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聖週間の少女たち  作者: 雲丹深淵
第四章 モモの審問
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審問

 

 そこは嫌な場所だった。


 目を開けなくても分かる。腐ったような臭い、ジメジメした地面、手足の上を這いずる不快な奴ら、何より、ずっと悲鳴が聞こえているから。


 やれやれだ。目を開けると、まず飛び込んできたのは虫けら。細長い体に足がいっぱい生えている奴が僕の体を這い回っていた。足がチクチクするなと思えば、長い触角のある黒い奴らが群がっていた。僕は下着姿でそこにいた。頭の上で手首を壁に固定されていて、逃げることはできない。顔に上って来た虫けらを排除することさえできなかった。


 部屋には扉の他は特に何もなかった。凍てつく冷気を感じさせるような鉄の扉で、外界との隔絶を意識させるには十分だった。僕はもう、生きてここを出ることはないのだろう。


 どうやら審問部屋のようだった。

 しかし、こんな汚い部屋は知らない。ここはどこだろう。あの、入った者は一人として出て来ない『誰も知らない』部屋だろうか。なるほど。僕は用済みということか。別段、怒りは湧かなかった。悲しくもなかったし、怖いとも思わなかった。


 遠くの方から、足音が聞こえて来た。悲鳴はまだ続いている。足音はゆっくりと近づいてくる。一歩、一歩。僕に確かな絶望を与えるように。

 扉の向こうで、足音が止まった。僕は扉へと目を向ける。向こうの方でも僕が見ていることは分かっている。僕の一挙手一投足を注意深く観察していた。なぜだか、そう思った。扉を隔てて、僕たちは睨み合っていた。


「何故、審問官は存在するのか」


 声が聞こえた。

 誰だ? コーデリア様でも、ロッソでもカルミルでもメラハでも、グレンでもない。そして、扉の向こう側からでもない。頭の中に直接響いて来るような、不思議な声だ。


「誰だ」と、僕は言った。


「何故、審問官は存在するのか」


 声は繰り返す。


「姿を見せろ」


「何故、審問官は存在するのか」


 無視か。ろくでもない奴め。


「何故だと? 決まっている。聖地を脅かす者たちを排除するためだ」


 僕は答えた。


「それは建前であり、本質ではない」


「本質……?」


 僕はしばし考える。何故、審問官は存在するのか……。


「人々の信仰心を維持するためだ。人々が聖人様を敬う心がなければ信仰とは成り立ちえない。しかし、人の心などすぐに離れていくもの。異端が現れ、甘言で堕落に誘えば弱い人はそちらに流れてしまう。審問官とは堰の役割を果たしている。人々の目を覚まさせ、そして異端を根絶するために存在する」


「それは一方的な物の見方だ。そもそも異端とは何か。正統は何か。正統は絶対のものなのか? 長い歴史の中では、異端が正統になり替わることもある。異端もまた正統である」


「そんなはずがない」


「社会には統制が必要である以上、便宜的に多数派を正義としているだけに過ぎない。そこでは中身の真贋など考慮されない。正統は異端であり、異端は正統である。信仰の最大の目的が人々の幸福の追求であるとするならば、異端の排斥は必ずしも正しいこととは限らない」


「それでは混乱を招くだけだ」


「信仰とは人々に幸福をもたらすための道具に過ぎない。であるならば、正閏せいじゅんは重要ではない。信じる者を幸福に導くのであれば、全ての信仰が正しいのだ。異なる分派や異教が互いに提携し、絶対の幸福に導くことこそが本来のあり方である。そこでは異端の根絶は必要ない。異端審問官は必要ではない」


 審問官は必要ではない。

 必要ではない……?


 声がする。


「審問は正しい行いなのか?」


 間髪入れず、僕は答える。


「人間は心に闇を持つ。二元性は聖人信仰の重要な教義の一つだ。人の闇は伝染していく。それは人を幸福には導かない。闇はどこにも繋がらない。闇が伝播する前に、断つ必要がある。それが審問だ。人間は社会的な存在だ。一人では生きてはいけない。他者と関わり合う以上、脅威は常に存在する。たとえ柵に囲まれていても、内側から病が発生すれば全滅してしまうのだ。闇は排斥しなければならない。そうすればこそ、信仰は正しく保たれる。だからこそ大聖堂は教戒師を使い、人々を監視しているのではないのか」


「欺瞞だ」、声は一蹴した。「人の意思とは本来自由なものである。それを大聖堂の下に統一しようとするのは洗脳に他ならない。強制は信仰ではない。過ぎた監視の下には幸福はない。人の幸福を奪うのは唾棄すべき行為である」


「綺麗ごとをいうな。だとしたら、何故審問は肯定されている?」


「聖人様の存在があるからだ。大聖堂の監視とは所詮は表面的なものにすぎない。聖人様は誰の心の中にもおり、内から人々を見守っている。聖人様を裏切る行為こそが絶対の罪である。審問とは聖人様と自己との対話に他ならない。審問官とはその手伝いをしているに過ぎないのだ。信仰心が高まれば、審問とは本来なら自己完結するもので、審問官など必要ないのだ」


「違う。悪は聖人様にも自己を偽る。保身のために嘘を吐く。だからこそ、僕らの力を行使して本心を曝け出させなければならない」


「その結果がヴェルメリオ派の増殖ではないのか。お前たち審問官は利用され、奴らの数を増やす手伝いをした。悪を増やす行為が正しいわけがない。お前たちの審問など必要ない」


