同時に進行しています。彼らは必ずこの地下を陥れ、制圧してしまうでしょう。ここにも姿を現すはずです」
「我らのことなどどうでもいいが……「聖儀式の邪魔をされるのだけは困る「ジュノー・オブライエンもいない今、阻止することは難しいか」
小さな顔の長老たちは、同時に話し始めた。話し声が重なって非常に聞き取り辛いが、文句など言えるはずがない。
「だからこそ、その子を呼んでもらったのだよ」
大長老の声だ。すると、天から光が差し、僕を照らした。
「異端審問官のモモだね」
「はい、そうです」
僕はそう言うと、頭を下げる。
「少しお話をしようか」
大長老がそう言うと、ウィンストンは深くお辞儀をして下がった。半獣人の魔石像も運ばれ、その場には僕だけが残された。