 必要ない。

 必要ない。

 必要ない――。


 これは何だ? この声の主は何者だ。不愉快だ。僕を根底から否定しようとしている。僕の生きている理由を奪っていく……。

 いつの間にか、悲鳴が大きくなっている。僕の耳元で聞こえるような……。それも、一人ではない。無数の人間の悲鳴だ。


 声がする。


「何故、審問に暴力を用いるのか?」


「暴力は……人の心を壊すことができるから。人が人を従わせるために行われる、もっとも原始的な行為……。人の意識を薄め、自我を狂わせることができる。誰だって暴力を使う。原始的だからこそ、普遍的なんだ。いつの時代だって、暴力は暴力によって肯定されてきた」


「お前は正しい。暴力とははるか昔から行われてきた支配の道具。秩序は常に暴力によって維持されてきた。社会において力の行使は上下を決定づけるものだ。いつだって殴る者は上位であり、殴られるものは下位に甘んずる。下位同士でまとめたところで、結局暴力は行われる。それが生という事象に付随するものだからだ。拳で、牙で、あらゆる手段を用いて、暴力は世界のどこでも行われている。だが、暴力は普遍ではあるが、万能ではない。こと審問においては、言葉による対話こそが万能である。対話とは人間だけに与えられた最も高等な行為だ。そこには拳も牙も必要ない。しかしお前はもっとも原始的な行為を選んだ。お前は暴力に頼ったのだ」


「僕が……暴力行為に依存しているというのか?」


「審問官モモは暴力を肯定する」と、声は言った。「相手に背信を認めさせ、それを合図に徹底的な破壊を行う。そこに慈悲はなく、理性もない。お前は暴力によってでしか自分の存在を証明できないからだ。お前の過ぎた暴力は自分自身を肯定するためだ。それは矯正ではない。聖人様の代行という形でのみ矯正は許可されている。だが、いかなる場合においても私欲の暴力は罪である。モモは審問官としてふさわしくない」


 ふさわしくない。

 ふさわしくない。

 ふさわしくない――。


「違う、違う……!」


 やめろ。僕は異端審問官だ。審問をするために生まれて来た。そういう風に育てたのは大聖堂じゃないか! どうして今さら否定するんだ。ふざけるな……!


 声がする。


「審問官モモとは何者なのか」


「大聖堂の意のままに行為を執行する者だ」


「何をしてきた?」


「背信の疑いのある者を審問にかけてきた。闇を心に抱く者たちを敬虔な信徒に戻した。島送りにした」


「何のために?」


「人々が信仰を見失わないために! 全ては大聖堂のためだ!」


「違う。お前はコーデリアに認められたかっただけだ。褒めてもらいたかっただけだ」


「そんなはずはない!!」


「審問官としての立場を利用し、審問という名の暴力を用いて人々を痛めつけることで己の欲を満たしていたのだ。自分が万能であると錯覚し、大聖堂の教えを逸脱した。お前は咎人ではないのか」


「咎人? 咎人だと……?」


 どうしてそんなことを言う? 僕は求められるままに審問を行って来ただけなのに。それが悪いことだというのか? 僕に罪があるというのか? 僕は今……僕の罪を裁かれているのか?


「お前は聖人様の代行者を気取り、不当に暴力を行使して信者たちを傷つけていた。彼らは良き信徒になったのではない。画一化を強制されただけだ。大聖堂はそんなことを望んではいなかった。その結果、ヴェルメリオ派を蔓延らせ、もう取り返しがつかない事態に陥った。お前は誤った。聖地を貶めていたのはお前だ、モモ」


「では僕は……僕は……どうすればいい?」


「審問官が己の行為の責任をとる方法は常に一つだ」


 たった一つの方法。


 ぽつりと僕は呟く。「死……?」


 直後、扉が開いた。人型の何かがそこにいた。だが、それを視認できたのは一瞬だけ。すぐに爆発のような悲鳴が聞こえたかと思えば、闇の洪水が僕を飲み込んだ。真っ暗闇の中で、悲鳴の数だけ人間の顔や手が現れる。悲鳴には怒りが混じっていた。彼らは僕を糾弾しているんだ。罪を犯した僕を絶対に許さないと言っているんだ。


 闇に全身どっぷりと浸かり、誰だか知らない者たちに責められ、掴まれる。彼らはきっと、僕が審問して来た人なのだろう。でも、僕は一人として覚えていない。背信者の顔や名前になんか興味もなかったからだ。恨んで当然だ。許せないのが当然だ。彼らの呪詛を受け、自分が闇の中に溶けていくのを感じる。それがとてもありがたいことに思えた。この狂った状態が、僕にはとても心地のよいものに感じられた。


 体が沈んでいく感覚があった。底に、底に。ああ、このまま連れて行ってくれるのだ。この世の向こう、闇の行き着く先まで。


 その時、唐突に理解した。 

 僕を審問したあの声。誰だかも分からなかったあの声。だけど、僕は知っていたんだ。それに気づいた瞬間、全てが当然で、自然なことなんだと思えた。


 あの声は、僕の声だ。


 僕が自分で自分を審問していたのだ。これが、審問官を消去する方法。徹底的な自己否定によって、自殺に導く。上手くできている。


 このまま沈んで行けば、全てを終わらせることができる。僕は僕を失い、肉体はあの子だけの物になる。その時が来たんだ。僕はもう、生きている必要なんてないんだ。誰にもそれを望まれていない。自分でさえ望んでいない。僕を受け入れてくれるのは、この漆黒の闇だけなんだ――。


「ダメよ!」


 誰かが叫んだ。


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